愛犬ビー
馬小屋に住み着いた犬を最初に見つけたのは、たまたま遊びに来ていたシーズクリフだった。
「カルラ!馬小屋に熊がいるよ!」
怯えたシーズクリフの声に、カルラはお姉さんとしてシーズクリフを守らねばと意気込んで中を覗くと、藁の上に黒っぽい塊があった。じっと見ていると黒い塊からピンクの口元が見えて、へっ、へっという息遣いが聞こえてきた。
「違うわ。犬だわ!お口の形が犬だもの!」
それは8歳になったカルラ2人分以上はありそうな大きな犬で、野犬にしては珍しいわさわさした毛がすっかり薄汚れて黒ずんでいる。不審な人間の姿に仕切りに警戒して歯を剥き出すものの、もう動ける力は残っていないようで荒い息を繰り返すばかりだ。
「この犬、病気なのかな?」
熊でなくとも野犬だって危険には違いないが、元来優しい性格のシーズクリフは犬の様子に心配そうだ。2人でドアの影から距離をとって観察していると、カルラは犬のお腹が大きいことに気づいた。
「たぶん、赤ちゃんが産まれそうなのよ!」
馬の出産を見たことがあるカルラにはすぐにピンと来た。そして、シーズクリフの手を掴むと弾むようにしてハノンのところへと走り出した。
「お兄さま!!赤ちゃんが産まれそうなの!!」
「は?赤ちゃん?」
鍛錬中だったハノンは意味がわからずに首を傾げたが、カルラは兄の大きな手を両手で握ると、有無を言わさずに馬小屋に引っ張っていった。当時23歳のハノンにしてみれば、8歳の妹の手を振り解くなんて簡単なことだっただろうに、いつだってハノンはカルラ達に付き合ってくれた。
犬の様子を見たハノンは馬丁や家畜に詳しい使用人を呼び、小さな2人に犬の状態やこれからのことを丁寧に説明してくれた。そして釘を刺すのも忘れなかった。
「いいか、もしこの犬がお前達に襲いかかるようなことがあれば、俺はこの犬を殺さなければいけなくなる。これは絶対だ。だから、お前達はこの犬を刺激しないようにしなければいけない。犬は音を怖がるから、話してはいけないし動いてもいけない。できるか?」
2人を危険に晒すと知りながらも、2人を守るのに余計に手間がかかる事を承知しながらも、決してもう大人に任せとけとは言わずに、きちんと子どもの自分たちを主体に参加させてくれたのをカルラはとても感謝している。
カルラはシーズクリフと一緒に、色々な人の手も借りながら甲斐甲斐しく犬の世話をした。ハノンの言いつけ通りに犬を刺激しないように距離をおいた場所から、2人は飽きることなく母犬を見守り続けた。子どもらしからぬ集中力で2人は微動だにせず見守った。警戒していた母犬もやがて、ずっと傍にいる2人に根負けしたのか害なしと見たのか、剥き出しにしていた歯をしまい、藁の上にゴロリと横になった。
食事にも行かない2人を見かねて使用人がサンドイッチを持ってきたが、それさえ手で握ったまま食が進まない。ハノンが定期的に小突いては「食べる」と言うと、やっと一口ずつ食べる有様だ。
その日の夜中、普段なら子どもはとっくに寝てる時間になって、母犬は出産した。
ランプの僅かな光の中、毛布に包まった2人は新たな命が産まれてくる様を食い入るように見つめていた。チラチラと揺れる灯りに照らされて馬丁に手伝われながら産まれたのはたった1匹。
小さな小さな子犬が懸命に母犬の乳に吸い付く様を見届けたところで、シーズクリフはすーっと眠りに落ちた。カルラはもう少し頑張っていたがこくり、こくりと船を漕ぎやがて寝てしまった。
その時に産まれた子犬がビーだ。
最初は飼い主を探そうと思ったのだが、ビーはあまりに小さくて弱々しいので貰い手を探すどころではなく、カルラがつきっきりで面倒を見た。真っ白で小さな小さな体で鳴くのさえままならないビーに、8歳のカルラは懸命に愛情を注いだ。
