貿易秘書タチアナ
タチアナは港町の靴職人の家に産まれた。
典型的な職人肌で気難しい父親と従順で我慢強い母親に育てられ、ゆくゆくは父の弟子の1人と結婚させられて母親のようになるのだろうとは、少女の頃から分かりきっていた。
それは何もタチアナに限った話ではなく、職人階級の娘の人生とはそう言うものだった。
タチアナから見た母親は、父親の付属品でしかなかった。
どうして、すべての家の中心は男で、女はそれに従って生きなければいけないのだろう。
どうして、女は自分で考え行動し決定することが許されないのだろう。
どうして、結婚して誰かの持ち物になることでしか女は生きていけないのだろう。
小さい頃は、そんな母親を可哀想だと助けてあげたいと思っていたが、やがて母自身は自分の状況にちっとも疑問を抱くこともなく、自ら進んでその地位にいるのがわかってタチアナは呆然とした。母は父の愚痴を言うことや生活の辛さをぼやく事はあっても、父なしで生きることなんてこれっぽちも考えていなかったし、父ではなく自分で何かを考えて決めるなんて望んでもいなかった。
それからだろうか。タチアナが徐々に自分の未来に疑問を抱き始めたのは。
世の常識を疑うこともせず、進んで決められた道を黙々と歩いていく両親から産まれ育てられたにも関わらず、タチアナは変わった少女だった。すぐに何故?と問う少女だった。そして、昔からそう決まっている。とか、みんなそうやっている。という答えで納得できない少女だった。
そんな娘を両親は持て余してさっさと縁組して型にはめようとした。タチアナは14歳。相手の男は30歳のやもめだった。
別にその男が嫌だったわけではない。穏やかで真面目そうな男だった。なんなら父に比べればだいぶマシに見えた。が、そんな事はどうでも良かった。タチアナは自分の人生を自分の力で生きたかった。たとえ惨めな人生になろうとも。
タチアナは素直に結婚を受け入れるふりをして安心させ、しばらくは従順そうに過ごした。相手の男とも朗らかに接して見せた。そして両親が安心しきったある晩、父親が晩酌で眠りこけ母親も熟睡しているのをたしかめると、家を出た。
とにかく遠くへ行かなくては。私を取り戻す労力に見合わない程遠くに行かなくては。そう考えたタチアナは港へと向かった。
海に出てしまえば大丈夫だ。船から落とされて溺れ死ぬ事はあっても家に戻される事はない。
タチアナは停泊している商船の中から適当な船に潜り込んだ。
「おや?お嬢さん、あなたはどうしてこんなところにいるんですか?」
すっかり寝入ってしまったらしいタチアナが、そう声をかけられた時には船は既に大海原へと漕ぎ出されていて、空から眩しい太陽が容赦なく照りつけていた。
タチアナは体が浮き上がるような浮遊感を感じた。それは湧き上がる自由の実感だった。
目の前の男は、結婚相手だった男と似たような年齢に見えたが、良くも悪くも軽そうに見えた。不法侵入者であるタチアナを前にして、飄々とした表情で面白がっているようだ。
「私をこの船で働かせてください」
こうして、タチアナはウォルスタの元で働くようになった。
それから15年。ウォルスタについて様々な事を学び経験したタチアナは、ウォルスタの秘書になった。ずっと一緒に世界各国を周り、様々な珍しい品物や不思議な現象を目にしてきたが、こんな事は初めてだった。
今、タチアナの隣で目を見開き顎が外れんばかりの勢いで口を開いている男は、間違いなくウォルスタなのだが、本当にウォルスタだろうか?と心配になる程度には珍しい表情だった。
何があろうと余裕綽々とし、あらゆる奇妙な物事やハプニングを楽しむことを心情としている男がこんな表情もできるとは。
「ウォルスタ叔父様、お久しぶりです」
そんな表情をウォルスタにさせている元凶と思わしき目の前の男がそう言って微笑んだ。
相変わらずの驚愕の表情で固っているウォルスタは、返事もままならぬ様子だ。
「僕のこと、一目見てわかるなんてすごいですね。コルトおじ様には信じてもらうのに時間がかかったんですけど」
「あの、失礼ですがどちら様でいらっしゃいますか?」
固まったままのウォルスタを見かねて、タチアナは男に尋ねた。
