公爵夫人シルファーナ
シルファーナは今でも後悔している。
きっとバチがあたったに違いなかった。一瞬でも、一瞬でもカルラの死を喜んだ自分を、激しく恥じていた。
カルラの死を聞いたあの瞬間、悲しみよりも先に頭を悩ませていた事が解決した喜びを感じたことは、我ながらショックだった。あんなに小さい頃から成長を見守り、息子の婚約者として将来の我が娘として接してきたというのに。この我が身のなんと利己的なことか。
だから、そんな私を見透かした天は罰を下したのでしょう。
カルラを犠牲にして帝国へと渡ったシーズクリフは、結局死んでしまい亡骸どころか遺髪も戻ってこなかった。それを悲しみたいのに母として嘆きたいのに、王妃と帝国が企んでいた事がだんだんと明るみに出てきた最近となっては、それさえ儘ならない。
カルラの死とシーズクリフの死によって、この王国は助けられたのだから。
でも、だからと言って、我が子の死を喜ぶ事など、国のために良く死んだと思う事など、尊い犠牲だと思う事など、到底できるはずはなかった。
シーズクリフと別れてから既に1年半が経った。生きていればシーズクリフは16歳。カルラと正式に結婚するはずだった年齢だ。
シーズクリフの16歳の誕生日が近づくにつれて、シルファーナの心は落ち込むばかりだった。夫や長男に心配されているのは痛いほどわかっていたが、自分でもどうしようもなかった。公の場では気高く凛とした公爵夫人を演じることができても、部屋に戻れば思い出すのは夢に描いていた2人の結婚式の事ばかり。
息子しかいないシルファーナはカルラを義娘として迎えるのを楽しみにしていた。
長男の嫁とも関係は良好ではあったが、次代の公爵夫人として厳しく接する必要がある以上、娘として可愛がる感覚ではなかった。だからその分、カルラが義娘になったならば他愛のないおしゃべりや買い物をしようと色々と計画を練っていたと言うのに。
「おば様のように私も立派な貴婦人になりたいのです。将来、おば様の義娘になった時に隣に堂々と立てるようになりたいんです。いえ、なりたいのです」
そう言って、真面目な顔でシルファーナに教えを請うカルラは本当に可愛かった。どんなに優雅な所作をしても辺境伯家らしい伸びやかさが見え隠れして、本人はそれを嫌がっていたけれども、シルファーナにはそれがとてもチャーミングに見えた。
部屋の棚には花嫁衣装のデザイン画がぎっしり詰まっている。カルラの花嫁衣装を考えるのが楽しくて毎年のように集めたデザイン画だ。
なのに、なのに私はカルラの死を喜ぶなんて、なんと愚かな。
結局はそこへと考えは行き着くばかりで、シルファーナは蟻地獄に嵌ったような毎日に心を疲弊させていた。
棚には自ら花嫁衣装に刺そうと思っていた刺繍の図案も同じぐらいある。刺繍はシルファーナにとって安らぎである喜びだった。少女の頃から刺繍が大好きでその腕前は自慢だった。何かにつけては刺繍を刺して大事な人へプレゼントし、その喜んだ顔を見るのが何よりも好きだったが、今はもう刺していない。
刺繍を刺せば、カルラの花嫁衣装を思い出してしまう。あの図案は胸元に刺そうと思っていたとか、この刺繍は袖口に合いそうだとか、この紫はシーズクリフの瞳と似ているから取り入れたいとか、そうすると夢見ていた花嫁衣装を着て微笑むカルラの姿が思い浮かぶ。
「おば様の刺繍、とても繊細で綺麗で大好きです。こんな素敵な刺繍がされた花嫁衣装を着れるなんて、私とっても幸せです」
シルファーナの刺繍を見るたびに目を輝かせて褒めてくれたカルラの言葉も思い出されて、涙が溢れてたまらなかった。
そんな折だった。滅多に家に寄り付かない義兄ウォルスタから珍しく手紙が届いたのは。
同封されていたのは、今流行りの観劇のチケット。
正直、観劇など気乗りしないと断りたいところだが、ウォルスタが送ってきた以上ただの観劇の誘いであるはずがなかった。公爵家にとって観劇の場は特別な意味を持つ。
シルファーナはすっと公爵夫人としての仮面を被ると、観劇へ出かける準備のためにてきぱきと使用人へ指示を出した。
