王様と幻のシチュー、あるいは最高の休日
平和なフェルナ村の入り口に、不審な二つの影が忍び寄っていた。
目深にフードを被った大柄な男と、大きな荷物を抱えた女性。
二人はキョロキョロと周囲を警戒しながら、村の道を歩いている。
『……本当に、ここで合っているのだろうな?』
『はい。シルフィさんから頂いた地図によれば、この先の高台にある家がリゼル様のお住まいかと』
男がフードを少しだけ上げる。
そこから覗いたのは、鋭い眼光と、整いすぎた顔立ち。
この国の若き国王、アレクシスその人であった。
そして隣にいるのは、王都の医療長にまで登り詰めたミナだ。
『ふむ。しかし、長閑なところだな』
『ええ、空気がとっても美味しいです!』
二人は今、完全な「お忍び」でフェルナ村を訪れていた。
激務に次ぐ激務で倒れかけた国王を見かねて、側近たちが強引に休みを取らせたのだ。
アレクシスの目的はただ一つ。
『今日こそ……あの「幻のシチュー」の秘密を暴いてみせる』
アレクシスは、ゴクリと喉を鳴らした。
五年前の王都防衛戦で、あの破天荒な大男と老婆が作ってくれた野菜シチュー。
あの味が忘れられず、王宮の料理長に何度も作らせたが、どうしても同じ味にならない。
『きっと、何か特別な隠し味があるはずだ。元聖女の秘術かもしれない』
『陛下……リゼル様はもう魔法は使えませんよ?』
ミナが呆れたように笑う。
そんな会話をしながら高台の家へ辿り着くと、庭先で洗濯物を干している見慣れた後ろ姿があった。
『リゼル様!』
ミナの声に、銀髪の女性が振り返る。
『……えっ? ミナ!? それに、殿下……じゃなくて、陛下!?』
リゼルは持っていたシーツをバサッと落とし、目を丸くした。
『どうしてここに!? 護衛の方たちは!?』
『完全なお忍びだ。……突然すまない、リゼル』
アレクシスがフードを取って微笑む。
そこへ、家の中からドタバタと元気な足音が聞こえてきた。
『ママー! ルカ、お腹しゅいたー!』
飛び出してきたのは、リゼルの銀髪と、夫であるトムの面影を併せ持つ三歳の男の子だ。
『あらあら、ルカ。ご挨拶してね。ママの大切なお友達よ』
『おともだち?』
ルカは不思議そうに小首を傾げ、アレクシスを見上げた。
そして、トテトテと歩み寄ると、そのズボンの裾をギュッと掴んだ。
『おじちゃん、だぁれ?』
お、おじちゃん。
一国の王に向かって放たれた無邪気な言葉に、ミナが青ざめる。
『る、ルカくん! この方はですね……!』
『はははっ! 構わんよ、ミナ』
アレクシスは笑ってしゃがみ込み、ルカと目線を合わせた。
『私はアレクシスだ。君のパパとママには、昔ちょっとだけ世話になってね』
『あーくしす?』
『ああ。よろしく頼むよ、ルカ殿』
二人が和やかに握手をしていると、畑仕事から帰ってきたトムが、鍬を肩に担いで現れた。
『おう、帰ったぞー。……って、なんで王様がウチの庭で息子と遊んでんだ!?』
*
『なるほどな。過労で倒れる前に、休みを押し付けられたってわけか』
居間のテーブルを囲みながら、トムが呆れたように麦茶を飲む。
アレクシスは少しバツが悪そうに咳払いをした。
『まあ、そういうことだ。国政は安定してきたが、やるべきことは山積みでな』
『陛下は本当に休まれないんです。昨日も徹夜で法案の決裁を……』
ミナが心配そうに付け加える。
リゼルは優しく微笑んで、焼きたてのクッキーをテーブルに置いた。
『よく来てくださいました。せっかくの休日なんですから、ここでは国のことは忘れて、ゆっくり羽を伸ばしてくださいね』
『ああ、感謝する。……ところで、リゼル』
『はい?』
『さっそくだが、あの「シチュー」のレシピを教えてくれないか』
アレクシスは、真剣そのものの瞳で身を乗り出した。
『王宮の料理長が、何度作ってもあの味にならないのだ! 一体どんな希少なスパイスを使っている!?』
その言葉に、リゼルとトムは顔を見合わせ……そして、盛大に吹き出した。
『ふふっ! あはははっ!』
『はーっはっは! 王様、あんた本気で言ってんのか!?』
『な、なぜ笑うのだ!?』
むくれるアレクシスに、トムがニヤリと笑って立ち上がった。
『希少なスパイスなんか、使ってねぇよ。……そんなに知りたいなら、手伝ってもらおうか』
『手伝う?』
『ああ。最高のシチューを作るための「下準備」だ。付いてきな、王様』
*
一時間後。
フェルナ村の裏山には、見慣れない光景が広がっていた。
『ふんぬぅぅぅッ!!』
パカァァァンッ!!