結局、母犬「ママ」とともにビーは辺境伯家で飼われることになり、「ベアトリス」と辺境伯夫人が名付けたのだが、幼いカルラは舌が回らず「ビー」と愛称で呼んでいた。
ベアトリスもカルラから呼ばれる自分の名前は「ビー」だと覚えてしまったらしく、他の人からは「ベアトリス」と呼ばれないと反応しないのに、カルラからは「ビー」と呼ばれないと反応しないようになってしまった。
犬たちを気にかけながらも、帰ってしまったシーズクリフにもカルラは犬たちの様子をつぶさに手紙で伝えた。そして、シーズクリフが辺境伯家に来ればいつだって2人と1匹で遊んだ。
あんなに小さかったビーはカルラが世話を焼いた甲斐もあって、ぐんぐん大きく元気になった。生まれた時には手にすっぽり入ったのに、シーズクリフと再開した時には抱きかかえる事もできないぐらい大きくなってしまい、シーズクリフは目をぱちくりしていた。
「これでまだベアトリスは子どもなの?」
「ええ!もっと大きくなるわよ。ママと同じぐらいか、もっと大きくなるんじゃないかって!」
すっかり健康になったビーと2人は、ボールの追いかけっこやロープの引っ張り合いで体力の限り遊んでは、2人と1匹で昼寝をした。真っ白でふわふわなビーに寄り添って寝るのが2人とも好きだった。そしてどこかで昼寝をしてる2人と1匹をハノンが探しに来るまでがお決まりのパターンだった。
出産で弱っていた母犬「ママ」が亡くなった時も、シーズクリフと一緒に看取った。
あの頃は本当に幸せで毎日が楽しかったな。と、カルラは傍で寝そべるビーを撫でながら思い出していた。
シーズクリフが私だけ「ビー」って呼んでるのを羨ましがって、自分でも「ビー」って呼ぶんだけど、全然ビーが反応してくれなくて、口を尖らせて拗ねるのがすごく可愛かった。「1番最初にママを見つけたのは僕なのに!ベアトリスひどい!」ってビーを一生懸命に睨みつけるのだが、そんなシーズクリフの言葉を理解できないビーに顔をベロベロ舐められて、結局笑い転げて終わるのだ。
そう言えばシーズクリフは、いつかカルラより大きくなるんだと口癖のように言っていたけれども、結局身長は抜かれずじまいだったな。抜かれたら悔しいと思いながらもちょっと楽しみにしてたのにな。
取り止めのないことを考えながら、カルラでありケイティは布に隠れた顔を綻ばせた。
こんな昔のことをやたらと思い出してしまうのは、自分の立ち位置があやふやなせいだとカルラはわかっていた。
少し前までは、辺境伯家の血筋を残すことこそが自分の存在意義だと思っていたが、帝国の政変の煽りを受けて王国も不安定な情勢が続いており、それどころではない。
兄からも、危険な橋を渡って血筋を残すよりも、親戚筋の家臣から養子をもらった方が確実だし、自分の結婚についてはケイティ以外を妻に迎える気はないと突っぱねるから大丈夫だと断言されてしまった。
カルラとて、ハノンの言うことはわかるしもっともだと理解している。自分が子を産んで辺境伯家の血筋を残す役に立ちたいと言うのは、カルラの我儘でしかない。死ぬはずだった自分が、死んだことになっている自分が、生きている意味が欲しかっただけなのだ。
ぺろり、と手の甲を舐められる感覚にカルラは沈んでいた意識を引き戻された。
見ると、立ちあがったビーが心配そうにこちらを見ている。カルラが止まっていた手を再び動かしてビーを撫で始めると、ビーは満足そうにまたゴロンと横になった。
もはや、昔から変わらず接することができるのも、昔から変わらずに接してくれるのもビーだけになってしまった。私がカルラであろうとケイティであろうと関係なく側にいてくれて、私も気兼ねなく側にいれるのはビーだけだ。
