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灯台守の娘  作者: よしお


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2/17

鎖の灯台

 電車を二度乗り換え、終点からはバスに揺られた。


 切符を買うとき、窓口の駅員は、回光まで、と私が言うと、一拍おいてから、片道でいいんですか、と訊き返した。深い意味はなかったのだろう。それでも私は、往復で、と言い直した。帰る日を決めずに来たことを、そのとき少しだけ意識した。


 房総の南へ下るにつれ、車窓の海は近づいたり、また山の陰に隠れたりした。トンネルを抜けるたびに光の色が変わり、午後の三時を回るころには、空はもう、夕方のはじまりのような淡い金色になっていた。バスの乗客は、途中の停留所で一人また一人と減っていき、回光、という名のバス停で降りたのは、私だけだった。


 バス停は、漁港の手前にあった。


 集落は、岬の付け根にしがみつくように並んでいた。海沿いに低い家々があり、軒先には網が干され、潮で錆びた自転車が転がっている。人の姿はまばらだった。私はボストンバッグを肩にかけ、岬のほうへ歩いた。


 道は、すぐに細くなった。


 集落を抜けると、舗装は急に古びて、両側から雑草が迫ってきた。道は一本きりで、岬の先へ向かって、海に挟まれた背骨のように伸びている。右も左も、少し下れば波だった。風が強かった。この道が、岬の先と本土をつなぐ唯一の路らしかった。海の荒れた日には、ここはどうなるのだろう、と思った。波が高ければ、道は容易に水をかぶるはずだった。


 その道の先で、岬はゆるく弓なりに曲がっていた。道は、その湾の内側をなぞるように伸びている。おかげで、突端のようすを、私は斜め横から、ひと目に見渡すことができた。


 岬の先は、こぶのように丘へ盛り上がっていた。その丘の上に、屋根の尖った大きな建物が立っている。洋館だった。そして、丘の海側、斜面を下りきった突端の海ぎわに、白い石造りの塔が立っていた。灯台だった。遠目にも、それが古いものだとわかった。私の知っている、海上保安庁の青い看板のついた灯台とは、佇まいが違った。陸側の高みに館、海側の低みに灯台。二つは前後にずれて立ち、その間を、斜面を斜めに下る渡り廊下のようなものが繋いでいた。館のほうが高い場所にあるのに、灯台は塔が高いぶん、そのてっぺんが、ちょうど館と肩を並べるくらいの高さに見えた。館と塔が一つの影をつくって、夕日を背に黒く沈んでいた。


 岬は、海に向かって細く伸びていた。先へ行くほど道は痩せ、館と灯台のある突端だけが、こぶのように膨らんでいる。沖には、波の崩れる白い筋が、いくつも見えた。岩礁だった。あの岩と、この細い一本道と、強い風。荒れた日には、岬の先は本土から切り離されて、島のようになるのではないか。そんなことを、ぼんやりと考えた。


 近づこうとして、私は途中で足を止めた。


 道の真ん中に、古い門柱が二本立っていた。鎖が渡してあり、錆びた板に、私有地につき立入を禁ず、と読めた。字は雨に流れかけている。その先の灯台までは、まだ数百メートルあった。鎖の向こうに、人の気配はなかった。ただ、館の一階のどこかに、明かりが一つ灯っていた。窓の数のわりに、灯っているのはその一つきりで、ほかの窓はみな暗い。大きな建物が、その一つの明かりだけで、かろうじて死んでいないように見えた。


 誰かが、あそこにいる。


 私はしばらく、その明かりを見ていた。それから踵を返し、集落へ戻った。


 集落の入口の港で、一人の老人が、係留した小舟の上で網を繕っていた。日に灼けた、節くれだった手をしていた。私が会釈すると、老人は手を止めずに、よそ者を見る目でこちらを見た。


「灯台を、見にきたのかね」と老人は言った。私がそうだと答えると、ふん、と鼻を鳴らした。「あんなもの、見て何が面白い」


「沖に、岩がたくさんあるそうですね」


七つ岩(ななついわ)な」老人は顎で沖をしゃくった。夕闇の海に、波の崩れる白い線が、点々と続いているのが見えた。「あのへんで、昔はよう船が沈んだ。わしの親の代には、難破の知らせがあると、村じゅうが浜へ出たもんだ。流れ着いた荷を、拾いにな」


