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灯台守の娘  作者: よしお


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5/17

館を読む男

 東雲暁人は、網代の死から三日後の、昼過ぎのバスで岬にやってきた。


 バス停まで迎えに出た私が、まず目にしたのは、男よりも先に、その荷物だった。よれた鞄が二つ。片方は服でも入っているのだろうが、もう片方は、明らかに紙の束で角が張っていた。図面か、資料か。男はその重そうな鞄を二つとも肩から提げ、首には古びた双眼鏡を一つ、ぶら下げていた。


 年のころは、四十代にも、五十代にも見えた。痩せていて、背だけは高い。髪に寝癖がついたまま、洗いざらしのシャツの上に、季節に合わない上着を羽織っている。手だけが、妙にきれいだった。細くて、節の目立つ、何かを測ることに慣れた指。私が名を名乗ると、男はようやくこちらを見た。見た、というより、私の背後の、岬の先のほうへ視線を向けて、そのついでに私を視野に入れた、という感じだった。目だけは、よく動いた。灯台の輪郭を、上から下まで、一本の線でなぞるように。


「東雲です」と男は言った。「あれが、回光灯台ですか」


 挨拶は、それだけだった。男の目は、もう私を通り越して、岬の突端の白い塔に釘づけになっていた。


「ええ。お話ししたい——」


「明治の、石造り。第一等。よく残っている」男は私の言葉をまるで聞かず、双眼鏡を目に当てた。「ああ、いい。レンズ室の意匠が、当時のままだ。建て替えていない。あれは、本物だ」


 私は、口を閉じた。電話で聞いていたとおりの男だった。人としゃべるより、建物としゃべるほうが好きな男。私は、自分が呼んだこの変人と、これから何をどう進めればいいのか、早くも見当がつかなくなりかけていた。


「東雲さん」と、私は呼びかけた。「私が、なぜあなたに来ていただいたか、聞いていらっしゃいますか」


「灯台のことで、人が死んだ、と」暁人は、双眼鏡を覗いたまま答えた。意外にも、ちゃんと聞いていたらしかった。「二十年前に一人。三日前に一人。そして、あなたのところに、差出人のない手紙が来た。——人の話は、半分しか聞いていませんが、その半分は、聞いています」


 その半分は、聞いている。私は、この男の物差しが、まだ掴めなかった。


 とりあえず、私たちは岬の先へ歩いた。


 歩きながら、私は事情を話そうとした。差出人のない手紙のこと、二十年前に灯台で死んだ娘のこと、そして三日前、その関係者らしい網代という男が崖から落ちて死んだこと。けれど暁人は、私の話の半分も聞いていないようだった。彼の関心は、近づくほどに大きくなる灯台と、その隣の洋館に、すべて吸い寄せられていた。


「渡り廊下がある」歩きながら、暁人がつぶやいた。「灯台と母屋が、廊下でつながっている。珍しい。灯台守は、ふつう、塔とは別の小屋に住むものだ。あれは、もともと灯台を、家の一部のように扱ってきた家の造りだ」


 彼は歩きながら、ずっと灯台から目を離さなかった。足元の悪い道を、つまずきもせずに歩くのが、不思議なくらいだった。


「あの灯の強さなら、光は二十海里は届く」暁人は続けた。「晴れていれば、ずいぶん沖からでも見える。だが、岩礁は、すぐそこだ。船にとってあの光は、ここまでおいで、という合図であると同時に、ここから先は来るな、という警告でもある。同じ一つの光が、招きもし、拒みもする」


「燈屋家、といいます」私は言った。「あの灯台も、館も、岬の半分も、あの一族のものだそうです」


「灯台を、私有している」暁人は、そこで初めて、少しだけ私のほうを向いた。「それは、相当に古い話だ。燈屋家は、江戸のころ、廻船で身代を築いた家でしょう。七つ岩で船が沈むたび、いちばん損をするのは、この家だった。だから、自分たちで灯を立てた。常夜灯から始めて、明治には、私財で、この石造りに建て替えた。国が、灯台を国のものにしていったときも、ここだけは手放さなかった。——光を、私物にし続けた家です」


