光は嘘をつかない
翌朝、宿の食堂に降りていくと、暁人はもう、卓の上を紙で埋め尽くしていた。
古い海図。灯台の図面の写し。それから、わら半紙を綴じたような、色の褪せた冊子が何冊か。彼は朝食には手をつけず、その冊子の一冊を、目を細めて読んでいた。私が向かいに座っても、しばらく顔を上げなかった。
よく見ると、冊子の余白には、細かい字で、びっしりと書き込みがあった。暁人自身の手によるものらしかった。日付、灯質、天候。何年も前から、この男が、日本中の灯台の記録を、こうして一人で読み解いてきたのだ、ということが、その書き込みの量から、伝わってきた。
「それは、何ですか」と私は訊いた。
「燈火月報」暁人は冊子を持ち上げて見せた。「灯台の灯の、記録です。いつ点して、いつ消したか。灯質に異常はなかったか。昔は、こういうものを、几帳面につけていた。海保の古い資料を、私は、写しで何冊か持っている」彼は、ぱらぱらとページをめくった。「灯台というのは、嘘がつけない、と言ったでしょう。灯は、毎晩、決まった時刻に点り、決まった時刻に消える。その記録は、必ず、どこかに残る。船の航海日誌に、近くの灯台の当直簿に、漁協の覚え書きに。一つの灯が、その晩どうだったかは、調べれば、たいてい、わかるものです」
彼は、開いた月報の、ある行を、指でなぞった。そこには、几帳面な筆跡で、その晩の灯質と、天候と、当直者の名が、記されていた。百年近く前の、見知らぬ灯台守が、見知らぬ夜に灯を守った、その記録。灯のことは、人が死んでも、消えない。
「二十年前の、事故の夜の灯を、調べているんですか」
「ええ」暁人は、初めてこちらを見た。「灯室で、人が一人、落ちて死んだ。それだけの騒ぎがあれば、灯の管理に、何かしら、乱れが出るはずだ。灯を入れ忘れる。消し忘れる。点す時刻がずれる。——人が死ねば、灯にも、その晩の動揺が、残るものです」
その考え方は、私には、なかったものだった。人の死を、人の証言からではなく、灯の記録から見ようとする。
私の仕事は、いつも、人から話を聞くことだった。人は、嘘をつく。隠す。忘れる。都合よく作り変える。私は、その嘘や沈黙の隙間から、本当のことを掘り出そうとして、十二年やってきた。けれど、この男は、はじめから、人を当てにしていなかった。灯の記録、建物の造り、錆の落ち方。口をきかないものたちのほうが、人より、よほど正直だ、と信じている。建物としゃべるほうが好きだ、という言葉の意味が、少しずつ、わかってきた気がした。
午前のうちに、私たちは漁協を訪ねた。
道々、暁人は、ほとんど口をきかなかった。歩きながら、ときどき立ち止まっては、灯台の見える角度を確かめ、また歩き出す。彼の頭の中で、何が組み上がりつつあるのか、私には見えなかった。ただ、昨日までの私の不安——形にならない、漠然とした違和感が、この男の中では、もっと具体的な、輪郭を持った問いに変わりつつある、ということだけは、感じられた。
二十年前の燈火の記録など、漁協に残っているはずもなかったが、暁人が当てにしていたのは、紙ではなく、人のほうだった。海に長く出ていた者なら、灯のことは、体で覚えている。応対に出た漁協の老人——以前、公民館で私に釘を刺した、あの法被の男だった——は、暁人の用件を聞くと、露骨に渋い顔をした。
「また、その話か」と男は私を見た。「燈屋さんの耳に入ると、言ったろう」
「灯のことを、うかがいたいだけです」暁人が、穏やかに割って入った。「事件の話ではない。灯台の、灯の話です。あなたがた漁師にとって、回光の灯は、どういうものでしたか」
灯の話、と聞いて、男の警戒が、わずかに緩んだ。灯のことなら、語ってもいい、と思ったのだろう。あるいは、この、よそから来た痩せた男が、燈屋家のことでも、二十年前のことでもなく、ただ純粋に、灯そのものに惹かれているのが、伝わったのかもしれない。暁人には、そういうところがあった。人の警戒を解くというより、人の警戒の、外側にいる。利害も、詮索も、はじめから持っていない男の問いには、土地の人間も、つい、答えてしまうのだった。
