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二人同時に無職になったので思い切って日本縦断サイクリングの旅に出ることにしました!  作者: 霧崎薫


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18/21

●15日目:釜石→遠野 ~霧の向こうの記憶~

 夜明け前、釜石の空は鉄のように重く垂れ込めていた。清風は宿の窓辺に立ち、山々を覆う靄を見つめている。今日はいつもと違う。海からの潮風ではなく、山からの冷気が頬を撫でていく。


「おはよう」


 爽香の声が、いつになく落ち着いていた。彼女も窓の外を見て、何かを感じ取ったのかもしれない。


 朝食を終えた二人は、「いわてサイクルステーション」に向かった。スタッフの手際よい作業を見ながら、清風は考え込んでいた。海沿いの道から山間部へ。その変化は単なる地形の違い以上の意味を持つように思えた。


「清風、大丈夫?」


 爽香の声に、清風は我に返る。


「ああ、ちょっと考え事してた。今日は標高差が800メートルくらいあるんだ」


「え! そんなに?」


「うん。でも、それ以上に気になるのは……」


 清風は言葉を選びながら続けた。


「遠野には、なんていうか、時間が違う形で流れてるような気がするんだ」


 爽香は首を傾げた。


「どういうこと?」


「考古学で遺跡を発掘する時、地層を一枚一枚剥がしていくんだ。でも遠野は違う。過去と現在が、まるで地層のように重なりながら、同時に存在している」


 メンテナンスを終えた自転車に跨がり、二人は山への道を走り始めた。海岸線の開放感は徐々に失われ、代わりに深い緑の壁が迫ってくる。清風は、地図に記された等高線を思い浮かべていた。


 最初の急な上り坂で、爽香が突然声を上げた。


「あ! 鹿!」


 道路脇の茂みから、一頭の鹿が二人を見つめていた。その眼差しには、人間を恐れる様子がない。


「ねえ清風、なんだか不思議」


「どういう意味?」


「私ね、この鹿が、ずっとここにいたような気がするの。何百年も前から」


 清風は静かにうなずいた。爽香の感性は、時として考古学的な直観よりも本質を捉えることがある。


「それ、遠野ならではの感覚かもしれないね」


 標高を上げるにつれ、景色が変わっていく。海の青は遠ざかり、山の緑が深さを増していく。二人の呼吸は、坂道に合わせて重くなっていった。


 休憩のために立ち寄った小さな祠の前で、地元のおばあさんが声をかけてきた。


「あんたたち、遠野さ行くの?」


「はい」


「気をつけなさいよ。この辺りはザシキワラシの通り道だからね」


 おばあさんは、まるで当たり前のことを言うかのような口調だった。


「ザシキワラシって……」


 清風が聞きかけると、おばあさんは既に立ち去っていた。後には、かすかな線香の香りだけが残されていた。


「清風、ザシキワラシって、座敷童子のこと?」


「ああ。遠野では今でも、家の中に住む童子の話が語り継がれているんだ」


 爽香は、スケッチブックに何かをさらさらと描き始めた。


「どうしたの?」


「なんとなく、形にしたくなって」


 彼女のスケッチブックには、祠の前に佇む小さな子供の姿が描かれていた。不思議なことに、その絵には影が描かれていない。


「影のない子供か……」


 清風の呟きに、爽香は少し驚いたような表情を見せた。


「私、意識してなかった。でも、なんとなくそうなった」


「それ、座敷童子が爽香に話しかけているのかもしれないぜ」


 清風はそう言っていたずらっぽく笑った。


 再び自転車に乗り込む二人。道は更に険しさを増していく。しかし不思議なことに、清風は昨日までの疲れを感じなかった。むしろ、何か大切なものに近づいているような高揚感があった。