 鎖の前まで来ると、暁人は立ち止まり、しばらく塔を見上げていた。


「中へは、入れません」と私は言った。「私有地で。管理人の方に、断られました」


「結構です。外から、たいていのことはわかる」暁人は鞄から、折りたたんだ古い図面の写しを取り出して広げた。回光灯台、と隅に書かれていた。古い灯台を訪ねるたび、こうして図面を集めているのだ、と彼は言った。この一枚も、何年も前に、県立図書館の郷土史料の中から見つけて、写しを取っておいたものらしかった。「灯台というのは、嘘がつけない建物です。決まった高さに、決まった光を、決まった間隔で出さなければ、船が沈む。だから、すべてが、機能のとおりに造られている。飾りのようでいて、飾りでないものばかりだ」


 彼は図面の一点を指でたどった。


「この灯台の灯質は、十五秒に一閃。十五秒に一度、光が一周して、こちらを照らす」暁人は言った。「光源は、塔の中心で、ずっと点いている。回っているのは、その周りのレンズだ。大きなガラスのレンズが、ぐるりと回って、光を一方向に束ねて飛ばす。だから、外から見ると、十五秒ごとに、ぱっと明るくなる。今夜になれば、わかります」


 十五秒に一閃。私は、ノートにそれを書きつけた。これまで毎晩、宿の窓から見てきた、夜の光のことを思い出していた。確かに、それは、十五秒ほどの間隔で、海をなでていた。


「光源は、どうやって回すんですか」私は訊いた。


「いい質問だ」暁人は、なぜか嬉しそうな顔をした。「この古さなら、おそらく、重錘式です。塔の中を、重い錘が、ゆっくり降りていく。その重みで、時計仕掛けの歯車が回って、レンズを回す。柱時計と同じ理屈だ。錘が下まで降りたら、人が巻き上げてやる。今は、たぶん電動の補助がついているでしょうが、骨組みは、百年前のままだ」


 重い錘が、塔の中を、ゆっくり降りていく。私には、その光景が、うまく像を結ばなかった。けれど暁人の声には、そういう古い機械を語るときの、隠しきれない愛着があった。


「機構は、塔の下のほうの、機械室にある」暁人は続けた。「歯車と、錘と、巻き上げの装置。あの規模の灯台なら、錘は、ひとつ何十キロもある。鎖で吊られて、ゆっくり降りる。——ああいうものは、よくできている。長持ちするように、簡単には壊れないように、できている。だが、よくできた機械ほど、扱いを知る者の手にかかれば、何にでも使える」


 何にでも使える。暁人がどういうつもりでそう言ったのか、私にはわからなかった。彼はただ、機械そのものに見惚れているだけのようだった。


 それから彼は、双眼鏡で、塔の最上部を示した。


「あの、てっぺんの、ガラスに囲まれた部屋。あれを灯室という。光源とレンズが、あの中にある。人が一人、二人、立って作業できる広さだ」暁人の声は、灯室を、まるで自分の部屋のように語った。「面白いのは」暁人は、灯台と、その背後の館を、交互に指した。「灯台は、岬の先の、海ぎわの低い岩の上に立っている。塔そのものは、三十メートルそこそこだ。ところが、館のほうは、一段高い丘の上に建っている。だから、灯室の高さと、丘の上の館の最上階の窓が、ちょうど釣り合う。渡り廊下は、その高さの差を、斜めに下って繋いでいるわけだ。——母屋から、灯室の中が、正面に見通せる。光を、家から見守れるように、よく考えて据えてある。それに、館は灯台の陸側だ。海へ放つ光の、邪魔にもならない」


 母屋から、灯室の中が見える。私は、それを書きつけた。


「二十年前、その灯室から、娘さんが落ちた、と聞きました」私は言った。


 暁人は、双眼鏡を下ろした。


「灯室には、人の背より高い手すりがある。光を守る人間が、落ちては困るからだ」彼は静かに言った。「そこから落ちるというのは……ふつうの落ち方では、ない」


「光は嘘をつかない」暁人は、塔を見上げたまま、独り言のように言った。「嘘をつくのは、いつだって、光を語る人間のほうです」


 その言葉の意味を、私はそのときは、よく掴めなかった。


 それから私は、暁人を、網代が落ちた崖へ案内した。道々、私は、網代と会ったときのことを話した。応接間での横柄な態度。差出人のない手紙、という私の言葉に、あの大柄な体が見せた、一瞬のこわばり。そして、辞去するとき、背中で聞いた言葉——今夜は出かける、一人で行く、場所はわかっとる。