カルラが死んで約1年半。ケイティとなって約1年。
カルラはもうケイティとして隠れて生きていくしかない。
ハノンは、ウォルスタにお願いして異国に移住して新しい人生を歩んでもいいのではないかと言っていたが、カルラはこれから苦労するであろう家族や辺境伯の皆を置いて、1人だけ異国へ行く気にもなれなかった。だったら、色々な思い出が詰まったこの屋敷に閉じこもって生きていく方がいい。
でも、ただ、恋人らしいことはしてみたかったかもしれない。
ふと、カルラはそう思い至って自分自身に苦笑した。
すべてを捨てて異国で生きていく度胸はないけれども、一度ぐらいは話だけ聞いたことのある恋人らしい経験をしてみたかったというのは心残りだった。
辺境伯家の血筋を残すために子を産みたいと言うのも、その理由に嘘はないが、ほんの少しだけ誰かと恋人らしいことができるのではないかという期待があったのも事実だ。
シーズクリフの事は大好きだった。淡い恋愛感情も持っていたしシーズクリフ以外と結婚するなんて考えたこともなかった。シーズクリフの代わりなんて誰にも無理だ。だから、これから別の誰かと愛し合う未来は想像できなかったけれども、仮初の関係でも経験してみたかったと思ってしまうのは、なんと浅はかで夢見がちな我が身だろうか。
カルラは兄が羨ましかった。
ハノンが普通ではない己の性的嗜好に苦悩していたのは重々承知だが、それでもクロードと心通わせた今は幸せそうだ。決して公にはできない仲だとはしても、きっと2人でいる時には満ち足りた気持ちで愛し合うのだろうと想像しては妬む自分に嫌気がさしていた。
だから、一度誰かと経験してしまえば、この気持ちも落ち着くのではないかと思ったのだ。誰かにシーズクリフを重ねれば、自分を納得させられるのではないかと。だってシーズクリフはもういないのだから、他にどうしようもないではないか。
1人でいる時間が長いと、つい余計なことを考えてしまう。
シーズクリフが死んだと聞いてしばらくは激しく憤る時間と呆然とする時間を繰り返していたが、半年以上経った今やっとシーズクリフの死を受け入れるようにはなってきた。
ただ堂々巡りなことで思い悩みながら、感極まってはビーに抱き着いて涙する。最近はそんな日が続いていた。
でも、小さい頃は無尽蔵な体力で走り回っていたビーも、もう10歳。すでに老犬の域に達し、昔みたいに遊ぼうと頻繁にカルラをせっつく事もなくなった。まだまだ元気で食欲もあるが、それでも一緒にいられるのは後数年だろう。
「みんな、私を置いていってしまうわ。シーズクリフとお父さまは死んでしまったし、お兄さまとお母さまやみんなは未来へ向かっているわ。でも、私はどちらにも行けないの」
ドツボに嵌りそうな己に、カルラは首を振った。
このままではいけない。お兄さまやお母さまにも心配をかけてしまう。
ビーが亡くなったら、その時こそウォルスタおじ様にお願いして異国で暮らそうか。このまま此処で塞ぎ込んでいても家族の邪魔になるだけだ。いつか異国で自分の力で生きていくために、そのために準備をするのだと思えば、少しは前向きに生きれる気がした。異国で修道女になってシーズクリフやお父さまを弔って生きていくのもいいかもしれない。
先程まで辺境伯家を見捨てることなんて出来ないと思っていたのに、考えがぶれぶれだ。
コンコン、とドアのノック音が響き、物思いに耽っていたカルラははっと我に返る。
「ケイティ様、ハノン様がお呼びです」
クロードの声だ。カルラは全身が布で覆われている事を確認し、軽く布地を整えて気持ちを切り替えると、ケイティとしてドアを開けた。