 正午近く、遠野の町が見えてきた。盆地に広がる街並みは、まるで別世界のように静謐だった。


「ここが遠野か……」


 清風の言葉が、空気の中に溶けていく。遠くでは、誰かが牛に話しかけている声が聞こえた。


「遠野食い道楽」に入ると、そこには意外な光景が広がっていた。古い民家を改装した店内には、土間が残されている。その土間で、若い女性が粉を練っていた。


「いらっしゃい。二人とも、自転車旅行?」


 店主の久美子さんは、手を休めることなく声をかけてきた。


「はい。釜石から来ました」


「じゃあ、まずはこれを食べて」


 出されたのは「まめぶ汁」。

 すり潰した青豆を練って小麦粉を加え、平たく延ばして茹でた手打ちめんが、温かい汁の中で優しく揺れている。


「これ、おばあちゃんの味なんです」


 久美子さんは、まるで秘密を打ち明けるように続けた。


「でもね、おばあちゃんが作るのと、私が作るのとでは、なぜか味が違う。同じ材料、同じ作り方なのに。特に汁の染み込み方が違うって言われるの」


 清風は「まめぶ汁」をすすった。素朴な味わいの中に、確かに何か懐かしいものを感じる。青豆の風味と出汁が絶妙なバランスを保ち、のどごしの良い麺が心を温める。


「これって……」


「そう、記憶の味なの」


 久美子さんは、まるで清風の心を読んだかのように言った。


「遠野の料理には、作り手の記憶が染み込むって言うの。だから、同じレシピでも違う味になる」


 爽香は、その言葉に深く聞き入っていた。


「記憶の味……か」


 彼女は小さく呟くと、スケッチブックを取り出した。しかし今回は、絵を描くのではなく、何かを書き留め始める。


「何を書いてるの?」


 清風が覗き込むと、そこには「味の記憶」という言葉の周りに、様々な言葉が放射状に広がっていた。「おばあちゃんの手」「土間の匂い」「夕暮れの風」……。


「私ね、もしかしたら絵って、記憶を描くことなのかもしれないって思ったの」


 爽香の言葉に、清風は考古学との共通点を感じた。発掘も、ある意味で記憶を掘り起こす作業なのかもしれない。


 午後、二人は遠野ふるさと村を訪れた。そこで出会った馬は、想像以上に大きかった。


「南部曲がり家」の前で、馬使いの老人が二人に声をかけてきた。


「この馬はな、代々ここで生まれた馬の血を引いとる」


 清風は、馬の大きな瞳を覗き込んだ。そこには、何か古い記憶が宿っているような気がした。


「昔は、どの家にも馬がいたもんだ。家族同然さ」


 老人は、まるで遠い日の記憶を手繰り寄せるように語る。


「でもね、不思議なもんで、馬は人間の記憶も継いでいくんだ」


「馬が……記憶を?」


「ああ。この馬もな、初めて会う人でも、その人の心を読むんだ」


 老人の言葉に、爽香が静かに近づいていく。馬は大きな首を下げ、彼女の髪に鼻を寄せた。


「あら!」


「ほれ、お前さんの中にある何かを感じ取ったんだな」


 夕暮れ時、二人はカッパ淵を訪れた。水面は鏡のように静かで、時折魚が跳ねる音だけが響く。


「ここで、カッパを見たって言う人がいるんだ」


 清風の言葉に、爽香は水面を覗き込んだ。


「でもね、清風。カッパを見たっていうのは、きっと比喩なんだと思う」


「どういうこと?」


「だって、この水面見てよ。まるで違う世界への入り口みたい。カッパっていうのは、もしかしたら、記憶の住人なのかもしれない」


 その言葉に、清風は新しい視点を見出した。民話は単なる空想ではない。そこには、人々の記憶が、比喩という形で保存されているのかもしれない。


 夜、二人は語り部の家を訪れた。囲炉裏を囲んで座ると、老婆が静かに語り始めた。


「遠野の夜は、記憶の扉が開く時間」


 炎が揺らめき、影が壁で踊る。


「むかし、むかし、この地に暮らす人々は、記憶を継ぐ者たちだった……」


 老婆の声は、まるで遠い時代からの伝言のようだった。清風と爽香は、その声に導かれるように、遠野の深い記憶の中へと沈んでいった。


 囲炉裏の炎が、古い梁に揺らめく影を投げかける。老婆は目を伏せたまま静かに続ける。


「この遠野の山には、山人むかしものたちが暮らしておりました……」


 語り始めの一節で、清風の背筋が伸びた。考古学を学んでいた時、南部北上山地の縄文遺跡群について研究したことがある。その時の仮説が、今、目の前で語られる物語と重なって見えた。


