先代辺境伯夫人アーラ
冷たい風が吹き抜けている。岩肌を凍えるような風が撫でていく。
ごつごつとした岩しかないこの場所で、唯一アーラのドレスの裾だけが風にひらめいている。
アーラはドレスが汚れるのも厭わずに地面に両膝をつき、手を組んだ。
「あなた、あなたの思っていた未来とはだいぶ違うようになってしまったけれども、これはこれで良かったときっとあなたなら思っているでしょうね」
そうアーラが話しかけるのは目の前の墓石だ。
辺境伯家の人間は死ぬと代々この地へ葬られてきた。夫である先代辺境伯はもちろん、娘カルラもここに葬られたことになっている。
「あなたが生きていたらどうしていたかしらね。もっと違う方法を探していたかしら・・・いえ、でもきっと大して変わらなかったと思うの。今はもう、私たちではなくてあの子たちの時代なのだから。親の私たちが何を言ったところで、あの子たちのやりたいようにやらすしかないのだわ」
そっと冷たい墓跡を指先で触りながら、アーラはここで眠る夫に向かって話し続ける。
辺境伯夫人として領地を守り続けたアーラももう50歳。すっと佇む立ち姿は美しいが、頭の上できっちりとまとめられた髪には白髪が目立ち、顔には細かい皺がいくつも走っている。女性のわりにしっかりしていた体つきも、ここ数年で急激に細くなってしまった。傍から見ると冷たい風に晒される姿が哀れだが、ここにいるのは長年、辺境伯夫人として様々な困難に立ち向かってきた女性だ。
「いつの間にか子どもたちはすっかり大きくなってしまって、しっかりと自分の足で歩いていたのね。どうしてもね、私はすべてを納得して受け入れることができるわけではないの。両手をあげて歓喜することもできないの。釈然としないような後ろめたいような気持ちもあるのよ。でも・・・」
アーラは立ち上がると墓石を両手でしっかりと掴み、『辺境伯に連なる者ここに眠る』と刻まれた文字を見つめながら訴える。その目には亡き夫が映っているのだろうか。
「でも、あの子たちが幸せで笑ってくれているのなら、私の違和感など些細なものだわ。この気持ちは私の中に閉じ込めたままお墓まで持って参ります。だから、いつか私もこのお墓に入ってあなたに会える日が来たなら、そんな私のくだらない話を聞いてくださいね。それまでは、一言も漏らさないわ。私の弱さを受け止めてくれるのはあなただと決まっているのだから」
体が冷えるのも構わずにアーラは額を墓石に付けると、しばらくそのままでいた。自分の体温が墓石に移れば移るほど自分の気持ちも夫に届くような気がした。
アーラは貴族とは言っても、辺境伯領では末端にあたる家の出だ。もちろん自分が辺境伯夫人になるなんて夢にも思っていなかったし、両親は望むどころか考えた事もなかっただろう。
父の友人の子がアーラより少し歳上の男の子で、何度か引き会わされた。その子と会うたびに親に観察されているのをアーラは感じていた。辺境伯領の男らしく武を好みながらも穏やかな性格の男の子でアーラも嫌いではなかったし、家格も似たような家柄で釣り合いも良かった。だから、ぼんやりと将来はこの子と結婚するんだろうなとアーラも思っていたし、両家の親たちも間違いなくそのつもりだったはずだ。
そんな両親の予定が狂ったのはアーラが16歳の時だ。
国境付近で小競り合いが発生した。
辺境伯領においてはよくある事であったが、相手側の奇策に翻弄された結果、争いは想定以上に長引き多くの負傷者が出た。
顔見知りも多く戦地に赴いていたし、負傷の噂も多く聞こえてきた。アーラは居ても立ってもおられずに救護院の手伝いを始めた。そこは息つく間もなく負傷者が運び込まれる悲惨な場所だったが、不思議と恐怖や悲しみは感じなかった。ただ必死だった。
ある日、後の夫となる辺境伯が運ばれて来た時は、随分と大きな人だなと思っただけだった。作りの良い武具を持っていることからある程度の身分の人なのだろうとはわかったが、アーラがやることは変わらなかった。できうる限り最善の治療を施す。それだけだ。
途中でその男が「自分はいいから部下を先に・・・」などと言った気がするが、アーラはそんな戯言に構っている暇はなかった。「優先順位はこちらで決めます!私をあなたを見殺しにした人間にしたいんですか!」と一喝した気がしないでもない。
死者を出さないことに専念したため争いは長引いたが、やがて平穏な日々が戻ってきた。救護院も閉鎖され家に戻ったアーラは、あの男の事など覚えてすらいなかった。だから、わかってもらえるだろうか?その男が辺境伯家の跡取りで、呼び出された時の気持ちが。
