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灯台守の娘  作者: よしお


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4/19

紙の舟

 燈屋家の門は、昼に見ると、よけいに黄ばんで見えた。


 前の晩に決めたとおり、私は朝のうちに、もう一度岬の先へ歩いた。鎖の板の字は、昨日と同じだった。私有地につき立入を禁ず。鎖を越えるつもりはなかった。ただ、この家の誰かと、言葉を交わしたかった。便箋は、この家から出た。今のところ、確かな足がかりは、それだけだった。


 私は鎖の前に立ち、館のほうへ声をかけた。返事はなかった。もう一度、今度は大きく呼んだ。しばらくして、館の脇の戸が開き、一人の女が出てきた。


 地味な紺の上着に、ひっつめた髪。年は私と同じくらいか、少し上か。化粧気のない、整ってはいるが、何の表情も浮かべていない顔だった。女は鎖の手前まで来ると、足を止めた。距離を、きっちりと残したまま。


「どちらさまでしょう」


 声も、顔と同じだった。丁寧で、温度がなかった。


「真壁と申します。物を書く仕事をしています」私は名乗った。「ご当主の燈屋玄三さんに、お話をうかがえないかと思いまして。二十年ほど前の、この灯台のことで」


 女の表情は、動かなかった。動かなかった、と私は思った。けれど、二十年前、という言葉のあとに、ほんの一拍、間があったような気もした。風の音にまぎれるくらいの、短い間だった。


「主人は、どなたにもお会いしません」女は言った。「お引き取りください」


「ほんの少しで結構です。お加減が悪いのは存じています。お返事だけでも、取り次いでいただけませんか」


「お会いしません」女は同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。「灯台のことでしたら、お役所か、郷土史の本を当たってください。ここには、お話しできることは、何もありません」


 それで終わりだった。女は会釈ともつかない動きで首を傾け、踵を返した。引き止める隙は、どこにもなかった。戸が閉まり、館はまた、一つの明かりも見せない、黄ばんだ石の塊に戻った。


 私は、しばらくその場に立っていた。管理人だ、と思った。女将が言っていた、世話の人。たった二人で暮らしている、その一人。


 奇妙な女だった。取りつく島もない応対だったが、それは、おどおどした拒絶ではなかった。むしろ、何もかもを予期していたような、落ち着いた拒絶だった。私のような人間が、いつか鎖の前に立つことを、あらかじめ知っていたかのような。——そこまで考えて、私は苦笑した。また、あの癖だ。無愛想な使用人を一人見ただけで、勝手に物語を編んでいる。鎖を張って人を拒む家の使用人が、見ず知らずの物書きに当主を取り次がないのは、ただ、当たり前のことだった。


 糸は、あの家へ続いている。けれど、入口は、固く閉ざされていた。


 別の入口を、私は探すことにした。


 その日の午後、私は民宿の女将に、もう一度尋ねた。二十年前、村で力のあった人は、誰でしょう、と。事故の処理にしろ、何にしろ、当時、村の物事を決めていた人に、会ってみたかった。


「力のあった人ねえ」女将は茶を淹れながら、少し考えた。「そりゃあ、網代さんでしょうね。網代権左さん。長いこと、村の顔役をされて。漁協も、役場も、あの人が睨みをきかせてた」


「今も、こちらに」


「ええ。もう引退されて、岬の外れの、見晴らしのいいところにお屋敷を建てて。ご隠居ですよ」女将は、少し声を落とした。「でも、あの人も、燈屋さんとは深い仲でね。二十年前のあれこれを訊くなら……まあ、あの人くらいしか、いないかもしれないけど」


 まあ、あの人くらいしか、いないかもしれないけど。女将は、そこで言葉を濁した。訊いても、答えはしないだろう、という顔だった。


 網代の屋敷は、岬の付け根から、海沿いの道を少し登ったところにあった。


 新しい、立派な家だった。白い塀に囲まれ、門から玄関までの石畳の両脇に、手入れのされた庭木が並んでいる。この村で、これだけの家は、ほかになかった。私が門の呼び鈴を押すと、しばらくして、初老の家政婦らしい女が出てきた。私が来意を告げると、女は奥へ引っ込み、長く待たされたあと、戻ってきて、応接間へ通された。


