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二人同時に無職になったので思い切って日本縦断サイクリングの旅に出ることにしました!  作者: 霧崎薫


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16/21

●13日目:普代→宮古 ~潮風が運ぶ夜明け~

 まだ暗い普代の空に、遠雷のような波音が響いていた。清風は、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今日は午前中から三陸ジオパークガイドとの約束がある。その前に、普代水門で朝日を見るために、二人は早めに宿を出た。


「あのさ、清風」


 爽香が、いつもより少し緊張した声で話しかけてきた。


「実は昨日、女将さんから聞いたんだけど……普代水門からの朝陽がすごくきれいなんだって。村の人たちの誇りなんだって」


 清風は黙ってうなずいた。宿で見た写真からも、その壮大さは伝わってきていた。


 自転車を押して坂道を登る二人の背後で、空が少しずつ明るみを帯び始めていた。


「わあ……すごい」


 普代水門に到着した爽香が息を呑む。高さ15.5メートル、幅約200メートルの巨大な水門が、朝もやの中にその姿を現していた。


「人の手でここまでの物が作れるなんて……」


 清風も言葉を失っていた。考古学を学んでいた時、古代の巨石建造物に魅了されたことを思い出す。現代の土木技術が作り出したこの構造物もまた、同じような畏怖の念を呼び起こすものだった。


 すでに数人の写真家らしき人々が三脚を立てて待機していた。地元の人だろうか、カメラを構える老人が二人に声をかけてきた。


「自転車の旅かい? いい時期に来たね。今日は珍しく、朝から凪になりそうだ」


 老人の予想通り、海は穏やかだった。水平線が赤みを帯び始める中、清風は老人から潮の話を聞いていた。


「ここからの眺めは三陸一といわれてるんだ。春と秋の朝日は特別でね」


 老人は遠くを見つめながら、ゆっくりと語り始めた。その声は、波音に溶け込むように静かだった。


「人の技と自然が、こんなにも美しく調和する場所は珍しい」


 朝日が昇り始めた時、爽香が小さく息を飲む音が聞こえた。


「水平線から光の束が、水門のシルエットを照らしていく。この光景は毎日違うんだよ」


 清風は思わずカメラを構えかけたが、やめた。この瞬間は、目に、心に刻みつけておきたかった。


「ねえ、なんで私たち、自転車で旅してるんだろう?」


 突然の爽香の問いに、清風は水門から視線を移した。


「別に車でも行けたよね。電車だって、バスだってある」


 爽香の声には、昨日までにない深みがあった。


「でもさ」


 清風は空を見上げながら言葉を選ぶ。


「こうして、朝日を待つために早起きして、自分の足で来たからこそ、特別な景色に出会える。そう思わない?」


 爽香はゆっくりとうなずいた。

 水門に朝陽が反射して、オレンジ色の光が二人を包み込む。


 朝陽を見終えた後、二人は三陸ジオパークガイドの待つ集合場所へと向かった。ガイドの山内さんは、意外なほど若い女性だった。


「この三陸の海岸線には、何億年もの地球の歴史が刻まれているんです」


 自己紹介の後、山内さんはそう切り出した。


「リアス式海岸の複雑な入り組みには、太古からの物語が隠されているんです」


 その言葉に、清風は考古学を学んでいた頃を思い出していた。過去を読み解くことの面白さ。それは考古学と地質学に通底するものだった。


 山内さんの案内で、三陸海岸特有の地質を学びながら南下していく。リアス式海岸の成り立ちや、断崖絶壁の形成過程。そのどれもが、地球の営みの壮大さを物語っていた。


「この地形が、私たちに何を語りかけているのか。それを感じ取ってほしいんです」


 山内さんの言葉は、単なる観光ガイドの説明を超えていた。指さす先には、波に削られてできた奇岩怪石が並ぶ。


「あそこに見える縞模様、これは約1億年前の地層なんです」


 爽香が小さくため息をつく。


「清風、私たち、1億年前の景色を見てるんだね」


 その言葉に、清風は考古学を学んでいた時の感動を思い出していた。人類の歴史など、地球の営みから見ればほんの一瞬。その謙虚さと畏怖の念が、胸に迫ってくる。


 昼前、道の駅たろうに到着した。休憩を取りながら、山内さんは周辺の地質の特徴を説明してくれた。


「この辺りの岩石は、まるでパズルのピースのように組み合わさっているんです。プレート運動の痕跡ですね」


 コーヒーを飲みながら、清風は岩場のスケッチを始めた爽香を見つめていた。彼女の手には、いつの間にか地層の模様が写し取られていく。


「この模様、まるで木の年輪みたいだね」


 爽香のスケッチブックには、確かに生命の鼓動のような律動が表現されていた。


 浄土ヶ浜に着いた時、海は鏡のように凪いでいた。白い岩肌と青松のコントラストが、透明な水面に逆さまに映り込む。


「まるで、天国のような場所ですね」


 シーカヤックのインストラクター、村上さんが微笑みながら言った。


「この景色を見た宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖が『さながら極楽浄土のごとし』と言ったことから、この名前が付いたんですよ」