アレクシスが斧を振り下ろし、丸太を真っ二つに割る。
見事な剣術で鍛え上げられた腕力は、薪割りでも大いに威力を発揮していた。
だが、その服装は高級なシルクのシャツではなく、トムから借りたダボダボの作業着だ。
『おう、いい筋してんじゃねぇか! 次はこっちの畑だ!』
『はぁっ……はぁっ……! これのどこが、シチューの準備なのだ!』
息を切らすアレクシスを、トムは容赦なく畑へと連行する。
『バカ言え。薪がなきゃ火は起こせねぇし、野菜を収穫しなきゃ鍋に入れられねぇだろ』
『そ、それはそうだが……!』
アレクシスは泥だらけになりながら、大きなジャガイモを土から引き抜いた。
『おおっ! これは立派なイモだな!』
『だろ? 俺が丹精込めて作ったイモだ。王宮の農園にも負けねぇぜ』
『ふっ……確かに、これは美味そうだ』
土に触れ、汗を流す。
王宮の執務室でペンを握り続けていたアレクシスにとって、それは何年ぶりかの「肉体労働」だった。
不思議と、心は驚くほど軽かった。
一方、台所では、リゼルとミナが野菜の皮むきをしながらお喋りに花を咲かせていた。
『病院のほうはどう、ミナ?』
『はい! 最近は、薬草の成分を抽出する新しい技術が開発されまして……』
ミナは目を輝かせて、医療の進歩について語る。
魔法がなくても、人は少しずつ、着実に病に立ち向かう術を身につけているのだ。
『すごいわね。ミナは立派な医療長さんだわ』
『とんでもない! まだまだ、リゼル様には敵いません』
ミナは照れくさそうに笑い、包丁を持つ手を止めた。
『……でも、本当に良かった』
『え?』
『リゼル様が、こんなに幸せそうに笑っていてくれて。……昔の大聖堂では、あんなに苦しそうだったから』
ミナの目から、ポロリと涙がこぼれる。
リゼルは優しく微笑み、ミナの手を握った。
『ありがとう、ミナ。……私も、ミナが自分の夢を見つけてくれて、本当に嬉しいわ』
二人は顔を見合わせ、温かい涙を拭い合った。
『あー! ミナおねえちゃん、ないてるー!』
つまみ食いに来たルカが、不思議そうに指を差す。
『ち、違いますよー! 玉ねぎが目に染みただけですっ!』
『ふふっ、さあ、ルカもお手伝いしてね。お鍋にお野菜を入れてちょうだい』
『はーい!』
*
日が沈み、村に涼しい夜風が吹き始めた頃。
トム家の庭には、大きなテーブルが出され、ランタンの温かい光が灯っていた。
『さあ、できたわよー!』
リゼルが、湯気を立てる大きな鍋を運んでくる。
マサばあちゃん直伝、フェルナ村特製の野菜シチューだ。
アレクシスとトムが、泥を落としてテーブルに着く。
『うおお……いい匂いだ……!』
『ほら、たくさん働きやがったんだ。たっぷり食えよ、王様』
トムが、アレクシスの皿になみなみとシチューをよそう。
ゴロゴロとしたジャガイモ、甘いニンジン、そして香ばしい鶏肉。
アレクシスはスプーンを取り、一口、口に運んだ。
『…………!』
途端に、アレクシスの目が見開かれる。
これだ。
五年前、絶望の淵にあった王都で食べた、あの命を呼び覚ますような味。
いや、あの時よりもさらに深い、優しくて力強い味わいが口いっぱいに広がる。