「ああ僕は・・・」
「シーズクリフだ。死んだはずの私の甥のシーズクリフだ」
やっと口を開いたウォルスタの言葉に、シーズクリフと呼ばれた男は少し困ったような顔をしてタチアナを見た。ウォルスタはそれに対してゆるゆると首を振る。
「これはタチアナ。私の秘書だ。心配はいらないよ。タチアナになら何を知られても問題ない」
ウォルスタが自分に寄せてくれる信頼が気恥ずかしい。
タチアナは自然と背筋を正した。
「とにかく、部屋で話そう。ついて来てくれ」
やって来たのはウォルスタが現在の仮住まいとしているホテルの一室だ。
タチアナは戸棚から茶器を取り出すと、簡単に紅茶を淹れた。正直、お茶を淹れる腕前は褒められたものではないのだが仕方ない。
パリッとしたスーツを着ているウォルスタに対して、シーズクリフはどこぞの人足のようなラフな格好だ。顔立ちは整っているが、大きく顔に走る傷跡が目立ってその端正さを霞ませている。とても貴族の人間に見える風貌ではない。
本当にウォルスタの甥なのだろうかと訝しむタチアナの心に答えるかのように、ウォルスタはシーズクリフを見据え殊更静かに喋り出した。
「顔に大きな傷が走ろうが、お前の顔を忘れるはずがない。お前の鼻筋は兄さんにそっくりだし目元は義姉さんに瓜二つだ。お前の絹のようだった髪がバリバリになっていても驚きはしない。私も船に乗って潮風に無防備に晒されていた時にはそうなった。お前が声変わりしたって喋り方のアクセントは全く変わらないし、体が逞しく成長したのには驚いたが、でも私が甥のシーズクリフを間違えるはずがない」
先程までの驚愕の表情が嘘のような無表情でウォルスタは淡々と喋る。
向かいに座るシーズクリフは、困ったような驚いたような表情で微笑んでいる。
「生きて・・・・生きていたんだな・・・」
無表情だったウォルスタの顔の筋肉がピクピクと揺れたかと思うと、ウォルスタは耐えきれない様子で顔を伏せた。
タチアナにとって、ウォルスタがこんな風に泣くなんてことも初めてだったが、もはや驚きはしなかった。ウォルスタが自分を薄情な男に演出しながらも実は情が深いことを、タチアナは知っていた。
「叔父様、心配かけてすみません。帝国の政変時に混乱に乗じて脱出したものの、僕は死んだことにしておいた方がいいと思っていたんです」
「ああ、わかるよ。最近になって私のところにも情報が集まってきた。帝国と王妃様が繋がっていたのだろう?」
「はい。辺境伯家をどうにかして崩して帝国が攻め入る手筈だったようです。叔父様、現在の情勢はいかがですか?」
ウォルスタは紅茶を冷ますためだけにミルクを入れ、ごくごくと一気に飲み干して腕を組んだ。タチアナはさり気なくお代わりのお茶を注いでおく。カップに残ったミルクで水色が濁るが、ウォルスタはそれどころじゃなさそうだし、別にいいだろう。
「帝国はエイトバーン皇子が押さえるだろう。ただ、我が国の王妃様はまだ諦めていないようだね」
王妃様が帝国宰相の残党と繋がっていることは先日仕入れた情報からも明らかだった。
タチアナには王妃様がひどく哀れに思えた。そんな事口に出せば不敬罪間違いなしだが、女のくせに権力を求め、女なので自らの身で求めることは叶わず、自分の息子を王位につけるしか手立てのなかった哀れな女だ。ただ、女だてらに望みを叶えるために自分で決断して行動した姿は、タチアナには気持ちよくもあった。
「王妃様は妄執に囚われている。もう諦めるしかないと言うのに、辺境伯家を崩せばなんとかなるという考えに固執している様子だ」
ウォルスタは苦々しげにそう言うと、口を何度か閉じては開いてと繰り返した。告げるべきかどうか逡巡するように。
「叔父様、カルラが生きていることはコルトおじ様のところで知りました」
今日1日で10年間知らなかったウォルスタの表情をこんなに見ることになるとは。と、タチアナは脇に立ちながらじっとウォルスタの横顔を観察していた。
シーズクリフに出会った時のまさに「驚愕」の表情と違い、実に複雑な感情の入り混じった驚きの表情でウォルスタは甥を見つめていた。
「叔父様、カルラと子ども作るつもりだったって本当ですか?」
ぴしり、とウォルスタの顔にひびが入る音が聞こえた気がした。