「むかしものたちは、山の声を聞き、獣の足跡を読み、木々の囁きを理解したと申します。背は低く、肌は浅黒く、目は深い森のように碧かったそうな」


 爽香は息を潜めて聞き入っている。彼女のスケッチブックには、いつの間にか曲線的な模様が描かれ始めていた。それは縄文土器に見られる渦巻文様にも似て、どこか原始的な力強さを帯びていた。


「ある夜のこと。月が雲に隠れた時、むかしものの娘が里の青年と出会いました」


 老婆の声が低く沈む。囲炉裏の火が小さくはじける。


「娘は里の暮らしに心惹かれ、青年は山の知恵に魅せられた。二つの世界の境で、二人は誓いを交わしたのです」


 清風は、無意識のうちにメモを取ろうとして手を止めた。今は記録すべき時ではない。ただ、この声の中に身を委ねるべき時間だと感じた。


「しかし、むかしものの掟は厳しかった。人の世界と交わることは許されぬと」


 老婆の言葉に、風が呼応するように障子を震わせる。


「娘は涙を流しながら、ただ一つの方法を青年に告げました。『私の歌を覚えておくれ。その歌を口ずさむ時、私たちはまた会える』と」


 爽香の筆が止まる。彼女の目には、涙が光っていた。


「その歌は、今も山々を渡り歩いています。春の霧の中で、秋の夕暮れに、冬の木枯らしに乗って」


 老婆は目を開け、炎を見つめた。その瞳に、遠い記憶が映っているかのようだ。


「私の祖母が、その祖母から聞いた話です。むかしものの血を引く者たちは、今も私たちの間で暮らしているとか」


 清風は自分の鼓動を感じていた。考古学は過去を掘り起こす学問だと思っていた。しかし、ここ遠野では、過去は土の中ではなく、人々の声の中に眠っている。


「ですから」


 老婆はゆっくりと二人を見た。


「この話を聞いたあなたたちも、むかしものの記憶を受け継ぐ者となりました」


 その瞬間、囲炉裏の火が大きく揺らめいた。影が歪み、一瞬、別の時代の光景が垣間見えたような錯覚を覚える。


 老婆は再び目を伏せ、新しい物語を紡ぎ始めた。それは河童の話だった。しかし、もはやそれは単なる妖怪譚ではない。人と自然が交わる境界の記憶。畏れと共生の物語――。


 語りは深い森のように、二人を包み込んでいった。時折、誰かが障子の外を通り過ぎる気配がする。それは今を生きる村人か、それとも遠い昔の記憶の住人か。もはや、その区別さえも曖昧になっていった。


 宿に戻る道すがら、月明かりだけが二人を照らしていた。


「ねえ、清風」


「なに?」


「私ね、今日一日で気付いたの。私たちが旅してるのは、場所じゃないのかもしれない」


「うん?」


「私たちは、記憶の中を旅してるの。海女さんの記憶、製鉄所の記憶、そして遠野の記憶」


 清風は深くうなずいた。考古学者として、彼は常に過去の痕跡を追い求めてきた。しかし遠野は、過去の痕跡を探す必要がなかった。それは今も、確かに生きているのだから。


 宿の明かりが、二人を優しく包み込んだ。明日はまた、新しい記憶との出会いが待っている。その予感と共に、清風と爽香は静かな夜の中へと溶けていった。


 月が山の端に沈もうとする頃、どこからともなく鈴の音が聞こえた。それは遠野の記憶が、永遠に継がれていくことを告げているかのようだった。


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