『美味い……! 美味すぎる……!!』
アレクシスは夢中になってシチューを頬張った。
王室の作法など関係ない。ただ、本能のままに胃袋へ流し込む。
『あははっ、陛下、お口の周りが汚れてますよ!』
ミナがハンカチを差し出すが、アレクシスは気にも留めない。
『おかわりだ! トム、もっと注いでくれ!』
『おうよ! 鍋ごといけ!』
笑い声が、夜空に響き渡る。
三杯目を平らげたアレクシスは、ふう、と深く息を吐き、満足げに背もたれに寄りかかった。
『……リゼル。結局、幻のスパイスは何だったのだ?』
アレクシスの問いに、リゼルはトムと顔を見合わせて微笑んだ。
『スパイスなんて、本当に使っていないんです。ただのお塩と、少しのハーブだけ』
『では、なぜこんなにも……』
リゼルは、庭の畑と、テーブルを囲むみんなを指差した。
『秘密があるとしたら、これです』
『これ?』
『自分たちで汗を流して育てた野菜。自分で割った薪の火。……そして、気の置けない仲間と一緒に、笑いながら食べること』
リゼルは、アレクシスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
『どんな高級な食材も、一人で冷たい部屋で食べるより……こうして、泥だらけになって、みんなで囲む食卓には敵わないんですよ』
その言葉に、アレクシスはハッと息を呑んだ。
王宮で一人、難しい顔をして食べていたシチュー。
味が違うはずだ。
足りなかったのは、食材ではない。「一緒に笑い合う時間」だったのだ。
『……完敗だな』
アレクシスは、フッと優しく笑った。
憑き物が落ちたような、とても穏やかな王の顔だった。
『こんな魔法を見せられては、王宮の料理長も形無しだ。……素晴らしいご馳走だった、リゼル、トム』
『へっ。またいつでも食いに来な。薪割りから手伝わせるけどな』
トムがニヤリと笑う。
ルカが、アレクシスの膝によじ登ってきた。
『あーくしす、またきーてね!』
『ああ。約束しよう、ルカ殿』
アレクシスはルカの頭を撫で、夜空を見上げた。
満天の星が、五年前と同じように輝いている。
奇跡はない。魔法もない。
けれど、この世界はこんなにも美味しくて、温かい。
*
翌朝。
すっかりリフレッシュしたアレクシスとミナは、王都への帰路についた。
二人の表情は、昨日村へ来た時よりもずっと明るく、足取りも軽い。
『……さあ、また明日から頑張らねばな』
『はい、陛下! 今度は、シルフィさんも交えて皆でお茶会をしましょう!』
遠ざかっていく二人の背中を、リゼルとトム、そしてルカが手を振って見送る。
『嵐みたいな休日だったな』
トムが苦笑しながら言うと、リゼルは楽しそうに笑った。
『でも、とっても良い顔をして帰っていきましたよ』
『違いない。……さて、俺たちも「日常」に戻るか』
『ええ。さあルカ、学校に行く準備をしましょうね』
リゼルはルカの手を引き、家へと歩き出す。
今日もまた、いつもの温かい一日が始まる。
特別な奇跡なんてなくても、この手の中にある幸せだけで、もう十分すぎるのだから。
(番外編・終)