 網代権左は、革張りの椅子に、深く腰かけていた。


 六十を過ぎたくらいの、大柄な男だった。かつては恰幅のいい偉丈夫だったのだろうが、今は肉が少し落ちて、上等な着物が、わずかに余って見えた。それでも、人を見下ろすことに慣れた目つきだけは、衰えていなかった。


「物書きが、わしに何の用かね」


 挨拶もそこそこに、網代は言った。私が、二十年前の灯台の事故について調べている、と告げると、その目が、すっと細くなった。


「事故」と網代は繰り返した。「事故のことなら、何もないよ。気の毒に、灯台守の娘さんが落ちて死んだ。それだけだ。何を調べることがある」


「網代さんは、当時、村のことを取りまとめておられたとうかがいました。あの事故の処理にも、関わられたのではないかと」


「処理も何も、事故だ。警察が調べて、事故だと言った。それで終わりだ」網代は、太い指で、椅子の肘掛けを叩いた。「あんた、何が言いたいんだ。二十年も前のことを、今ごろ蒸し返して。誰かに頼まれたのか」


 誰かに頼まれたのか。その問い方に、私は引っかかった。網代は、私の背後に、誰かの影を見ているようだった。


「いえ、誰にも」と私は答えた。「ただ、燈屋さんのお宅を訪ねたら、けんもほろろで。それで、当時のことをご存じの方を、と思いまして」


 燈屋、という名を出すと、網代の眉が動いた。


「燈屋さんに、会ったのか」


「いえ。管理人の方に、断られました」


「……そうか」網代は、少し落ち着いたようだった。それから、探るように言った。「やめておけ。燈屋さんのことは、この村じゃ、誰も口にせん。あんたみたいなよそ者が、首を突っ込んでいいことじゃない。あの家のことは、わしだって、何も知らんのだ。何もな」


 何も知らん、と言いながら、網代の目は、何かを知っている者の目だった。


「いえ。ただ、一通の手紙が、私のところに届きまして」と、私は鎌をかけた。「差出人のない手紙が」


 網代の指が、止まった。


 ほんの一瞬だったが、その大柄な体が、こわばったのが見えた。網代は何か言いかけ、それを飲み込み、それから、低い声で言った。


「……手紙なんぞ、いたずらに決まっとる」


「網代さんも、何か、お受け取りになりましたか」


「帰ってくれ」網代は立ち上がった。思ったより、急な動きだった。「わしは忙しい。昔のことを、ほじくり返す暇人に、付き合っている時間はない」


 話は、それで打ち切られた。私は辞去するしかなかった。けれど、玄関へ向かう廊下で、網代が、家政婦に低く言いつけている声が、背中越しに聞こえた。


「……今夜は、出かける。車はいい。一人で行く。場所はわかっとる」


 私は足を止めなかった。聞かなかったふりをして、屋敷を出た。一人で行く、場所はわかっとる。網代は、今夜どこかへ呼ばれている。それが誰からの呼び出しなのか、私には知りようがなかった。けれど、差出人のない手紙、という私の言葉に、あの男が見せた一瞬のこわばりだけは、はっきりと覚えていた。


 網代権左が死んだのは、その夜のことだった。


 翌朝、民宿の朝食の席で、女将が、青い顔でそれを告げた。網代さんが、回光岬の崖から落ちて亡くなった、と。夜のうちに、岬の旧い展望台のあたりで足を滑らせたらしい、と。


 私は、箸を置いた。


「事故、ですか」


「そう聞いてますよ。手すりも低い、古いところでね。夜に、あんな場所へ、何しに行ったんだか」女将は首を振った。「お年なのに。足元だって、もう確かじゃなかったでしょうに」


 夜に、あんな場所へ、何しに行ったんだか。私の頭の中で、昨日の声が反響した。今夜は、出かける。一人で行く。場所はわかっとる。網代は、自分の足で、あの崖へ向かったのだ。誰かに呼ばれて。そして、落ちた。


 その日の昼、私は岬の展望台へ行ってみた。


 崖の上の、小さな平場だった。錆びた手すりは、確かに低く、腰の高さもない。その向こうは、まっすぐな断崖で、下では波が、白く岩を噛んでいた。事故、と言われれば、事故に見えた。足を滑らせた老人が、低い手すりを越えて落ちる。ありふれた、不幸な事故。