「……命綱だよ」と男は言った。「七つ岩は、地獄でね。あの灯がなけりゃ、夜の海は、出られん。回光の灯は、十五秒に一度、ぐるりと回る。それを数えて、わしらは、自分の居場所を知ったもんだ。一閃、二閃……ああ、岩はあっち、港はこっち、と」
「灯が消えたことは、ありましたか」
「めったにない」男は首を振った。「灯守りが、しっかりしとったからな。沖野さんは……まあ、無口な人だったが、灯のことだけは、決して、おろそかにせんかった。台風の晩でも、灯は、消えんかった」
「沖野さんは、どんな方でしたか」と私は訊いた。
「真面目な人だったよ。気の毒なくらいにな」男は、少し声を落とした。「奥さんを早くに亡くして、男手一つで、娘さんを育ててな。双子だったが、下の子は、七つ八つのころに、よその家にやられたから、こっちで育ったのは、上の娘さんだけだ。……灯台の灯みたいな人だったよ。決まったことを、決まったとおりに、黙ってやる。そういう人だった。それが、娘さんが死んでから、すっかり、変わってしまってな」
男は、そこで、言葉を切った。それ以上は、燈屋家のことに触れてしまう、と思ったのかもしれない。「……まあ、気の毒な人だったよ。それだけだ」
沖野。灯台守の名が、また出た。暁人は、ゆっくりとうなずいた。
「では、二十年前の——沖野さんの娘さんが、亡くなった晩は、どうでしたか」と暁人は訊いた。「あの晩も、灯は、いつも通りでしたか」
男は、口をつぐんだ。それから、記憶をたぐるように、海のほうへ目をやった。
「……いつも通りだったよ」と、しばらくして言った。「あの晩も、灯は、ちゃんと回っとった。わしは、ちょうど、夜の漁から戻るところでね。沖から、あの灯を見とった。十五秒に一度、いつも通りに。だから、岬で、あんな騒ぎが起きとったなんて、こっちは、夢にも思わんかった。朝になって、娘さんが落ちて死んだと聞いて……灯は、何も、変わっとらんかったのに、と」
灯は、何も、変わっとらんかったのに。
男は、自分の言葉に、少し戸惑ったような顔をした。長いこと、口にしてこなかったことを、ふと口にしてしまった、という顔だった。それきり、男はもう、二十年前のことは話さなかった。私たちは礼を言って、漁協を出た。
港のへりを、暁人は、海を見ながら、ゆっくり歩いた。
「おかしい」と、彼は言った。
「灯が、いつも通りだったことが、ですか」
「ええ」暁人は立ち止まった。「考えてみてください。灯台守の娘が、灯室から落ちて死んだ。灯室というのは、灯の、すぐそばだ。光源とレンズの納まった、ガラス張りの部屋。そのすぐそとを巡る手すりを越えて、人が一人、落ちた。父親は、灯台守だ。その晩、灯を守っていたのは、その父親のはずだ」
私は、その光景を、頭の中に置いてみた。狭い灯室。回るレンズ。そこから落ちる、娘。
「もし、父親が、娘の落ちる現場に居合わせたなら」暁人は続けた。「その晩、灯を、いつも通りに保てるはずがない。娘が死んだんです。灯どころではない。灯は乱れ、あるいは消え、当直簿には、その晩の混乱が、何かしら残ったはずだ。——ところが、灯は、いつも通りだった。十五秒に一度、一晩中、狂わずに回っていた」
「父親が、その場にいなかった、ということですか」
「それも、一つの読み方です。だが、当直の灯台守は、その晩、灯台に詰めていたはずだ。重錘式は、放っておいても回り続けるが、塔の中を降りる錘が下までいけば、止まってしまう。だから、数時間ごとに、巻き上げてやらねばならない。点灯と消灯の時刻も、守らねばならない。——つまり、源助さんは、その晩、灯台にいた。娘の、すぐ近くに。それでいて、灯は、点灯も消灯も時刻どおり、巻き上げも欠かさず、灯質も、一度も狂わなかった」暁人は、海の向こうの灯台を見た。「だが、私には、もう一つの読み方が、引っかかる。父親は、その場にいた。あるいは、すぐに知った。それでも、灯を、守り続けた。娘が死んだ、その晩に、何ごともなかったように、十五秒に一度、灯を回し続けた」
