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灯台守の娘  作者: よしお


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消える灯

 空いた椅子を、私はただ見つめていた。


 卓の上には、たたまれた白いエプロンだけが残っていた。さっきまでそこに、一人の女がいた。沖野灯子。——その姿が、煙のように消えていた。


「いない」史奈が、上ずった声で言った。「あの人が、いない——」


 葛西が振り返り、一拍遅れて事態を呑み込んだ。「——表へ。広間の外を当たれ。遠くへは行っていない」警官たちが弾かれたように散った。館のあちこちで、足音と、名を呼ぶ声が上がりはじめた。沖野さん。沖野灯子さん。


 けれど私は散っていく警官たちとは逆のほうを見ていた。


 窓の外。丘の下の海ぎわに、灯台が立っていた。朝の光のなかで、その灯はもう消えていた。日が昇れば、機械が灯を落とす。それでも塔のてっぺんでは、照らすもののなくなったレンズだけがなお律儀に回りつづけていた。——あそこだ、と思った。理屈ではなかった。あの女が行く場所は、ひとつしかない。すべてが始まった場所。姉が落ちた場所。


 私は、駆けだしていた。


「東雲さん——!」


 渡り廊下で暁人が追いついてきた。いや、彼もまた同じほうへ向かっていた。「気づいて、いたんですね」私は走りながら言った。


「ええ」暁人の声は低かった。「もう、じゅうぶんです。——あの人は、そう言った。あれは、別れの言葉だった」


 止めないんですか、と訊きかけて私はやめた。暁人の顔には、止められるとも、止めるべきだとも書いていなかった。ただ、見届けようとする者の顔だった。


 渡り廊下を抜け、塔の底へ。鵜飼が潰された機構室のわきを、焦げた匂いの残る螺旋段を私は息を切らして登った。一段ごとに、海鳴りが近くなった。嵐は去り、海は凪ぎかけていたが、岩を噛む波の音だけはなお重く響いていた。


 最上階。密閉のガラス室。その中央で、灯を落としたレンズが音もなく回っていた。——灯室の扉が、開いていた。その向こう、ガラス室を外から巡る回廊に、人影が立っていた。


 灯子だった。


 文箱を胸に抱いて、腰高の手すりの際に立っていた。朝の風がほどいた髪を撫でていた。エプロンを脱いだその姿は、もう管理人でも、七尾真琴でもなかった。ただ、海を見ている一人の女だった。三十五メートル下で、白い波が岩を洗っていた。——姉が落ちた、その同じ手すり。その同じ岩。


「灯子さん」私は回廊へ踏み出した。これ以上は近づけない、という距離で足が止まった。「——戻りましょう。話は、まだ終わっていません」


 灯子は振り向かなかった。海を見たまま、静かに言った。


「ここで、姉が落ちました」灯子は言った。「私のいない夜に。たった一人で。怖かったでしょうね。痛かったでしょうね。——私は、そばにいてやれなかった」


 風がその言葉を攫っていった。


「ずっと、姉を岩の上に一人にしておいたんです」灯子は言った。「よその家の子になって、岬を出て、姉が死んだことも知らずに、のうのうと生きて。——もう、いいんです。じゅうぶん、生きました。じゅうぶん、憎みました。じゅうぶん、父を赦そうとしました。——あとは、姉のところへ帰るだけ」


「待って」私は言った。「あなたが行ってしまったら、——誰が、本当のことを言うんですか。姉さんのことを。あなたのことを」


「だから、あなたに頼んだんです」灯子は、はじめてこちらへ顔を向けた。おだやかな、晴れた顔だった。「私の代わりに、書く人を。——私は、自分の口で言う必要はもうない。あなたが書いてくれる」


 ——掘れ、書け、と。あの差出人のない手紙が、いまほんとうの意味で私の手に渡された。この女は、最初から自分はここで終わるつもりだったのだ。語る者を、ちゃんと残して。


「灯子さん」暁人が私の後ろで言った。静かだが、はっきりと。「あなたが裁いた五人は、戻りません。あなたが死んでも、戻らない。——これは、手向けではない。あなたは、それを、わかっていますね」


「ええ」灯子は言った。「わかっています。——これは、赦しでも、償いでもありません。ただ、私が姉のそばへ帰るだけ。それ以上の意味は、つけないでください。どうか」


 灯子は文箱をそっと回廊の床に置いた。父の手記と、二人の少女の写真。——それだけは、こちらへ残していくのだ、と私は思った。書く者のために。


 そして、手すりに手をかけた。


「灯子さん!」


 私は駆け寄った。けれど、間に合う距離ではなかった。


 灯子は、最後に、ほんの少しだけ笑ったように見えた。それから、姉の落ちた手すりを越えて、朝の海へ身を投げた。


 ——灯が、ひとつ、消えた。


 私は手すりに取りすがって、下を見た。けれど、もう何も見えなかった。朝靄が岩のあたりを白く包んでいた。波の音だけが、変わらず岩を洗っていた。——姉を呑んだのと、同じ波の音が。


 背後で、レンズがなお回っていた。照らすもののない空虚を。死んだ主を見送り、いままた、その娘を見送って、なお律儀に。


 回廊の床に、文箱だけが残されていた。


 私は、その小さな箱を両手で抱き上げた。父の手記。双子の写真。そして、その重みのなかに、もう一つ、目に見えないものが入っているのを私は感じた。——書け、と。それは、もう灯子の願いではなかった。私自身の問いになっていた。私は、これを書くのか。書けるのか。


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