第62話 終わりの空と、帰るべき場所
風はもう、刃のように肌を刺すことはなかった。
新しい時代の匂いを運ぶ、優しく暖かな風。
雲を抜けた白銀の竜の背で、リゼルは眼下に広がる世界を見下ろしていた。
空を覆っていたあの禍々しい「黒い亀裂」は、もうどこにもない。
どこまでも続く、透き通るような青空が広がっている。
胸元のペンダントに触れてみる。
あんなに激しく脈打っていた青い石は、今はただの、少し温かい綺麗な石ころに戻っていた。
『本当に、終わったのね……』
リゼルが呟くと、隣で寝そべっていたシルフィが大きく伸びをした。
『うん。風がすっごく軽くなった。変な濁りも、引っ掛かりもない。……これが、本当の世界の風なんだね』
『ああ。神様だかシステムだかの束縛が消えて、世界が深呼吸してるみたいだ』
トムさんが、大の字になって空を見上げながら笑う。
大盾は溶けて無くなり、愛用の手斧もボロボロだ。
文字通り、満身創痍。
それでも、三人の顔は晴れやかだった。
*
竜は、ゆっくりと高度を下げながら大陸を北から南へと縦断していく。
凍りついていた「冬の国」ノースガルドの上空。
湖の分厚い氷は溶け始め、キラキラと太陽の光を反射している。
湖畔には漁に出る小舟の姿があり、人々が力強く網を引く様子が見えた。
竜が小さく咆哮を上げると、町の人々が天を仰ぎ、手を振っているのが見えた。
続いて、「風の谷」ウィンダリア。
谷を吹き抜ける風を受け、無数の風車が一斉に力強く回っている。
『あ! 村長だ! おーい!』
シルフィが身を乗り出して、千切れるほど手を振る。
谷底からも、小さな歓声が上がっているのが聞こえた。
奇跡の力で動く風車じゃない。人間の知恵と、自然の風が噛み合った、確かな営みの音だ。
そして、竜は「王都」の上空に差し掛かった。
かつて栄華を極め、そして影の襲撃によって半壊した都市。
だが、そこには絶望の気配は微塵もなかった。
崩れた壁を直すために、足場が組まれている。
広場では人々が協力して瓦礫を片付け、炊き出しの煙が真っ直ぐに空へと昇っている。
王城のバルコニーには、マントを翻したアレクシスの姿があった。
彼は上空の竜に気づくと、剣を抜き、天に向かって高く掲げた。
それは、共に戦った戦友に対する、最高の敬礼だった。
『ふふっ……殿下も、頑張っているみたいですね』
『ああ。あいつなら、きっといい国を作るさ』
トムさんが満足げに頷く。
魔法で一瞬にして建物を直すことはできない。
傷ついた人々の心も、すぐには癒えないだろう。
でも、だからこそ、彼らは手を取り合い、自分たちの手でレンガを積み上げている。
その歩みは、もう誰にも止められない。
*
やがて、見慣れた深い森が見えてきた。
リゼルにとっての、世界の始まりの場所。
フェルナ村だ。
『――ここまででよいか、リゼルよ』
竜が、村外れの平原に静かに舞い降りる。
巨体が地面に触れても、羽毛が落ちるように静かな着地だった。
『はい。……竜様、本当にありがとうございました』
リゼルたちは竜の背から降り、深く頭を下げた。
『礼を言うのは我の方だ。……長きに渡るシステムの呪縛を解き、星を救ってくれたこと、大地の底より感謝する』
『これから、竜様はどうされるんですか?』
『元の湖の底へ帰り、再び眠りにつく。……今度は、悪夢にうなされることもない、安らかな眠りになろう』
竜は優しい瞳で三人を順に見つめた。
『健やかに生きよ、人の子らよ。汝らの未来に、星の祝福があらんことを』
バサァァァッ……!
