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灯台守の娘  作者: よしお


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3/19

灯台の透かし

 翌朝、私は前夜に決めたとおり、もう一度、鎖の前まで歩いた。


 夜の灯が消え、朝の光の中で見る灯台は、ゆうべの黒い影とは別のものだった。白い石の塔は、思ったより傷んでいた。表面の漆喰が方々で剥げ、潮風に削られた跡が、灰色の地肌になって縞をつくっている。それでも、まっすぐだった。百年、この風の中に立って、まだ少しも傾いていない。塔の背後、一段高い丘の上に建つ洋館のほうは、灯台よりも古びて見えた。窓のいくつかは雨戸が閉ざされ、蔦が壁の半分を覆っている。渡り廊下が、塔と館を、骨と骨のように繋いでいた。


 灯台のてっぺん、ガラスに囲まれた灯室が、朝の光をはね返していた。あの中に、二十年前、十六の娘が立っていて、そこから落ちた。落ちた、と人は言う。落とされた、と手紙にはある。同じ高さを、私は鎖のこちらから見上げた。人がうっかり落ちるには、あの灯室をめぐる手すりは、たぶん高すぎた。もっとも、こんなことは、近くで見もせずに言えることではなかった。


 鎖の板の字を、私はもう一度読んだ。私有地につき立入を禁ず。


 その向こうに、人影が一つあった。


 館の脇の、裏手のほうから現れて、灯台の足もとへ歩いていく。遠くて、男か女かもわからなかった。地味な色の服を着て、何か道具のようなものを提げている。灯台の扉に手をかける前、その人影は、一度だけこちらを向いた——ように見えた。鎖の前に立つ、見慣れぬ女のことを、確かめるように。けれど距離がありすぎて、顔も、表情も、何も読み取れなかった。人影はすぐにまた背を向け、扉を開け、中へ入っていった。世話の人、と女将が言っていた、あの一人なのだろう。たまに見るくらいで、と。鎖のこちら側からでは、それ以上のことは何もわからなかった。私はしばらく待ったが、人影は二度と出てこなかった。


 私は集落へ引き返した。鎖の前で立っていても、何も手に入らない。手に入るものは、いつも、こちら側にある。


 民宿に戻り、私は鞄から封筒を出した。


 台所の窓辺の明るいところで、便箋をもう一度、光に透かした。灯台の透かし。細い塔と、扇のように開く光の線。ゆうべ見たときと、同じものだった。けれど、ゆうべと違って、私はもう、この塔が何の塔なのかを知っていた。回光灯台。この透かしは、ただの灯台ではない。あの灯台だ。


 紙には、書いた者の素性が残る。


 十二年この仕事をしていると、自然とそういうものに目がいくようになる。文字の癖、インクの種類、紙の質。とりわけ紙は、嘘をつきにくい。一度、匿名の脅迫文の出所を、紙だけで突き止めたことがあった。どこにでもありそうなコピー用紙に見えて、わずかに青みの強い、特定のメーカーの再生紙で、それを大量に使う事業所は、その地方に三つしかなかった。三つを当たれば、書いた人間にたどり着いた。文章はいくらでも化けるが、紙は化けない。市販の便箋を使えば、その人間はどこにでもいる誰かになれるが、特別に漉かせた紙を使えば、その紙のあるところまで、たどっていける。この便箋は、後者だった。灯台の透かしを漉き込んだ便箋など、文具店には売っていない。誰かが、自分のために、あるいは自分の家のために、特別にあつらえた紙だ。


 そして、灯台を自分のものだと言える家は、この岬に一つしかなかった。


 けれど、思っているだけでは、記事にならない。似ている、では足りない。同じだ、と言えるものを、私は手で確かめたかった。同じ透かし、同じ罫、同じ手触りの紙を、燈屋家のものとして、どこかで見つけること。それができれば、この便箋は、ただの不気味な紙きれから、出所のはっきりした一つの証拠に変わる。


 私は朝食の膳を運んできた女将に、訊いてみた。


「燈屋さんが、何か本のようなものを、出されたことはありませんか。灯台の歴史とか、そういう」


 女将は、ああ、と思い当たる顔をした。


「ありますよ。灯台の、百年の本。だいぶ前にね、燈屋さんが立派なのをこしらえて、村のあちこちに配ったんです。うちにもあったはずだけど……どこにやったかしらね」女将は首をかしげた。「公民館に行けば、ありますよ。あすこの棚に、ちゃんと並んでます」


