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灯台守の娘  作者: よしお


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8/18

沖野家の墓

 沖野という一家の輪郭を、私たちは記録の中から少しずつ組み立てていった。


 戸籍は簡単には見せてもらえなかったが、暁人が集めていた燈火月報の古い当直簿に、沖野源助の名は何度も出てきた。きちんとした字だった。何年も何年も、同じ手で同じ欄に、その晩の灯質と天候と自分の名を書き続けていた。沖野源助。沖野源助。沖野源助。几帳面に並ぶその名を見ていると、灯台の灯を一晩も欠かさず守り続けた、一人の男の生真面目な背中が見えるようだった。


「立派な当直簿です」暁人は、ページをそっと撫でた。「これだけ几帳面に灯を守った男が、二十年前のあの晩——娘さんが灯室から落ちた、その晩も、灯を一度も乱さなかった。この字を見ていると、それがいっそうおかしく思えてくる。これほどの男が、娘の死に灯で動揺しなかったはずがない。なのに、灯はいつも通りだった」


 その当直簿は、二十年と少し前のある日付で、ぷつりと途切れていた。それまで几帳面に並んでいた同じ手の字が、ある日を境にふっつりと消える。まるで、その日、その手の持ち主が、灯を守ることを永遠にやめてしまったかのように。


「ここから先は、別の人間の字だ」暁人は、ページをめくって言った。「源助さんは、ここで灯台守を辞めている。——いや、辞めさせられたのか、辞めるしかなかったのか。娘さんが死んだ、その少しあとです」


 娘の死とともに、灯を守る手が止まった。


 私はもっと、人の声で沖野家のことを知りたかった。けれど、岬の人々はもう、私たちに何も語らなかった。沖野、という名を出すだけで、皆、口をつぐんだ。網代の死以来、その沈黙は岩のように固かった。


 手がかりになったのは、墓だった。


 燈火月報の古い記録に、源助の住所が残っていた。私たちはそれを頼りに、岬の付け根の集落の、さらに外れにある小さな墓地を訪ねた。海を見下ろす斜面の墓地だった。手入れのされた墓もあれば、長く放られたまま傾いた墓もあった。潮風が絶えず吹き上げてくる場所で、どの墓石も、海のほうから白く、塩で削られていた。死んでなお、この土地の人間は海を見続けるのだ、と思った。


 沖野家の墓は、そのいちばん隅にあった。


 小さな、古い墓石だった。表に、沖野家之墓、とある。台座のあたりには苔が生し、花立てには、枯れた花の茎がわずかに残っていた。誰かが近ごろ、ここに花を供えた跡だった。けれど、その墓は明らかに、長くまともに守られてはいなかった。無縁仏になる、その一歩手前で、辛うじて踏みとどまっている。そういう墓だった。


 墓石の側面に、戒名が二つ刻まれていた。


 一つは、男の戒名。その俗名のところに、源助、とあった。命日は二十年近く前。もう一つは、若い娘の戒名。命日は、その二、三年前。十六歳。——燈里、と読めた。


 父と、娘。二人の名は、そこにあった。


 けれど、私が探していたもう一人の名は、どこにもなかった。双子の妹。灯子。その名は、この墓のどこにも刻まれていなかった。


「いないんですね」と、私は呟いた。


「ええ。ここには、いない」暁人は、墓石を静かに見ていた。「父と、姉は、ここで眠っている。けれど、妹は——ここにも、いない」


 その時、墓地の坂をゆっくり上ってくる人影があった。


 腰の曲がった、小柄な老女だった。手に、小さな花束と水桶を提げている。私たちが沖野家の墓の前に立っているのを見て、老女は足を止めた。警戒と、それから少しの驚きが、その皺深い顔に浮かんだ。


