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二人同時に無職になったので思い切って日本縦断サイクリングの旅に出ることにしました!  作者: 霧崎薫


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17/21

●14日目:宮古→釜石 ~線路が結ぶ物語~

 宮古魚菜市場の喧騒が、朝もやに包まれていた。威勢のよい掛け声と魚の生臭さが入り混じる空気が、清風の目を覚ます。


「わあ、すごい活気!」


 市場内を歩く爽香の声が弾んでいた。朝一番の競りを終えたばかりの店先には、まだ動いている魚たちが並ぶ。


「お嬢さん、これ食べてみな」


 威勢のよい女性が、小さな皿を差し出してきた。


「ナマコの刺身さ。この季節の朝市の風物詩なんだよ」


 爽香は恐る恐る箸を伸ばす。


「あ……意外と甘い!」


 女性が満足げに頷く。


「ナマコは夜行性でね、朝一番に獲れたやつが一番甘いんだ」


 清風も一切れ頂く。コリコリとした食感の中に、確かに上品な甘みが潜んでいた。


「今日はSL銀河と並走できる日なんだよな」


 清風が時刻表を確認しながら言う。


「うん! 楽しみ!」


 爽香の目が輝いた。幼い頃、模型の機関車で遊んでいた思い出を清風に語ったことがある。その時と同じ、少女のような笑顔だった。


 朝市で仕入れた焼き魚の朝食を終え、二人は自転車に跨がった。今日は三陸鉄道リアス線と同じルートを走る。時折、線路が見え隠れする海岸線のワインディングロードだ。


「あ、線路がすぐそこに見えてきた!」


 爽香が指差す先では、銀色のレールが朝日に輝いていた。


「予定通りなら、あと30分でSL銀河が追いついてくるはずだよ」


 清風は地図と時刻表を見比べながら確認する。考古学に携わっていた頃、古地図を読み解くのが得意だった。その経験が、今こうして活きている。


「でも、自転車でSL銀河と並走なんて、ちょっと無謀かな?」


 爽香が少し不安そうな声を上げる。


「大丈夫、この区間は線路が何度も折り返すんだ。同じ場所で何回も列車を見られるはずさ」


 その言葉通り、海岸線の地形は複雑に入り組んでいた。線路は地形に合わせて蛇行し、時には海沿いを、時にはトンネルをくぐり抜けていく。


「あ! 汽笛の音!」


 爽香の声が上ずる。遠くから、確かにSL特有の低い汽笛が聞こえてきた。


「ここで待とう」


 清風は小高い場所に自転車を止めた。眼下には線路が見え、その先には太平洋が広がっている。


 重厚な音を立てながら、SL銀河が姿を現した。真っ黒なボイラーから白い蒸気を吐き出し、優雅な速度で海岸線を進んでいく。


「まるで、大正時代にタイムスリップしたみたい」


 爽香の言葉に、清風も深くうなずく。蒸気と潮風が混ざり合う匂いは、確かに時空を超えたような不思議な感覚を呼び起こしていた。


「次は、あの崖の下で見られるはず」


 清風が指さす方向に向かって、二人は再び自転車を走らせる。SLの速度なら、十分に間に合うはずだ。


「あのね、清風」


 爽香がペダルを踏みながら話しかけてきた。


「私ね、小さい頃、おじいちゃんが作ってくれた手作りの鉄道ジオラマで遊ぶのが大好きだったの」


 その声には、懐かしさが滲んでいた。


「でも、解雇されるまで、すっかり忘れてたよ。大人になるって、何かを諦めることなのかなって、ときどき思ってた」


 清風は黙って聞いていた。爽香が心の奥底を語るのは珍しい。


「でも、この旅で気付いたの。大人になるって、諦めることじゃなくて、大切なものを見つけ直すことなんだって」


 その時、再び汽笛が鳴り響いた。二人が崖下に到着すると、まるで待っていたかのようにSL銀河が現れる。


「写真、撮ろう!」


 清風がスマートフォンを構える。レンズの中で、爽香の笑顔とSL銀河が重なった。


「いいショットが撮れたよ。ほら」