 磨かれたような白い岩と、深いエメラルドグリーンの海。その境界線が、陽光の下でまばゆく輝いていた。


 安全講習を受けた後、二人は慎重にカヤックに乗り込む。


「わっ! 思ったより不安定!」


 爽香が小さな悲鳴を上げる。清風は後ろの座席から、彼女の背中が緊張で強ばっているのを感じた。


「大丈夫、すぐに慣れるから」


 パドルを握る手に力を込めながら、清風は静かに声をかけた。


 徐々にリズムを掴み始めた二人のカヤックが、穏やかな海面を滑るように進んでいく。陸からは見えなかった入り江の奥へ、奥へと漕ぎ進むにつれ、浄土ヶ浜の新しい表情が見えてきた。


「見て、清風! 岩の下が透けて見える!」


 澄明な水面から覗く海底は、まるで別世界。白い砂地に影を落とす岩場、そこを悠々と泳ぐ魚の群れ。時折、光の帯が海中を走り、幻想的な風景を作り出す。


「あの岩、ゾウさんみたい」


 爽香が指さす先には、確かに象が水を飲むような形をした奇岩が、青空を背景に佇んでいた。


「日本地質百選にも選ばれている場所なんですよ」


 少し離れた場所から、村上さんの声が響く。


「あの白い岩は、流紋岩という火山岩です。約5200万年前の火山活動でできました」


「そんな昔の……」


 清風は思わず息を呑んだ。


 カヤックは静かに岬を回り込む。すると、巨大な洞窟が姿を現した。


「青の洞窟です。満潮時にしか入れない場所なんですよ」


 パドルを休め、洞窟の中へとゆっくり滑り込んでいく。岩肌に反射した光が、幻想的な青い光のカーテンを作り出していた。


「まるで、地球が作った芸術館みたい……」


 爽香の囁きが、洞窟内に静かに響く。水面に落ちる滴の音が、神秘的なメロディを奏でていた。


 洞窟を出ると、陽光が眩しい。遠くには、漁船が小さな点となって浮かんでいる。潮風が、二人の頬を優しく撫でていった。


「少し休憩しましょうか」


 村上さんの提案で、静かな入り江に停泊する。波のささやきだけが響く空間で、三人はしばらく無言で景色を眺めていた。


「不思議だね」


 爽香が小さく呟いた。


「船でも、遊覧船でもない。カヤックだからこそ見える景色がある」


 確かにその通りだった。水面すれすれの視点で見る浄土ヶ浜は、まったく新しい表情を見せていた。人の手の届かない入り江、打ち寄せる波が作り出す岩の模様、そして時折頭上を横切るウミネコの影。


「ねえ、清風。朝の質問の答え、見つかった気がする」


 爽香の声が、波間に響く。


「自転車だからこそ、この土地の時間に触れられるんだと思う。車じゃ通り過ぎてしまう風景の中に、地球からのメッセージが隠れてる」


 シーカヤックから見上げる断崖絶壁に、夕陽が映える。白亜紀の地層が、黄金色に輝いていた。


「人の時間と、地球の時間。その両方を感じられる旅って、素敵だと思わない?」


 清風は静かにうなずく。カヤックの先端で、波が小さな虹を作っていた。


 宮古に着いた頃には、すでに街灯が灯り始めていた。地元の居酒屋で、今日一日の振り返りをする二人。


「この岩手の海って、本当に不思議だね」


 清風がジョッキを傾けながら言う。


「どんなところが?」


「人の営みと、悠久の時間が、これほど自然に溶け合ってる場所って珍しいと思う」


 爽香は黙って清風の言葉に聞き入っていた。注がれた地酒が、夕暮れの海のように深い琥珀色に輝いている。


「そうだ。明日、釜石に行く前に、海のそばの市場で朝ごはんにしない?」


 爽香の提案に、清風は笑顔で頷いた。二人で見る朝市は、きっとまた違った発見があるはずだ。


 宿に戻る道すがら、月明かりが海面に映っていた。その光の道は、まるで1億年の時を超えて続いているかのようだった。


「明日は、どんな地層に出会えるかな」


 爽香の言葉が、夜の静けさに溶けていく。その声には、新しい冒険への期待が満ちていた。


 二人の自転車は、宿の軒先で静かに明日を待っていた。ライトの反射鏡に、三日月が小さく揺れている。おやすみ、という二人の声が、潮風に運ばれていった。


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