第65話 終わりのない物語と、明日への足跡
あれから、五年の月日が流れた。
フェルナ村の朝は、相変わらず賑やかだ。
カン、カンと農具を打つ乾いた音。
畑仕事に向かう村人たちの、元気な掛け声。
そして、青空を背にしてゆっくりと回る、村のシンボルとなった巨大な風車の音。
かつて「奇跡」が消えた世界は、滅びるどころか、より一層の活気に満ちていた。
*
『……というわけで、昔々、この世界には「魔法」や「奇跡」というものがありました』
村の学校。
リゼルは黒板にチョークで文字を書き終えると、振り返って微笑んだ。
教室には、すっかり背が伸びたレオたちの姿と、新しく村に増えた小さな子供たちの姿があった。
『先生も、魔法が使えたの?』
一番前の席に座る小さな女の子が、目を輝かせて尋ねる。
『ええ。怪我を一瞬で治したり、暗い夜に光を出したりできたのよ』
『すっげー! 俺も見たかったなー!』
子供たちが口々に歓声を上げる。
「奇跡」を知らない世代が、こうして育ち始めているのだ。
『でもね』
リゼルは教卓に手をつき、一人一人の顔を優しく見渡した。
『魔法がない今のほうが、ずっとずっと素敵なのよ』
『どうして?』
『だって、魔法がなくてもみんな、怪我をしたら薬草を塗って治せるでしょう? 暗い夜には、自分たちで火を灯せるでしょう?』
子供たちが、うんうんと頷く。
『奇跡に頼らないということは、転んでも、自分の力で立ち上がる強さを持てるということ。……それが、人間の一番の「魔法」なのよ』
子供たちは真剣な顔で、リゼルの言葉を聞き入っていた。
かつての偽りの神が奪おうとした「選択する自由」と「生きる強さ」。
それは今、この教室の中で、確かに次の世代へと受け継がれている。
『おーい、リゼル。そろそろお昼だぞー』
窓の外から、日に焼けた逞しい男が顔を出した。
トムさん……いや、今は私の「旦那様」だ。
その太い腕の中には、銀色の柔らかい髪をした、二歳になる小さな男の子が抱かれている。
『あ、パパだ!』
『ルカだー!』
子供たちがわあっと窓際に集まる。
リゼルとトムの間に生まれた新しい命、ルカ。
彼は父親譲りの人懐っこい笑顔で、きゃっきゃと手を叩いた。
『お疲れ様、トムさん。ルカも、いい子にしてた?』
『ああ。マサばあちゃんの畑で、泥だらけになって遊んでたぜ。おかげで俺までドロドロだ』
トムさんが苦笑しながら、ルカの鼻の頭についた泥を拭う。
夫婦になった今でも、彼らの温かい関係は変わらない。
むしろ、家族という絆が加わり、より深く、かけがえのないものになっていた。
『さあ、今日の授業はここまで! みんな、手を洗ってご飯にしましょう』
『はーい!』
*
午後。
リゼルたち三人は、村の高台にある芝生でピクニックをしていた。
見渡す限りの、透き通るような青空。
あのおぞましい亀裂は、もうどこにもない。
『そういえば、昨日シルフィが来たぞ』
サンドイッチを頬張りながら、トムさんが言った。
シルフィは今、自慢の風読みの力を活かして、王都と各地の村を繋ぐ「郵便配達員」として世界中を飛び回っている。
風を纏った彼女の足は、どんな馬車よりも速いのだ。
『アレクシスやミナからの手紙を置いていった。……王都の新しい病院、ついに完成したらしいぞ』
『本当!? よかった……ミナ、ずっと頑張っていたものね』
リゼルは胸が温かくなるのを感じた。
アレクシス殿下も、自ら鍬を持ち、民と共に新しい国作りを進めているという。
誰もが自分の足で歩き、新しい歴史を刻んでいる。
『いい天気だな』
『ええ、本当に』
リゼルはルカを抱き上げ、その柔らかい頬に自分の頬をすり寄せた。
ルカから、お日様と土の匂いがした。
『私……あの時、退職届を出して本当によかった』
リゼルがぽつりとこぼすと、トムさんは大声で笑った。
『はははっ! 違いねぇ。おかげで俺は、世界で一番手のかかる、最高の奥さんと出会えたんだからな』
『もう、手がかかるは余計ですよ!』
リゼルが唇を尖らせると、トムさんがその肩をグッと引き寄せた。
『これからもよろしくな、船長』
『……はい。相棒』
二人は顔を見合わせ、声を出して笑い合った。
ルカもつられて、無邪気な笑い声を上げる。
もう、頭の中に神様からの声は聞こえない。
世界を救うという、重たい使命もない。
けれど、耳を澄ませば、愛する人たちの笑い声がすぐそばで聞こえる。
風の音、鳥のさえずり、命の息吹。
(私の人生は、ここからが本番よ)
終わりのない物語。
その真っ白なページに、明日もまた、新しい足跡を刻んでいくのだ。
聖女を辞めた少女は、果てしなく続く青空に向かって、とびきりの笑顔を向けた。
【第65話・完】
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