 黄色いテープは、もう外されていた。暁人は、低い手すりの前にしゃがみ、地面を見て、それから手すりの錆を見て、最後に、崖の縁から下の海を覗いた。手すりの一点を、指で長くこすり、その指先を、じっと見た。錆の落ち方を、確かめているようだった。長いこと、彼は何も言わなかった。


「ここから、灯台が見える」やがて、彼は言った。


 確かに、その崖の上からは、岬の先の灯台が、よく見えた。海を隔てて、白い塔が、正面に立っている。


「夜、ここに立てば、十五秒に一度、灯台の光が、こちらを照らしたはずだ」暁人は手すりに手をかけ、その低さを確かめるように、軽く押した。「網代という人は、夜、自分の足でここへ来た、と言いましたね」


「ええ。一人で行く、場所はわかっている、と。出かける前に、そう言っていました」


「妙ですね」暁人は立ち上がった。「分別もあって、足腰もまだ確かな男が、街灯もない夜道を、わざわざ一人で、崖の上まで来た。来たんです。誰かに呼ばれでもしなければ、来ない場所だ。なぜ、ここだったのか。そして、なぜ、落ちたのか」彼は、私のほうを見た。今度は、ちゃんと、私を見ていた。「事故だと、警察は言ったんですね」


「ええ」


「事故かもしれない」暁人は、あっさり言った。「断る材料は、まだ何もない。低い手すり、暗い夜、年寄りの足。事故が起きるのに、十分な条件がそろっている。——ただ、私は、こうも思う。条件がそろいすぎている場所というのは、ときどき、そろえられた場所だ」


 そろえられた場所。私は、その言葉を、覚えておくことにした。


 この男は、人を見ない。けれど、人が見落とすものを見る。崖の手すりの錆、灯室の手すりの高さ、館の窓と灯台の高さ。私が三日かけても気づかなかったことを、半日で、いくつも拾い上げていた。建物としゃべるほうが好きだ、と知人は言った。なるほど、と私は思った。この男にとって、建物は、口の重い証人なのだ。正しく問えば、建物だけは、嘘をつかない。


 その夜、私たちは宿の二階の窓から、灯台の灯を見た。


 暁人は、古い懐中時計を片手に、灯がこちらを向くたびに、低く数を読んだ。一閃、それから沈黙。また一閃。彼は何度もそれを繰り返し、やがて時計を閉じた。


「十五秒に一閃。きっかりだ」暁人は満足げに言った。「百年、狂っていない。立派なものだ」


 私は、そのとき、ようやく腰を据えて、すべてを話した。台所に届いた、差出人のない手紙。灯台の透かしの入った便箋。


「便箋は、燈屋家の紙だと、確かめたんですね」暁人が、初めて口を挟んだ。


「ええ。百年史の見返しと、同じ紙でした。透かしまで、ぴたりと」


 暁人は、小さくうなずいた。先を、というように。私は続けた。二十年前、灯台守の娘が十六で死んだこと。沖野という、消えた一家のこと。父も、娘の死の二、三年あとに、海で死んだこと。残されたもう一人の娘——双子の妹は、早くによそへやられて、今はもう行方も知れないこと。そして、網代の死と、そのポケットにあった、小さな紙の舟のこと。


 暁人は、灯台の光を見つめたまま、黙って聞いていた。紙の舟、というところで、その目が、わずかに動いたように見えた。


「舟」と、彼は小さく繰り返した。それきり、何も言わなかった。


 話し終えると、私は訊いた。


「手伝っていただけますか」


 暁人は、しばらく答えなかった。窓の外で、灯台が、また一つ、光を放った。


「私は、灯台を見に来ただけです」と、彼は言った。「いつも、そう言うことにしている」彼は、こちらを向いて、初めて、笑うような表情を見せた。「ですが、まあ……あの灯台には、まだ、読んでいないところが、たくさんある。しばらく、いることにします」


 それが、承知の返事だった。


 一人で岬に来てから、初めて、私は少しだけ、肩の力を抜いた。この変わった男が、何を見て、何を考えているのか、私にはまだ半分もわからない。けれど、少なくとも、私が一人で抱えていた、形にならない不安——事故にしては静かすぎる土地、便箋の透かし、紙の舟——を、もう一人、見てくれる人間が、ここにいる。


 灯台の光が、十五秒に一度、私たちの座る部屋を、薄く撫でていった。


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