 画面を覗き込んだ爽香が、思わず声を上げる。


「これ、私の顔、なんだかおじいちゃんにそっくり!」


 確かに、蒸気機関車を見つめる横顔には、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気があった。


 昼過ぎ、「いわてサイクルステーション」のある道の駅で休憩を取る。メニューには「SL銀河定食」という文字が。


「これ、食べてみない?」


 注文したのは、機関車の形をした器に盛られた釜飯だった。


「おかずの煮物は、かつて機関士さんたちに人気だった味付けを再現したんですよ」


 店主が教えてくれる。一口食べると、しみじみとした懐かしい味わいが広がった。


 午後、二人は橋野鉄鉱山へと向かう。世界遺産に登録された近代製鉄所跡は、深い森の中にひっそりと佇んでいた。


「まるで、ラピュタみたい……」


苔むした石垣の間から、錆びついた溶鉱炉がその威容を現す。空へと伸びる煙突は、いまや蔦に覆われ、鉄と自然が織りなす芸術作品のようだ。清風は思わず足を止めた。


「これが、日本最古の洋式高炉跡……」


 声に畏怖と尊敬の念が滲む。考古学を学んでいた頃、教科書でしか見たことのなかった光景が、今、目の前で息づいていた。


 石垣の隙間からは、小さな白い花が顔を覗かせている。かつてここで、昼夜を問わず炎が燃え続けていたとは思えないほどの静けさだ。


「清風、これって何の跡なの?」


 爽香の問いに、清風は深く息を吸い込んだ。


「ここは幕末から明治にかけて、日本の製鉄技術を大きく変えた場所なんだ。西洋の技術をいち早く取り入れて……」


 説明しながら、清風は石垣に手を触れた。ざらついた感触。苔の下には、職人たちが一つ一つ積み上げた石の確かな存在がある。


「触ってみて」


 清風は爽香を促した。彼女もそっと手を伸ばす。


「あったかい……石なのに」


 陽光を浴びた石は、確かに人肌のような温もりを帯びていた。


 溶鉱炉の内部を覗き込むと、上部から差し込む光が神々しい。錆びた鉄骨の隙間を縫うように光が降り注ぎ、まるで天井のないゴシック建築のステンドグラスのよう。


「ここで働いていた人たちは、どんな思いだったのかな」


 爽香の呟きに、清風は目を閉じた。耳を澄ますと、木々を渡る風の音が、かつての機械音や人々の声に重なって聞こえてくるような気がした。


 溶鉱炉の側面には、無数の小さな穴が開いている。そこは、一度は真っ赤に焼けた鉄を流し出した場所。今は小鳥たちの巣になっているようで、穏やかなさえずりが響いていた。


「ほら、見て」


 清風が指さす方向には、古い工具が展示されていた。錆と苔に覆われながらも、その形状は職人たちの手の動きを今に伝えているようだった。


「なんだかまたタイムスリップしたみたい」


 爽香がスケッチブックを広げる。鉛筆が走る音だけが、静寂に溶け込んでいく。彼女は溶鉱炉を描きながら、時折目を細めては、何かを想い描くように空を見上げていた。


「私ね、不思議に思うの」


 爽香が鉛筆を止めて言った。


「私たちが知らない……生きていない時代のこんなに古いものなのに、どうして懐かしく感じるんだろう」


 清風には、その感覚がよく分かった。遺跡には、時を超えて人の心に触れる何かがある。それは考古学を志した原点でもあった。


 風が吹くたびに、溶鉱炉の中で木の葉が舞い、かすかな音を立てる。その音は、まるで150年前の作業の反響のようにも聞こえた。


「ここから見える釜石の街並みも、みんなここから始まったんだね」


 爽香の言葉に、清風は深くうなずいた。現代の製鉄所の煙突が、遠くに小さく見えている。過去と現在が、一枚の風景の中で確かにつながっていた。


 二人は長い間、その場所に佇んでいた。夏の陽射しは、古びた溶鉱炉に優しい光の帳を掛けていく。時は流れても、この場所は今なお、日本の産業を支えた人々の夢と情熱を静かに語り続けているのだ。