 公民館は、漁協の建物の二階にあった。


 畳敷きの一室に、古いガラス戸の書棚が並び、郷土の資料が雑然と収められている。受付に人はおらず、ノートに名前を書いておくように、という貼り紙だけがあった。私は名前を書き、棚を一つずつ見ていった。


 それは、三つ目の棚の、いちばん目立つ場所にあった。


『回光灯台百年史』。布張りの、ずっしりとした本だった。背表紙には金の箔押しで題が入り、その下に、小さく、編・燈屋、とあった。発行は二十数年前。少女が死ぬ、少し前のことだった。


 私は本を抜き出し、窓際の机に運んだ。


 表紙を開く。見返しの紙が、目に入った瞬間に、私は手を止めた。


 厚みのある、わずかにざらつく紙。薄い灰色の罫はないが、紙そのものの質が、指の記憶と一致した。私は鞄から封筒を出し、便箋を抜いて、見返しの紙に重ねた。光のほうへ、二枚いっしょに持ち上げる。


 灯台の透かしが、二つ、ぴたりと重なった。


 塔の傾き、光の線の本数、扇の開きかた。寸分の狂いもなかった。同じ版で漉かれた、同じ紙だった。百年史の見返しに使われた特注の紙と、私の手もとに届いた告発状の便箋は、同じところから出ていた。


 間違いを疑って、私は二枚をずらし、また重ねた。何度やっても、透かしは一つになった。指の腹でなぞる繊維の感触まで、同じだった。紙は化けない。十二年、そう思ってやってきて、これほど静かに、これほど明瞭に、一枚の紙が一つの家を指したことは、なかった。


 私は、しばらく動けなかった。


 窓の外で、漁協の拡声器が、何か事務的なことを告げていた。その声を遠くに聞きながら、私は二枚の紙を重ねたまま、光に透かし続けた。確かめたかったことが、確かめられてしまった。似ている、ではなく、同じだ、と言えるものが、目の前にあった。


 告発状は、燈屋家の紙で書かれていた。


 その意味を、私は順番に並べてみた。


 灯台の透かしの入った便箋は、特別にあつらえた紙だ。そういう紙は、たくさんは作らない。家のために漉かせて、家で使う。よその人間の手には、まず渡らない。つまり、あの一行を書いた人間は、燈屋家の紙を、当たり前のように使える場所にいた。あるいは、いたことがあった。


 もっとも、紙は持ち出される。昔この家に勤めた者や、何かの折に一枚もらった者が、長いあいだ抽斗の奥にしまっておいた、ということもありうる。燈屋家の紙を使えるということは、いま燈屋家にいるということと、必ずしも同じではない。二十年前のあの死に関わった人間は、この村に、まだ何人もいるはずだった。役場にも、病院にも、漁協にも。そのうちの誰かが、燈屋家と近しく、家の紙の一枚くらい持っていたとして、おかしくはない。それでも、まったく外の、縁もゆかりもない人間でないことだけは、確かに思えた。


 二十年前、灯台で死んだ少女は、殺された——そう書いた人間が、その灯台を持つ家に、連なっている。


 私は百年史を、最初のページから繰っていった。


 灯台の建設の経緯。歴代の灯台守の名前。点灯式の写真。沖の岩礁の海図。燈屋家の代々の当主の肖像。どのページも、灯台と燈屋家を、誇らしく、美しく語っていた。一つの家が、百年、海の安全を守ってきた。その物語が、上質な紙と、金の箔押しと、丁寧な写真とで、隙なく綴られていた。


 灯台ができる前の、難破の歴史を記した章もあった。七つ岩で沈んだ船の数が、年表になって並んでいる。古い記録では、ひと冬に三隻、四隻と沈んだ年もあったらしい。灯台が点ってから、その数は減った——本は、そう結んでいた。減った、とだけ。なくなった、とは、書いていなかった。私は、港の老人の言葉を思い出した。沈むときは、灯があっても沈むさ。灯ってのは、つけるも消すも、人の手だでな。


 灯台守の一家のことは、巻末に、小さく載っていた。


 沖野、という姓が、歴代の灯台守の最後に記されていた。沖野源助。その名の下に、家族の名はなかった。妻の名も、二人の娘の名も、この百年史には、一行もなかった。灯台を守った男の名は残し、その娘が灯台から落ちて死んだことは、一字も書かない。本が作られたのは、少女が死ぬ前のことだったから、それは当たり前のことだった。当たり前のことのはずだった。それでも私は、その空白を、長いあいだ見ていた。