竜は大きく翼を広げ、再び大空へと舞い上がった。
白銀の鱗が太陽の光を反射し、キラキラと輝きながら、やがて北の空へと見えなくなっていった。
『……行っちゃったわね』
『ああ。……さて、俺たちも帰るか』
トムさんが、ドカリと背中を叩く。
村の入り口までは、歩いてすぐだ。
*
村の中は、いつもと変わらない長閑な午後だった。
畑では野菜が青々と育ち、風が木々の葉を揺らしている。
『あ……!』
広場で遊んでいた子供の一人が、こちらに気づいた。
レオだ。
彼は手に持っていた木の枝を放り投げ、目を丸くして立ち尽くした。
『先生……?』
『ただいま、レオ』
リゼルが微笑んで両手を広げると、レオは弾かれたように駆け出してきた。
『先生ぇぇぇぇッ!!』
ドンッ、と勢いよく胸に飛び込んでくる。
小さな体が、ブルブルと震えていた。
『わ、わぁん! 先生、おかえりなさい! ずっと、ずっと待ってたんだから!』
『ええ、ごめんね。約束通り、帰ってきたわ』
リゼルはレオの頭を優しく撫でた。
他の子供たちも次々と集まってきて、リゼルとトムさんに抱きついてくる。
『おいおい、俺はおまけかよ!』
『トムおじちゃん臭い!』
『誰がおじちゃんだ! まだピチピチの若者だぞ!』
騒ぎを聞きつけて、大人たちも家から飛び出してきた。
『リゼルちゃん! トム!』
『おおお、無事だったか! よく帰ってきた!』
村長のじいちゃんが、涙ぐみながら二人の手を握る。
そして、割烹着姿のマサばあちゃんが、トムさんの頭をスパンッと引っ叩いた。
『痛ぇッ! 何すんだよばあちゃん!』
『遅いんだよ! あんたたちがいつ帰ってきてもいいように、毎日シチューを温め直してたんだからね!』
怒っている言葉とは裏腹に、マサばあちゃんの目からはポロポロと涙がこぼれていた。
トムさんは照れくさそうに頭をかき、ばあちゃんの肩を抱き寄せた。
『わりぃわりぃ。ちょっと、神様と喧嘩して長引いちまった』
『馬鹿言ってるんじゃないよ。……おかえり、二人とも』
村人たちの温かい歓迎の輪。
シルフィはその後ろで、少し遠慮がちに立っていた。
自分の居場所はここではないと、少し所在なさげにしている。
それに気づいたリゼルが、シルフィの手を引いて輪の中へ引き入れた。
『みんな、紹介するわ。この子はシルフィちゃん。……一緒に世界を救ってくれた、大切な大切な仲間よ』
『えっ……ちょ、リゼル……』
『おや、可愛い子だねぇ! よく来たね、村へ大歓迎するよ!』
マサばあちゃんが、今度はシルフィを力強く抱きしめた。
シルフィは驚いて目を白黒させていたが、やがてその顔に、花が咲くような笑顔が広がった。
『……おじゃまします!』
*
その日の夜は、村を挙げての大宴会となった。
マサばあちゃん特製のシチューに、村で採れた新鮮な野菜のサラダ、川魚の塩焼き。
世界を救った勇者たちの帰還祝いにしては、あまりにも素朴なメニューだ。
でも、それがいい。
豪華な宮廷料理よりも、何倍も美味しくて、心が満たされる。
『ぷはーっ! やっぱウチの飯が世界一だな!』
トムさんがジョッキの麦酒を飲み干し、豪快に笑う。
シルフィも、子供たちに囲まれて風車の話を楽しそうにしている。
リゼルは少し輪から離れて、星空を見上げていた。
『……終わったのね』
口に出すと、改めて実感が湧いてくる。
王都を追放されてから、本当に色々なことがあった。
泣いて、逃げて、戦って。
世界の真実を知って、神様に反逆して。
『お疲れ様、先生』
いつの間にか、トムさんが隣に立っていた。
『トムさん……』
『これからは、奇跡なんて起きねぇ。魔法もない。怪我すりゃ痛いし、病気にもなる』
トムさんは、星空を見上げながら静かに言った。
『でも、俺たちは自分たちで治す。作物を育てて、家を建てて、生きていく。……それが「普通」なんだよな』
『ええ。……とても大変で、とても素敵な「普通」です』
リゼルは微笑んだ。
『明日からは、また学校の授業がありますね。レオたち、読み書きを忘れていないといいけれど』
『ははっ! ビシバシ鍛えてやってくれ!』
夜空には、満天の星が輝いていた。
誰かに管理された光ではない。
一つ一つが、自分の力で燃え、輝いている本物の光。
聖女リゼル・アルティナとしての物語は、ここで完全に終わった。
明日から始まるのは、ただの村娘、リゼル先生の、騒がしくも愛おしいスローライフだ。
(第62話・終)