馬車を降りて劇場へ入ると、中は貴族達で賑わっていた。方々から向けられる挨拶ににこやかに対応しながらシルファーナはゆったりとした足取りで進んでいく。賑わいを抜け、上質な絨毯が敷き詰められた人気のない廊下を通るとお目当ての場所に着いた。その公爵家保有のボックス席の前には見知らぬ女性が立っていた。
女性にしては背が高くすらりとしており、きちんと訓練された所作をしている。男性のようなパリッとしたシャツにスラックスという出立ちで、意志の強そうな瞳が印象的だ。女性はシルファーナに礼をとると落ち着いた声色で話しかけて来た。
「公爵夫人シルファーナ様でいらっしゃいますね。私はウォルスタ様の秘書をしておりますタチアナと申します。本日はウォルスタ様の代理で参りました」
「そう、今回はどのような用向きなのかしら」
「風なき闇夜でございます」
タチアナの言葉に、シルファーナは眉を上げる。
しばらく、シルファーナはタチアナを鋭く見つめたが、タチアナに動揺する様子はない。
シルファーナはしばし目を閉じると、使用人達を全て控え室に下がらせた。そして、タチアナに頷いてみせる。
「ありがとうございます。こちらへお願いいたします」
タチアナが扉を開け、ボックス席の中へとシルファーナを導いた。
公爵家保有の劇場ボックス席は外交に特化している。もちろん異国からの要人をもてなすというのも使い方もその一つだが、それよりも重要なのは「密談場所」としてだ。
劇が始まれば、劇場中に響き渡る音楽や歌声によって他の音はかき消されてしまう。しかし、公爵家ボックス席は舞台との間を特殊な防音カーテンで仕切っており、観劇の時だけカーテンを開ける仕組みになっている。そして、劇の間もカーテンを閉じたままにすればそこはまたとない密談場所となる。しかも、公爵家のボックス席は他の席からは見えない構造だ。
シルファーナがボックス席に入ると、カーテンは引かれたままで灯りもついておらず中は暗かった。
もうすぐ劇が始まるこの時間帯、劇場内は人々の話し声でかなりざわついているはずだが、このボックス席にはまったく届かない。
「風なき闇夜」とは公爵家の密談で最上位の重要度を示す言葉だ。シルファーナは勝手知ったるボックス席の中を進むとソファへと腰を下ろして劇が始まるのを待った。劇が始まるその時が密談の開始時刻だ。
やがて、カーテンの先から微かにテノールの豊かな響きが聴こえてきた。観衆を圧巻する声量で歌っているはずだが、この分厚いカーテンに遮られれば随分と遠くで歌っているように聴こえる。
すると、部屋が明るくなった。部屋の中には相変わらずタチアナと名乗った女性しかおらず、彼女が蝋燭に火をつけて回っている。
「さて、お相手はどなたなのかしら? 随分ともったいつけるご様子ね」
「はい、大変お待たせいたしました。こちらにいらっしゃいます」
タチアナに連れられて入って来た人物はすっぽりとマントを被っていた。背格好からして男性のようだ。商人だろうか?異国の貴族だろうか?と胡乱な目で見ていたシルファーナは、その人物がマントを取って現れた姿を見て、息をするのも忘れた。
理性がこれは嘘だと、良く似た別人だとシルファーナに何度も言い聞かすが、理性なんかでは到底敵わない本能が叫んでいた。
「シーズクリフ!!!」
気づけば、シルファーナは手の扇を投げ捨て、優雅さもかなぐり捨てて抱きついていた。
記憶よりも随分と成長した体は抱きしめ慣れた感覚とはだいぶ違うが、間違いなかった。死んだ息子のシーズクリフ以外の何者でもなかった。
「シーズクリフ、ああ、顔を良く見せてちょうだい。こんなに大きな傷をつけて、ああ、シーズクリフ・・・」
シルファーナが本人よりよっぽど痛々しい表情で傷跡をなぞるのを、シーズクリフはくすぐったそうに目を細めている。瞳の色も少し濃くなったようだ。
遠くでテノールに応えるソプラノが高らかに響くのを聞きながら、シルファーナの耳朶に届いたシーズクリフの声は記憶よりもだいぶ低かった。