私は、ぞっとした。娘が、すぐそこで死んでいるのに、父親が、灯を守り続ける。そんなことが、できるだろうか。
「できない」と、私は言った。「ふつうの父親には、できません」
「ええ。ふつうなら、できない」暁人は、静かにうなずいた。「だから、その晩、灯台では、ふつうでないことが、起きていた。灯は、いつも通り回っていた。光は、嘘をつかない。十五秒に一度、灯は、本当のことを、海に向かって、繰り返していた。——嘘をついたのは、その灯を、いつも通りに守らされていた、人間のほうだ」
守らされていた。私は、その言葉を、聞きのがさなかった。
「誰に、守らされていたんですか」
「それは、まだ、わからない」暁人は、こちらを向いた。「光は、その晩、灯が正常だったことしか、教えてくれない。なぜ正常だったのか、誰が父親に灯を守らせたのか、そこから先は、光の領分ではない。そこから先は——人に、訊くしかない」
その人が、もう、いないとしたら。私は、消えた一家のことを思った。死んだ娘。その後、海で死んだ父。そして、行方の知れない、双子の妹。灯を守らされた父は、もう、何も語らない。
「沖野源助という人のことを、もっと知りたい」暁人は、海図を畳みながら言った。「灯を守り続けた男が、その後、どう生きて、どう死んだか。——灯のことなら、灯が教えてくれる。だが、人のことは、人が覚えている。この土地には、まだ、覚えている人間が、いるはずだ」
「でも」と私は言った。「この土地の人は、燈屋家のことになると、貝のように口を閉ざします。網代さんの死で、それは、もっとひどくなったはずです」
「ええ。だから、土地の外に、出ている人を、探すべきだ」暁人は言った。「事故の当時、この村にいて、今は、村を出た人間。燈屋家のしがらみの、届かないところにいる人間。——そういう人なら、二十年前のことを、話してくれるかもしれない」
土地を出た人間。私は、ノートに、当時の村の関係者を、思いつくまま書き出してみた。事故の処理に関わった、役場の人間。検案書を書いた、医者。当時の、新聞記者。——みな、二十年前、この岬で、灯台守の娘の死を、事故として片づけた側の人間だった。
その日の午後、灯台の灯がともる前から、私は宿のノートに、その朝のことを書きつけていた。
燈火月報。二十年前の事故の夜。灯は、いつも通り、十五秒に一度、回っていた。父・源助は、娘が死んだ晩も、灯を守り続けた。あるいは、守らされていた。
最後に、私は、暁人の言葉を、そのまま書き写した。
光は、嘘をつかない。嘘をつくのは、光を語る、人間のほうだ。
書きながら、私は、自分のところに届いた、あの一行のことを考えていた。二十年前、灯台で死んだ少女は、事故ではない。殺されたのだ。あの便箋を書いた誰かは、もしかしたら、二十年前のあの晩、灯が、いつも通り回っていたことの意味を、知っているのかもしれなかった。守らされていた父の、その先にあったものを。
灯を守らせた者がいる。父に、娘の死を黙らせ、何ごともなかったように灯を回させた者が。それができるのは、この岬で、灯台守の上に立つ者——灯台を、家ごと所有する者だけだ。私は、鎖の張られた門を思った。黄ばんだ石の館を。そして、取りつく島もなかった、あの管理人の、温度のない顔を。糸は、やはり、あの家へ続いていた。
窓の外で、日が落ちていった。やがて、岬の先の灯が、ともった。十五秒に一度、白い光が、海をなでていく。二十年前と、何も変わらない、同じ間隔で。その規則正しさが、今夜は、なぜか、ひどく不気味なものに見えた。