 老人は、そこで少し笑った。その笑いの中に、私には測れない何かがあった。難破は不幸だが、浜にとっては、恵みでもあったのだろう。海の民の古い割り切りのようなものが、その横顔にはあった。


「灯台ができてからは、沈まなくなったんですか」と私は訊いた。


「さあな」老人は網に目を戻した。「沈むときは、灯があっても沈むさ。灯ってのは、つけるも消すも、人の手だでな」


 つけるも消すも、人の手。私はその言葉を、頭の隅に書き留めた。深い意味はないのかもしれなかった。老人はもう、こちらに用はないというように、黙々と網を繕っていた。私が灯台守の一家のことを訊こうとすると、老人は、知らんね、と先回りするように言った。知らんわけがない、という調子で。


 港の近くに、一軒だけ民宿があった。


 「波路」という、色の褪せた看板の出た、二階建ての古い家だった。玄関で声をかけると、六十がらみの女将が出てきて、一人だと言うと、少し驚いた顔をした。この時季に泊まり客は珍しい、ということらしかった。


「観光ですか」と女将は訊いた。


「ええ、まあ」と私は曖昧に答えた。「あの灯台が、きれいだと聞いたので」


 女将は、ああ、というように、口の端で笑った。


「灯台はね、遠くから見るだけですよ。あそこは、燈屋さんの持ち物だから」


「燈屋さん」


「この岬の、半分は燈屋さんのものでね。灯台も、あの館も。昔っから、ずっと」女将は私の靴を揃えながら、慣れた口ぶりで言った。「お役所のものじゃないんです、あの灯台は。代々、燈屋さんが守ってきたの。立派なことですよ。……今はご当主が、お歳を召して、あの館に一人でね。世話の人を一人だけ置いて、暮らしておいでですよ。広いお屋敷に、たった二人で」


 立派なことですよ、という言い方には、立派だと思っていない者の平らかさがあった。私はそれを聞き流すふりをして、靴を脱いだ。


 通された二階の部屋は、海に面していた。


 窓を開けると、潮の匂いと、波の音が一度に入ってきた。岬の先の灯台は、ここからもよく見えた。日が落ちきると、その灯がともった。十五秒に一度、白い光が、ぐるりと海をなでていく。光が正面を向いた一瞬だけ、まばゆく明るくなり、すぐにまた暗がりへ流れていく。規則正しく、それは繰り返された。難所だという沖の岩礁を、二十年も、百年も、その光は照らし続けてきたのだろう。


 夕食のとき、私は女将に、二十年前のことを訊いた。


 切り出し方には、少し迷った。こういう土地で、こういう問いは、たいてい歓迎されない。私は、灯台の歴史に興味がある物書きだ、という顔をして、昔この灯台で事故があったと聞いたのですが、と、できるだけ軽く言った。


 女将の箸が、止まった。


「事故」と女将は繰り返した。それから、味噌汁の椀に視線を落とした。「……ずいぶん、昔のことですよ」


「灯台守の方の、娘さんが亡くなったとか」


「沖野さんとこの、上の娘さんね」


 その名前は、ためらいなく出てきた。土地の人は、皆その名を知っているのだ、と私は思った。記事では伏せられていた名前を、ここでは誰もが当たり前に持っている。


「沖野さん、というのが、灯台守の」


「ええ。燈屋さんに雇われてね、長いこと、灯台を守ってた。一家でね。あそこの館の裏に、小さな家があって、そこに住んでた」女将の声は、少しずつ低くなった。「上の娘さんが、灯台のいちばん上から、落ちて。十六でしたよ。かわいい子でね」


「事故だったんですか」


 女将は、すぐには答えなかった。


「事故ですよ」と、しばらくして言った。「お医者も、警察も、そう言いましたから」


 お医者も、警察も、そう言いましたから。それは、自分がそう思っている、ということとは違う言い方だった。私は黙って、続きを待った。


「お父さんはね、あの娘さんが落ちてから、人が変わったようになって」女将は、誰にともなく言うように続けた。「前は、まじめな、無口な人だったんですよ。灯台のことだけ、きちんとやってね。それが、抜け殻みたいになって……二年か三年して、海で。あれも、事故ということに、なってますけど」