「ねえ、清風。私たちって、今までずっと海沿いを走ってきたけど」


 爽香が展望台から語りかける。


「でも、岩手の物語は、もっと内陸まで続いているんだね」


 清風は静かにうなずいた。海の文化と山の文化。漁業と鉱工業。そのどちらもが、この土地の記憶を形作っている。



 釜石の宿に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。


 夕暮れ時の宿は、温かな明かりに包まれていた。廊下を歩いてくる下駄の音、どこかで交わされる会話、窓の外から聞こえる波音。それらが心地よいハーモニーを奏でている。


「お待たせしました。こちらが釜石の伝統料理、『かっけ』でございます」


 女将が運んできた大きな盆には、こんがりと焼き色の付いた平たい麺が載っていた。小麦粉と蕎麦粉を練って薄く伸ばし、熱した鉄板で焼き上げたという。


「へえ、これが『かっけ』なんだ」


 爽香が興味深そうに覗き込む。


「そうなんですよ。製鉄所で働く方々の間で愛された郷土料理なんです」


 女将が懐かしそうに説明を始める。


「材料は簡単。小麦粉と蕎麦粉、水、塩だけ。でも、この生地を薄く延ばすのが職人技なんです」


 爽香は熱心に聞き入りながら、手で持ち上げてみる。薄くのばされた生地は、光に透けるほど繊細だ。


「熱いうちにどうぞ。おつゆをかけて召し上がってください」


 二人が箸を付けると、外はカリッと、中はもっちりとした食感が口の中に広がる。


「これ、すごく美味しい!」


 爽香が頬を緩ませる。


「蕎麦のような、うどんのような……でも、どちらとも違う不思議な味」


「そうなんです。昔は製鉄所のお父さんたちが、この『かっけ』を楽しみに重労働に耐えたって聞きます」


 女将の声には誇りが滲んでいた。


「材料は単純でも、腹持ちが良くて、疲れた体に染み渡る。寒い日なんかは、熱々のおつゆで温まったそうです」


 清風は一枚一枚、丁寧に味わっていく。シンプルな味付けの中に、確かな職人の技と、労働者たちの暮らしの知恵を感じた。


「実は、各家庭でちょっとずつ作り方が違うんですよ」


 女将が続ける。


「粉の配合だったり、生地の厚さだったり。うちのは祖母の代から受け継いだやり方です」


 小上がりの窓からは、今も製鉄所の明かりが見えた。その光は、代々受け継がれてきた食文化を照らすように、夜空に輝いている。


「ねえ清風、私たちも作ってみない? 帰ったら」


「いいね。でも、その前にもう一枚もらおうか」


 女将に声をかけると、待っていたように二人分の「かっけ」が運ばれてきた。温かな夕食の時間が、釜石の夜に溶けていく。製鉄所の灯りは、まるで代々の食文化を見守るように、静かに瞬いていた。


「明日は山のほうに入っていくんだね」


 宿の窓からは、遠くに山々の稜線が見えた。そこにはまた、新しい物語が待っているはずだ。


「うん。遠野っていったら、昔話の宝庫だよね」


 爽香の声には、期待が溢れていた。


 部屋に戻った二人は、今日撮った写真を見返していた。SL銀河、鉄鉱山、そして爽香の満面の笑顔。


「なんだか不思議」


 清風が、ふと呟く。


「なに?」


「産業遺産って、どこか寂しい響きがするでしょ? でも、今日一日で見てきたものは、全然寂しくなかった」


 爽香は小さく微笑んだ。


「それは、きっとまだ物語が続いているからだよ。SL銀河だって、鉄鉱山だって、今を生きる私たちとつながってる」


 窓の外で、潮風が鈴を揺らす音が聞こえた。それは、まるで明日への序章を奏でているかのようだった。


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