「母上、ずっと帰らずにいて申し訳ありません」
「いいえ・・・・いいえ!あなたが生きていただけで・・・ああ、でも、もう・・・!」
シルファーナの心に浮かぶのは悔恨だった。シーズクリフを見ればどうしてもカルラを思い出してしまう。喜びにはち切れんばかりに膨らんだ心が急激に萎んでいくようだった。
シーズクリフのために命を絶ったカルラの事を思えば素直に喜べるはずもなかった。もうあれが事故死では無かったことぐらいシルファーナにも察しがついている。
ぶるぶると震えるシルファーナの手を、シーズクリフはそっと両手で包むと、昔から変わらぬ穏やかな笑みで母親を見つめ、安心させるように手を撫でた。
「母上、僕だけではありません。カルラも生きているのです」
シルファーナは呆けたようにシーズクリフを見返していたが、やがて脳が言葉の意味を理解し膝から崩れ落ちた。自らの右手を包むシーズクリフの手に更に左手を重ねながら声を絞り出した。
「ああ、なんてことでしょう。・・・なんてことでしょう!」
シーズクリフは床に座り込む母親を支えながらソファへと座らせた。そして、タチアナから受け取った飲み物を飲ませると、シルファーナが落ち着くまでゆっくりと背中をさすった。
「シーズクリフ、それは本当なの?」
「ええ、僕は実際に声を聞きました。間違いありません」
「それで・・・それで、あなたはどうするつもりなの?」
シルファーナは縋るようにシーズクリフを見上げた。
シルファーナとて、シーズクリフとカルラが生きている以上は2人に一緒に幸せになってもらいたいと願っている。でも、それがどんなに困難なことかもわかっている。せっかく戻って来てくれた息子がまたどこかへ行ってしまうのではないかと思えば、胸中は複雑だ。
「僕は・・・僕は本当は戻ってくるつもりはなかったんです。死んだことになっている以上、公爵家に戻っても邪魔にしかならないならば、このまま身一つで放浪の旅でもしようかと考えていました」
シルファーナのシーズクリフの手を握る力が思わず強くなる。
シーズクリフはそんなシルファーナを落ち着けるように、その手をしっかり握り返しながら言葉を続ける。
「でも、カルラが生きているとわかった以上、もう諦めることはできなかったんです。一度は絶望した未来に可能性ができた今、僕はそれを必ず掴みます」
私の知らない間にこの子に何があったのか。こんなに力強く、さもすれば強引でさえある表情をするようにこの子がなるなんて。
シルファーナの知っているシーズクリフはどこか儚さを持つ子どもだった。好奇心旺盛で身軽ながらも儚げな様子は妖精のようだとよく評されたものだ。どんなに努力して鍛えてもこの子の持って生まれた儚げな雰囲気は消えないのだろうと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「ウォルスタ叔父様には先にお会いして相談してあります。そして母上や父上、公爵家としても協力して欲しいのです」
「・・・それはもちろん、協力したいとは思っているけれども・・・あなた、一体どうするつもりなの? もう、あなたもカルラも死んだことは覆らないのよ? まさか、2人でどこかへ行ってしまうつもりなの?」
再び息子を手放す恐怖に顔を強張らせるシルファーナの不安を払拭するように、シーズクリフは笑顔で首を振って否定した。
「いえ、公爵家と辺境伯家としてカルラと僕は結婚するつもりです。そうでなければ、カルラも僕も幸せにはなれないので。だから、貴族たちを納得させるための筋書きを考えました」
シルファーナはシーズクリフが言いたい事がわからずに、混乱するばかりだ。
シーズクリフとカルラが死んだままで、公爵家と辺境伯家として結婚するとはどういう意味だろうか。息子は謎かけで私を試しているのだろうか?
「今ウォルスタ叔父様にはカルラのところへ行ってもらっています。そして・・・」
シーズクリフ語り出した筋書きとは、なんとも大胆なものだった。