連れて行かれた場所はハノンの執務室だった。そして、そこには意外な人物がいた。
「やあ、ケイティ。君とは初めましてだね。まあ座ってくれ」
そう言って席をすすめてきたのは、意外な人物その人であるウォルスタだった。会うのは何年振りだろうか?ウォルスタに事情を話した事はハノンから聞いていたが、ケイティとして会うのは初めてだ。垂れ目で優しげな目元が、シーズクリフを思い出させる。
ウォルスタの隣には腕を組んだハノンが座っているが、この場はウォルスタに任せているらしく、口を開こうとはしない。
カルラが席に着くと、ウォルスタは用意した紙にすらすらと文字を書き出した。
どうやら、家族以外と言葉を交わせない設定を尊重し筆談してくれるようだ。
ウォルスタが書き終わった紙にはこう書かれていた。
「辺境伯家の血筋を残したいという気持ちに変わりはないかい?」
カルラは短い文章を何度も目でなぞった。一字一句の筆跡まで舐めるように視線を這わせた。そして、視線を上げてウォルスタを見た。そこにあるのはいつもの柔和なウォルスタおじ様の顔だが、目は真剣そのものだ。
自分の望みが叶うのだ。しかも相手がウォルスタなら願ってもない血筋だし、人柄だってわかっている。それに血縁だけあってシーズクリフの面影もある。何を迷うことがあると言うのだろうか。
無意識に震えていた口元をぎゅっと引き結び、カルラは深く頷いた。
「もし、シーズクリフが生きていて、2人でただの男と女として生きてい異国で生きていこうと言われたら、どうする?」
ウォルスタが続けて書いた言葉に、カルラは意味がわからずに眉を顰めた。
と言っても布にすっぽりと覆われたこの格好では、ウォルスタに表情は伝わらないので、紙に「どういう意味ですか?」と書いて問うた。
「もし、シーズクリフか辺境伯家かを選ばなければならないとしたら、君ならどうするのかと思って。単純な興味だよ」
ちっとも答えになっていない内容を書かれカルラは困惑したが、ウォルスタはゆったり構えて答えを待っている。質問の真意はわからないが、とにかく答えるしかないらしい。
「もし、シーズクリフが生きていたとして、私はシーズクリフが幸せに生きてくれるなら他に何もいらないのです。一緒に居たいなどと我儘は言いません。私は辺境伯領を愛しています。この身でまだ役立つ術があるのなら、私はこの地で役割を果たしたいのです」
書きながら、カルラは自分自身に苦笑した。ついさっき落ち込む自分を励ますために異国での暮らしを想像したというのに、結局自分はこの地を離れるつもりなど微塵もないのだ。我ながら難儀な性格だと思う。
ウォルスタも似たような感想を持ったのか、カルラの答えを見て苦笑している。堅苦しい貴族の家が嫌で飛び出して世界中を飛び回っているウォルスタには、尚更カルラの考えは理解し難いのかもしれない。
「そうそう、ハノンの隠し子がもうすぐやって来るから詳しい事はハノンから聞いてね」
急に今までの会話の流れをぶった切って、突然ウォルスタがそう書いた。
読んだカルラは、突然何を・・・と思ってから遅れて内容を理解すると、しんみりしていた気持ちが急激に沸騰した。
自分の喉から息を吸う音がし、カルラは慌てて自分の口を布の上から押さえつけた。
声を漏らすどころか、叫び声をあげるところだった。
カルラは口を押さえつけたまま、網目から覗く瞳で必死にウォルスタに問いかけるが、ウォルスタは笑みを浮かべるばかり。淀みない動作でペンと紙をしまうとすっと立ち上がり、なんとそのまま帰ってしまった。
ならばハノンにと思ったが兄もウォルスタを見送りに部屋を出て行ってしまい、爆弾を落とされたカルラは部屋で1人、瞬きも呼吸すら忘れて固まることしかできなかった。