 けれど私は、昨日の網代の足取りを思い出していた。応接間で立ち上がったときの、存外しっかりした動き。あの男が、夜道を一人で歩いてここまで来て、こんなに低いとはいえ手すりを、うっかり越えて落ちるだろうか。自分の足で、来ようと思って来た場所で。


 立入を禁じる黄色いテープが、風に鳴っていた。警察の姿はもうなく、現場は、ただの寒々しい崖に戻りつつあった。私はテープの手前で、しばらく海を見ていた。


 その晩、女将から、もう一つのことを聞いた。


 網代の遺体の、上着のポケットに、妙なものが入っていたのだという。村の駐在から漏れ聞いた話だ、と前置きして、女将は声をひそめた。


「紙の、舟ですって」


「舟」


「折り紙の、小さな舟。子供が折るような。なんで、あんな立派なご老人が、そんなものを持って……気味が悪いって、駐在さんも言ってたそうですよ」


 紙の舟。私は、ノートにそれを書きつけた。網代権左、転落、崖、事故。そして、ポケットの紙の舟。意味は、何もわからなかった。ありふれた事故と、子供の折り紙。その二つは、私の中で、どうしても一つに結びつかなかった。結びつかないまま、けれど、奇妙な重さで、そこに残った。


 舟は、海をゆくものだ。この岬の人間は、舟で海に出て、魚を獲り、難破した船の荷を拾ってきた。けれど、崖から海へ落ちて死んだ老人のポケットに、なぜ、舟なのか。海へ出ていくはずの舟が、なぜ、海へ落ちた男のところに。考えても、糸口はなかった。


 告発状が届いてから、まだ、いくらもたっていなかった。その告発状に書かれた死の、二十年前の処理に関わったかもしれない男が、私と話した、その夜に死んだ。事故として。


 偶然だ、と思おうとした。世の中には、偶然がある。老人は、毎日どこかで足を滑らせて死んでいる。網代が昨夜どこかへ呼ばれていたことも、私の聞き違いかもしれなかった。確かめてもいないことを、確からしく組み立ててしまう、あの癖が、また顔を出しているだけかもしれなかった。


 それでも、一つだけ、動かせない事実があった。私が、網代に会った。差出人のない手紙のことを、口にした。その夜に、網代は死んだ。もし——もし、これが偶然でないのなら。私が彼の名を口にし、彼を訪ねたことが、彼の死を、いくらかでも早めたのだとしたら。その考えは、ありふれた事故という説明よりも、ずっと重く、私の胃の底に沈んでいった。


 それでも、私はその夜、宿の固定電話を借りた。岬に入ってから、携帯はろくに圏内に入らなかった。灯台のある突端は完全に圏外で、宿のあたりでも、電波は気まぐれにしか立たない。私は受話器を取り、東京の知り合いに、一本、連絡を入れた。古い事件を、いっしょに掘ったことのある男だった。


 回光岬という土地のこと、二十年前に灯台で死んだ娘のこと、そして昨夜、その関係者らしい老人が一人、崖から落ちて死んだことを、私はかいつまんで話した。事故として処理されたが、どうも腑に落ちない、と。誰か、この土地と灯台に詳しい人間を知らないか、と訊いた。


 男は、少し黙ってから、一人、心当たりがある、と言った。


「東雲、っていう男だ」と、電話の向こうで男は言った。「東雲暁人。職業は……さあ、何だろうな。肩書のない男だ。ただ、灯台のことなら日本中を見て回ってるって話だし、古い建物の図面を読ませたら、右に出る者がいない。変わってるが、腕は確かだ」


「事件、と決まったわけじゃないけれど」と、私は念のため言い添えた。「まだ、ただの事故かもしれない」


「事故でも何でも、お前さんが灯台のことで声をかければ、あの男は来るさ。古い灯台があると聞いて、放っておけるたちじゃない」男は笑った。「妙な男でね。あいつが一度入って調べた土地は、なぜか、あとから厄介な話が掘り出される。本人は、建物を見に来ただけだ、と言い張るんだがね。……まあ、灯台のことを訊くなら、あれ以上の相手はいない。連絡先を教えてやる。ただし、まともな世間話は期待するな。人としゃべるより、建物としゃべるほうが好きな男だ」


 私は礼を言って、その連絡先を書き留めた。東雲暁人。灯台に詳しい、肩書のない男。


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