アーラとて救護院では必死さのあまり礼儀を忘れていた自覚はあるし、平時であれば無礼を理由に罰を受けても仕方ないと思っていたので、腹を括って訪問した。が、その後の展開は思いがけないものだった。
お咎めを受けることはなく、礼を言われたアーラは心底ホッとした。その後、なぜか定期的に屋敷へと行くことになってしまい、アーラは次期辺境伯の話し相手をつとめた。部下でもなく利害関係もない間柄が話しやすいのだろうと勝手に納得していたのだが、どうやら違ったらしいとわかったのはしばらくしてからだ。
アーラは辺境伯家の嫁にと望まれた。
アーラはびっくりしたし恐れ多いとは思ったが、素直に嬉しかった。アーラとて彼と話すのは楽しいと感じていたし、その頃にはお互いの好意も感じていた。
ただ、アーラの家は蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
辺境伯家と縁続きになるのは、またとない栄誉だが、それに伴って責任が増えれば敵対視されることも多くなるし、面倒事に巻き込まれもする。要するにいらぬ苦労を背負い込むことを嫌ったのだ。
ごくごく平凡に末端貴族として生きてきて、これからも平々凡々に暮らしていくるつもりだった両親は顔面蒼白だった。
野望なんて面倒くさいものは持たない主義の両親は苦悩していた。が、アーラの気持ちは特に関係ないようだった。
家族では兄のコルトだけが、「お前はいいのか?」と聞いてきてくれた。コルトは両親に似て、面倒臭いことは避けるタイプだが人の気持ちには聡かった。多分、人の気持ちに聡すぎるせいで人との関わりが嫌になり、後々隠棲生活をすることになったのだろう。
その後、結局アーラは辺境伯家に嫁いだ。夫は実家に対してできる限りの配慮をしてくれた。それでも避けきれない波風は、跡継ぎとなった弟が意外にも器用にかわしてくれた。
自分たちの暮らしが平穏なままだとわかった途端、両親は手のひら返しで娘の結婚を喜ぶようになった。今までも表面上は祝ってたものの、元来が正直者なため非常に薄っぺらくて嘘くさかったのに、今では非常に満たされた顔で祝福してくれるようになった。
そうして心から祝福できるようになると、今度はアーラが辺境伯家に嫁げたのは自分たちの手柄であるかのように話し出したのには辟易したが、今なら両親の気持ちがわかる気がする。
アーラとて、自分の望む未来のために子どもの意思を無視してしまいそうだった。
本当はハノンの事だって、随分と前から気づいていたのだ。でも認めたくはなかった。認めてしまえば自分が望む未来が得られなかったからだ。
ごく普通に嫁を迎えて姑として辺境伯家の教えを引き継ぎ、孫を愛でる。そんな未来が諦めきれなかったのだ。
「カルラ・・・あなたも私のせいで死んでしまったようなものだわ」
アーラは夫と一緒に眠っている事になっているカルラにも話しかける。カルラはクリスティアナという新しい名を得て、また辺境伯領で一緒に暮らせる事になった。それは本当に嬉しい。でも、もう自分の娘としてのカルラはどこにもいないのだと思うと、無性に悲しかった。
早々にハノンには跡継ぎができないと諦め、辺境伯の人間からカルラに婿を取るべきではなかったのか。そもそも自分の頑なな態度がカルラを追い詰めたのではないか。
わかっている。わかっているのだ。もう終わった事だし、今は新しい名前で幸せな未来が開けているのだからいいのではないかと。それでも、我が身が不甲斐なくて身が切られるような思いに変わりはない。
「でもそう、これはこれで良かったのよ。一時の絶望的な状況に比べれば奇跡のようだわ」
アーラは自分に言い聞かすように再度そう言うと、墓石から体を離して改めて向き合った。
そう、奇跡に対する喜びとともに、まるで自分自身が耐えたからの結果であり、息子と娘を否定しなかった自分の手柄に感じそうになる時がある。その度にアーラは実家の両親の調子の良さに自分が呆れた気持ちを思い出して苦笑するのだ。
「辺境伯であるあなたが亡くなって不安定だった状態もやっと落ち着くわ。あなたもきっと言いたい事もあるでしょうけど、私がそちらに行くまで待っていてくださいな。私が死んだら一緒にいっぱい話しましょう。だから、どうかあの子達を温かく見守ってあげてくださいね」