「あんたら……沖野さんの、知り合いかね」


「いえ」と私は答えた。「ただ、昔のことを調べていて。失礼ですが、この墓に、お花を」


「わしがね、たまに」老女は、花束を少し持ち上げて見せた。「守る人も、おらんようになったから。気の毒でね。せめて、花くらいは、と思って」


 守る人も、おらんようになった。その言葉が、墓の傾きと重なった。


 老女は、シゲ、と名乗った。源助の親の代から、この岬にいる、と言った。源助のことは、その生まれたときから、赤ん坊のころから知っていたのだという。源助が娘たちを育てるのも、その娘たちが死んでいくのも、この老女はずっと年上の側から見続けてきたのだった。


 わしも、もう長くないからね、と、シゲさんは笑うように言った。怖いものなんぞ、もうないよ、と。岬の沈黙の中で、この老女だけが、沖野家のことを語ってくれた。それは、燈屋家への恐れよりも、死者への長い弔いの気持ちのほうが勝っていたからかもしれなかった。そして、もう長くない、という、その諦めにも似た自由が、彼女の口を開かせたのかもしれなかった。


「源助さんはね、ほんとうに、灯みたいな人だったよ」シゲさんは、枯れた花を抜き、新しい花を活けながら言った。「無口で、不器用でね。けど、灯台の灯だけは、一晩も欠かさんかった。奥さんを若くに亡くしてね。双子の娘さんを、男手一つで育てて。


 貧乏でね。灯台守の給金なんぞ、知れたもんだ。それでも、あの人は、娘たちにはひもじい思いはさせんかった。自分は菜っ葉ばかり食うても、娘らには魚を食わせて。——燈屋さんに雇われとったけど、いいように使われとってねえ。給金も安く抑えられて。文句一つ言わずに。灯のことだけ考えて生きとる、そういう人だったよ」


「双子の、娘さん」


「上が、燈里ちゃん。下が、灯子ちゃん」シゲさんは、懐かしそうに目を細めた。「瓜二つでね。ちっちゃいころは、わしらにも、どっちがどっちだか、わからんかった。よう二人で手をつないで、唄を歌っとった。岬の、子供らの古い数え唄をね」


 唄。私はその言葉に、なぜか引っかかった。けれど、それがなぜ気にかかったのか、自分でもわからなかった。シゲさんは、もう先を話していた。


「けど、源助さん一人で双子を育てるのは、やっぱり難儀でね。下の灯子ちゃんは、七つか八つのころに、よそへやられたんだよ」


「よそ、というのは」


「源助さんの、古い船乗り仲間でね」シゲさんは言った。「子のない、ええ夫婦でね。灯子ちゃんを、わが子のように可愛がってくれる、と。源助さんも断腸の思いだったろうけど、娘の先々を思えば、そのほうが、と。そう言って、灯子ちゃんを託したんだよ」


 船乗り仲間に、託した。私はそれをノートに書きつけた。


「その、ご夫婦は、今は」と、暁人が初めて口を開いた。


 シゲさんの顔が、曇った。


「それがね……灯子ちゃんを引き取って、何年かして。その船乗りさんが、海で亡くなってね」


「海で」暁人の声が、低くなった。


「船が沈んでね。どこの海だったか……いや、確か、このあたりの沖だったと思うよ。回光の沖の、あの七つ岩のあたりで」シゲさんは、海のほうを見た。「気の毒に。灯子ちゃんを引き取った、その人が、よりにもよって、この岬の沖で沈んで。源助さんも、あれはずいぶんこたえとったようだった」


「沈んだのは、どんな船だったか、覚えていますか」と、暁人が静かに訊いた。


「さあ……よその、荷を運ぶ船だったと聞いたけどね。詳しいことは、わしらにもわからん」シゲさんは、何気なく言った。「あのころは、岬の沖で、ときどき船が沈んでねえ。難所だから仕方ない、と、皆そう言っとったよ。難所だから、仕方ない、と」


 七つ岩のあたりで、沈んだ。灯子の、養父が。


 私は、暁人の顔を見た。彼は何も言わなかった。けれど、その目が、ほんの少し細くなっていた。図書館で見た、あの難破の年表のことを考えているのが、わかった。よその船。値の張る荷。七つ岩で沈み続けた、船たち。その中に——灯子の養父の船も、あったのだろうか。