 あれも、事故ということに、なってますけど。私は、その言い方を聞きのがさなかった。一つの灯台のまわりで、二十年前から、二人が死んでいる。娘と、その父と。どちらも、事故ということになっている。


「燈屋さんとは、うまくいっていたんですか。雇い主と、灯台守として」と私は訊いた。


 女将は、さあ、と首をかしげた。


「昔のことは、わかりませんよ。ただね、沖野さんが亡くなってからは、灯台守は置かなくなったの。今は、機械でぜんぶ回るんですって。世話の人が、たまに見るくらいでね」


 そこまで言うと、女将は、これ以上は何も、というように立ち上がり、膳を下げはじめた。


「沖野さんのご一家は、今は」と私は訊いた。


「いなくなりましたよ」女将は短く言った。「娘さんが亡くなって、しばらくして、お父さんも亡くなって。下の娘さんは、もっと前から、よそに出てたから……気がついたら、誰もいなくなってた。あの家も、今は物置みたいになってるはずですよ」


 誰もいなくなってた、という言葉を、女将はずいぶん軽く言った。軽く言うことで、その重さを脇へ寄せているように、私には聞こえた。一つの一家が、灯台のまわりから、まるごと消えた。娘が一人、上から落ちて死に、父が死に、もう一人の娘は、もっと前から、よそに出ていた。


「下の娘さんというのは」


「双子でしたよ、あの姉妹は」女将は、ふと懐かしそうな顔をした。「上の子と下の子で、瓜二つでね。小さいころは、どっちがどっちだか、私らにもわからなかった。下の子は、早くに親戚のとこへやられて、こっちにはあんまりいなかったけど」


 双子。私は箸を置いた。よそへ出ていたという、もう一人の娘の顔を、この土地の人間でさえ、ろくに覚えていないのだ。


 死んだ姉と瓜二つの顔をした妹が、どこかで生きている。それがどこにいて、何をしているのか、女将は知らないようだった。知っていたら、もう少し何か言ったはずだった。


 その晩、私は風呂を借りたあと、もう一度窓を開けた。


 灯台の灯は、変わらず回っていた。十五秒に一度、海をなでる白い光。その光の届くあたり、館の一階の明かりも、まだ灯っていた。鎖の向こうの、立入を禁じられた岬の先で、誰かが起きている。


 どこかで、子どもの歌う声がした。


 風に切れぎれに乗ってくる、節のついた声だった。近所の家の子が、寝る前に歌っているのだろう。数え唄のようだった。ひとつとせ、ふたつとせ、と数えていくのが、途切れながら聞こえた。みっつ、よっつ、と続いて、あとは波の音にまぎれて、聞き取れなくなった。


 のどかな、古い節回しだった。


 私は窓を閉めた。鞄から、昨夜おろしたばかりのノートを出し、開いた。回光岬、と書いた最初のページの続きに、私はその日見聞きしたことを書き並べた。私有地の灯台。燈屋家。一本道。沖野家。上の娘、十六歳、転落。下の娘、双子、よそにいた。父、のちに死亡。一家、消える。


 最後に、私は一行、書き足した。


 事故にしては、土地が静かすぎる。


 ペンを止めて、その一行を眺めた。静かすぎる、というのは、証拠でも何でもなかった。田舎の年寄りが、二十年前の不幸を語りたがらないのは、当たり前のことだ。それを違和感と呼ぶのは、私の悪い癖だった。確かめてもいないことを、確からしく組み立ててしまう、あの癖だ。


 ただ、港の老人の言葉が、なぜか耳に残っていた。灯ってのは、つけるも消すも、人の手だでな。あれは、灯台守の仕事の苦労を言ったのだろう。それ以上の意味は、たぶんなかった。それでも私は、その一言も、ノートの隅に書きつけておいた。


 それでも、消印のにじんだ封筒は、私の鞄の中にあった。灯台の透かしの入った、一枚きりの便箋とともに。明日は、あの鎖の前まで、もう一度行ってみるつもりだった。入れないのは承知のうえで。


 灯台の灯が、窓の障子に、十五秒に一度、薄い光を滑らせていった。


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