ここに来て夫に話しかけることで、やっとアーラはぐちゃぐちゃだった気持ちを整理できた気がした。すっきりした心持ちで閉じていた目を開く。
「また来ますね。今度は孫とその嫁を連れてきますよ。あなたも知った顔ですけどね」
悪戯っぽい表情でそう告げると、ふっと穏やかな笑みを浮かべ、アーラは墓地を後にした。遠くから見守ってくれていた執事のクロードにエスコートされ、馬車へ乗り込む。
「クロード、あなたには申し訳ない事をしました。ごめんなさい」
馬車が走り出ししばらくすると、おもむろにアーラはそう切り出した。
向かいに座っていたクロードは、はっとした表情でなんと答えたものか逡巡している。
「あなたに八つ当たりをしていたのです。何もあなたは悪くないと言うのに」
「大奥様、それは気になさる必要はございません。そんな事を仰りながらも私をクビにすることもなく待遇を変えることもなかったではございませんか」
クロードにはアーラが言わんとすることがすぐにわかった。ハノンがクロードとの関係を母親に伝えることはなかったが、それでもアーラが気づかないわけがなかった。クロードへの態度がギクシャクし出し、やがてよそよそしくなり、ついにはトゲトゲしくなっていった様子をクロードも覚えている。
でもそれは当然の反応だとクロードは諦めていたし、それでもなお公正な扱いをしてくれることに感謝していた。
「いいえ、いいえ。私はあなたに感謝しなければならなかったのです。そして今は感謝しています。母である私には理解してあげれなかったし、受け止めてあげれなかった。誰にも理解されずに、自分の存在意義を無くして崩れてしまいそうだったあの子を助けてくれてありがとう。あの子の拠り所となってくれてありがとう」
思いもよらぬアーラからの言葉に、クロードは息もできなかった。
まさかそんな言葉をもらえる日が来るなんて夢にも思っていなかったのだ。アーラが謝罪の言葉を口にしたのは、こんな性質に産まれた自分とハノンに対する憐憫から発せられたものだと思っていた。大奥様はお優しい方だから、理解が及ばぬながらも自分たちの苦しみに共感してくださったのだろうと思っていた。
「そんな・・・大奥様・・・」
やっと口から漏れた言葉は意味をなさなかった。
自分達は「普通」ではないと思っていた。「普通」ではないから、仕方ないのだと諦めていた。でも、アーラはそうではなく、そんなクロードやハノンを認めようとしてくれている。
「こんな風に産んでごめんなさい」でも「育て方が悪くてごめんなさい」でもなく「受け入れてあげれなくてごめんなさい」とアーラはそう言ってくれているのだ。
頬にあたるレースの感触にクロードは、はっとした。
いつの間にかアーラがハンカチをクロードの目元に当ててくれている。一瞬、事態が分からずにクロードの目が泳ぎ、遅れて気づいた。自分は泣いている。
「クロード、あなたはハノンのお嫁さんのようなものだわ。いえ、お婿さんなのかしら?言葉って表現できるものが決められていて不便ね。どちらにせよ、あなたはハノンと結婚したようなものだわ。だから、あなたは私の義息子なのよ」
ぼろぼろと次第に量を増していく涙を、アーラは優しく拭き続けてくれている。
クロードは膝に乗せた両手を強く握りしめたまま、身じろぎもできない。その手に拭いきれなかった涙がぽたぽたとあたる。
「心配しないで。お墓のあの人には私がちゃんと伝えるわ。あの人は鈍感なところがあるから、全然気がついていなかったのよ。そういう人がいるなんて思ってもいなかったのよ。きっと理解さえすれば私なんかよりあっさりと認めると思うわ」
「大奥様・・・、そんな、そこまで、私こそ、本当に」
クロードは必死に何かを伝えようとするのだが、流れる涙が多すぎてちっとも言葉にならない。すすり泣く声の合間に震える声で意味のない単語を並べるので精一杯だ。
「ハノンも、クロードも私の自慢の息子よ」
後悔していること、納得していないこと、諦めきれないこと。それはそれとしてアーラは全部抱えて墓に持って行くつもりだ。だからせめて現世ではすべてを受け入れよう。どちらもアーラの本当の気持ちに違いはないのだから。そして死んだらあの人にすべてぶちまけて話そう。きっとあの人は悩みながらも最後にはこう言うだろう。
「よくわからんが、色々あるのだな。まあ、それであの子らが幸せなら何よりだ!」
そして、屋敷を丸ごと震わせるようなあの大声で豪快に笑いとばすのだ。