「灯子ちゃんは、それからどうなったんですか」と、私は訊いた。


「さあ……」シゲさんは、首を振った。「養父さんが亡くなって、養母さんが、どこか遠くの親戚を頼って、灯子ちゃんを連れて行ったきりでね。それきり、こっちには戻ってこんかった。便りもなくてね。——だから、燈里ちゃんが亡くなったときも、灯子ちゃんは来んかった。来られんかったんだろうね。どこにおるかも、わからんかったから」


 燈里の死のとき、灯子は来なかった。来られなかった。どこにいるかも、わからなかった。


「源助さんは、それから」と、暁人が促した。


「燈里ちゃんが、灯台から落ちて亡くなって」シゲさんの声が、震えた。「源助さんは、変わってしもうてね。あんなにしっかりした人が、灯台も辞めて、お酒ばかり。抜け殻みたいになって。それで、二年か三年してから……源助さんも、海で」


「海で」


「夜の海に入ってね。事故、ということになっとるけど」シゲさんは、そこで言葉を切った。それから、墓石の源助の名を、そっと撫でた。「わしは思うんだよ。源助さんは、もう生きとるのがつらかったんじゃないかって。奥さんを亡くし、上の娘さんを亡くし、下の娘さんとも離れて。守ってきた灯も手放して。何もかもなくしてしまって。——あの人の手元には、もう何も残っとらんかった」


 源助の手元には、もう何も残っていなかった。


 私はその墓を見た。父と姉が並んで眠る、小さな墓。そして、そこにいない妹。一つの家族がばらばらに欠けていって、最後に、この傾いた墓だけが残った。


「灯子ちゃんが、どこかで生きとるなら」シゲさんは、最後に言った。「いつか、この墓にお参りに来てくれたら、と思うんだよ。お父さんと、お姉ちゃんに。——けど、もう二十年だ。どこでどうしとるか。生きとるのか、それもわからん」


 水を替え、花を活け終えると、シゲさんは、墓に向かって、小さく手を合わせた。源助さん、燈里ちゃん、と、口の中で呼ぶのが聞こえた。それから、私たちのほうを振り返って言った。


「あんたら、もし、灯子ちゃんを、どこかで見つけることがあったら……この墓のこと、教えてやっておくれ。お父さんと、お姉ちゃんが、ここにおる、と。一度でええから、お参りに来てやってくれ、と」


 私は、約束した。シゲさんは、もう一度、墓に頭を下げて、ゆっくりと坂を下りていった。私たちはしばらく、その墓の前に立っていた。


 その後、私たちはできるかぎり、灯子の行方を追った。暁人の伝手で、古い住民票の移動を、たどれるだけたどってもらった。けれど、灯子の足取りは、養父の死のあと、養母とともに遠い県へ移ったところで、ぷつりと途切れていた。その先は、戸籍をきちんと開かなければわからない。そして、戸籍を開く正当な理由を、私たちは持っていなかった。


「灯子は、どこにいるのか」と、暁人は言った。「墓にも、いない。シゲさんも、行方を知らない。戸籍を開く手だても、私たちにはない。——二十年前、よそへやられて、養父を海で亡くし、それきり消えた、もう一人の娘」


「生きているなら、もう四十近いはずです」と、私は言った。「燈里と瓜二つだった、双子の妹」


 暁人は、答えなかった。海を見ていた。回光灯台の白い塔が、午後の光の中に立っていた。その灯台で、姉は死んだ。その沖で、養父は沈んだ。その灯を、父は守り、そして手放した。一つの家族をまるごと、この灯台が飲み込んだように、私には見えた。


 そして、その灯台を今、無言で守っている、あの管理人の女のことを、私はまた思った。なぜか、その日は、その温度のない横顔が、一日じゅう頭から離れなかった。


 灯子は、どこにいるのか。生きているのか。墓にも、戸籍にも、この土地の記憶にも、もうどこにもいない女。——いない、ということは、本当にどこにもいない、ということなのだろうか。その問いは、その晩、私をなかなか眠らせてくれなかった。


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