 名前のない一家のことを、私は考えた。灯台を守った父。その上から落ちて死んだ姉。そして、よそへやられて、この本にも、この村の記憶にも、ほとんど残らなかった妹。三人とも、燈屋家の灯台の物語のなかでは、余白だった。立派な百年史の、金の箔押しの陰の、白いところ。私はその三人のことを、しばらく考えていた。けれど、考えたところで、彼らはもう、この岬のどこにもいなかった。父も、姉も、死んだ。妹がどこにいるのかは、この村の誰も知らないようだった。もういない者たちのことより、いま、燈屋家の紙を使える誰かのことを、私は考えるべきだった。


 本を閉じ、棚に戻そうと立ったとき、階段を上がってくる足音がした。


 漁協の法被を着た、初老の男だった。公民館の鍵を預かっているらしい。私が燈屋家の本を手にしているのを見て、めずらしいね、という顔をした。


「燈屋さんの本かい」と男は言った。「熱心だね。学生さん……でも、なさそうだが」


「灯台に興味があって」と私は答えた。「立派な本ですね。こんなものを作って、村に配るなんて」


「燈屋さんだからね」男は、それで全部が説明できるという言い方をした。「この村は、昔っから燈屋さんに食わせてもらってるようなもんだ。漁協の建物も、半分は燈屋さんの寄付でね。学校も、道も。誰も、悪くは言えんよ」


 誰も、悪くは言えん。男はそれを、世間話のように軽く言った。けれど私には、その軽さが、かえって重く聞こえた。悪く言えない、というのは、言いたいことがある、ということと、そう遠くなかった。


「二十年ほど前に、灯台で亡くなった娘さんがいたと聞きました」と、私は思いきって言ってみた。「灯台守の、沖野さんの」


 男の顔から、世間話の色が消えた。


「……あんた、何を調べてるんだね」


「いえ。本に、灯台守の名前があったので」


 男はしばらく私を見ていたが、やがて、ふう、と息を吐いた。


「あれは、事故だよ」と、女将と同じことを言った。「気の毒なことだった。それだけだ。掘り返して、いいことは何もない。……燈屋さんの耳にでも入ったら、あんた、この村にはいられんようになるよ」


 それは忠告のようでもあり、警告のようでもあった。男はもう何も言わずに、私が本を棚に戻すのを、黙って見ていた。


 公民館のノートに、私は自分の名前のほかに、何も書かなかった。


 本を棚に戻し、外に出ると、昼の光が痛いほど明るかった。漁港の水面が、銀色に揺れている。私は港のへりに腰をおろし、鞄から、あのノートを出した。回光岬、と書いた最初のページの続きに、私はその朝のことを書いた。便箋の透かしが、燈屋家の百年史と一致したこと。告発状は、燈屋家の紙で書かれていること。告発者は、燈屋家に連なる誰かであること。


 ペンを止めて、私は最後の一行を、もう一度読んだ。


 告発者は、燈屋家に連なる誰かだ。


 奇妙なことだ、と思った。普通、こういう手紙は、外から来る。恨みを持つ者、置き去りにされた者、外の暗がりから、家を撃つために書かれる。けれど、この手紙を書いた人間は、撃とうとしている家の紙を、使える側にいた。家に連なり、家の罪を知り、それでいて、その罪を、よその私に向かって書いた。家に連なりながら、その家を撃とうとしている。それが、二十年前の死に関わった共犯者の一人なのか、家に長く出入りした者なのか、もっと別の誰かなのか——立場までは、まだ何も見えてこなかった。


 わかっているのは、その誰かが、私のような人間がここへ来ることを、どこかで望んでいた、ということだけだった。望まなければ、見ず知らずの物書きに、わざわざ燈屋家の紙で手紙を書いたりはしない。糸の端を、こちらの手に握らせるように、あの一行は届けられた。


 その問いには、まだ答えがなかった。けれど、問いの形は、ゆうべより、はっきりしていた。私はノートを閉じ、立ち上がった。岬の先で、灯台が、昼の光の中に白く立っていた。今は灯っていない、その灯のことを、私は考えた。夜になれば、また十五秒に一度、海をなでるのだろう。つけるも消すも、人の手だ、と港の老人は言った。


 差し当たって、会うべき相手は、決まっていた。当主の燈屋玄三。七十を過ぎて、館にこもったきりだという、その人だ。鎖は渡され、立入は禁じられている。会えるかどうかはわからない。それでも、この岬で、二十年前の死と燈屋家を、いちばん深いところで知っている人間は、あの館の老人をおいて、ほかにいなかった。告発状を書いたのが誰であれ、糸は、あの家へ続いている。


 私は、燈屋家の門を叩くことに決めた。


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