シーズクリフは柔らかく微笑んだままなのだが、凄みが滲み出ている。
「いや、待て、ちょっと待て!誰だ!?コルトかそんなこと言ったのは!?いやいやいやいや!たしかにそんな話が出たのは事実だが、私が受けるわけないだろう!私にとってカルラは娘みたいなものだぞ!」
慌てて否定するウォルスタ対し、シーズクリフは優雅にお茶を飲む。風体と仕草が実にアンマッチなのだが、その様子だけでこの優雅さは小さい頃から所作を叩き込まれた貴族に違いないとわかる説得力があった。
「僕だって本気で疑ったわけではありませんよ。それに・・・本当だったところで死んだことになっている僕に文句を言う権利はありません」
ほっとした様子で2杯目の紅茶をグビグビ飲むウォルスタに、シーズクリフは言葉を続けた。
「ただ、僕もカルラも2人とも生きている事がわかった以上、僕はもう諦めるつもりはないんです」
ウォルスタが口元にあったカップをゆっくりとソーサーへと戻し、両手を組んでシーズクリフの真意を探るように沈黙した。
「本当は僕とカルラで異国へでも行って、新しい人生を始めようかとも考えたんです。僕もカルラもそんなに貴族の生活に未練がある方じゃないですし、異国への順応力もありますからね。
でも、カルラは辺境伯家を捨てれません。王妃様がまだ辺境伯家を狙っていると言うのなら尚更です」
ウォルスタは大きく息を吐いて頷いた。
「そうだろうな。カルラは自分だけが自由に羽ばたくことを素直に喜べるような娘じゃないな。そんな性格ならとっくに私が異国へ逃しているよ」
家とは、タチアナにとっては逃げ出すべき呪縛だった。両親や故郷に未練がないとは言わないが、守りたいものでは決してなかった。でも、貴族にとって家とは歴史と誇りであり、領民を抱える貴族ともなれば、その背負う責任はタチアナには想像もできなかった。
自分とは別世界の話をぼんやりと聞きながら、それは幸せなのか不幸なのか。タチアナは考えていた。
「僕は元通りに戻すつもりです」
シーズクリフは言い切った。
タチアナには意味がわからなかったが、真意に気づいたらしいウォルスタが頭を振る。
「それは無理だ。カルラもお前ももう生き返ることはできない。真実を告げたところで、皆を欺いた罪人になるだけだ」
「わかっています。貴族たちを黙らせるには真実がどうかは関係ない。建前でも、納得するための理由が必要です。でも僕はカルラとの結婚を諦めるつもりはありません。だから、叔父様に協力して欲しいんです」
シーズクリフは体の向きを変えると、タチアナに向き合った。
空気や置物ぐらいの存在だった自分が、急に人間として認識されたような気がしてタチアナは面食らったが、シーズクリフはとっくにタチアナがこの話に加わっていると言わんばかりに淀みなく声をかけてきた。
「タチアナさんにも協力して欲しいのです」
雇い主のウォルスタではなくタチアナ自身に声をかけてくるとは予想外で、タチアナは咄嗟にウォルスタの顔を伺った。
ウォルスタは自分が通さず話をされた事に気を悪くすることもなく、ただ心配そうにタチアナを見ている。というか懇願するようにタチアナを見ている。
どうやら、自分がシーズクリフへの協力を断るのではないか心配されているらしいとタチアナは気づいた。常日頃から「結婚は人生の墓場だ。結婚して夫の付属品になるなど死んでもごめんだ」と言っているせいだろう。
タチアナは小さく咳払いをして気を取り直すと、シーズクリフに堂々と向き合って答えた。
「詳しいお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか。幸せとは人それぞれですからね。カルラ様というお嬢様がそれで幸せになるのでしたら、やぶさかではございません」
自分の人生を生きるために結婚から逃げる自分と違い、結婚することで自分の人生を歩める人もいるのだろう。
タチアナは、おもしろい。とばかりに自然と口の両端が持ち上がるのを自覚した。
「じゃあ、叔父様はとりあえず父親になってもらいたいのですが」
ギョッとした表情のウォルスタを見て、ああ、やっぱりおもしろい。とタチアナは笑みを深めた。




