書くべきか
朝の光は、もう広間のすみずみまで届いていた。館は、ひと晩じゅう私たちだけのものだった惨劇の場から、調書と証拠物件の場へと変わっていた。廊下には縄が張られ、制服の男たちが行き来している。けれど、この広間の灯子のまわりだけは、まだ別の時間が流れているようだった。葛西も、手帳を閉じたまま、口を挟まずにいた。
灯子は逃げる気配を見せなかった。卓の前に座ったまま、父の手記と、二人の少女の写真をそっと文箱に戻していた。来るべきものを、ただ待つ人の手つきだった。
私の膝の上にはノートがあった。岬に来てから書きためてきた、一冊。差出人のない手紙にはじまり、崖の死、潮の死、火の死、機構室の重し、回る灯の下の当主——そしていま、その一冊は、一人の女の名で閉じようとしていた。沖野灯子。
書けば、と私は思った。
書けば、これは世に出る。差出人のない手紙の謎も、灯台を持つ家が百年かけて沈めてきた船のことも、二十年前に灯台から落ちた娘がほんとうは突き落とされたのだということも。——岬の誰もが知っていて、誰も書かなかったことが、はじめて活字になる。燈里の死は、もう一行では終わらない。
けれど、と私は思った。
同じ筆が、灯子を書く。五人を手にかけた女として。父を赦すために自分を捨てた、その心の底までも、世間の前に開いてみせることになる。人はそういうものを優しくは読まない。見出しになるのは、灯子の歳月ではない。五つの死体のほうだ。——書けば、私は灯子を世間へ差し出す。
書かなければ。
灯子は、五人を殺した女として法に裁かれる。それだけが残る。網代も、室戸も、玄三も、世間にとっては、館で惨たらしく殺された気の毒な人々のままだ。彼らが百年何をしてきたかは、誰も知らない。燈屋の罪はとうに時効の向こうだ。証拠も海の底に沈んでいる。あれを掘り起こせるのは、もう法ではない。——そして燈里は、もう一度あの一行に戻る。灯台守の娘、十六歳、転落、事故と見られる。それきり。
どちらを選んでも、私は誰かを切り捨てる。生きている灯子か。死んだ燈里か。——筆の先が、これほど重いものだとは思わなかった。
「決められませんか」
暁人の声だった。いつのまにか私のそばに来ていた。
「あなたが」と私は言った。「読む人なら。——これを、どう読みますか」
暁人はしばらく黙っていた。それから、低く言った。
「私は、読むだけの男です」暁人は言った。「館を読み、灯を読み、人の残したものを読む。——けれど、読んだものを世に出すかどうかは、私の仕事ではない。それは書く人の仕事だ。だから、これはあなたにしか決められない」
「ずるい」私は思わず言った。
「ええ」暁人はかすかに笑ったようだった。「ずるいです。——けれど、ひとつだけ言える。光は、嘘をつかない。灯子さんは、嘘をつかせる側だった灯を、本当のことを語らせるために使った。——では、あなたの筆は、どちらに使うんですか。本当のことを語らせるためか。それとも、黙らせるためか」
その声が聞こえたのだろう。灯子がこちらを見ていた。
「書いてください」灯子は静かに言った。
私は息をのんだ。
「私のことは、どう書いてくださってもかまいません」灯子は言った。「五人を殺した女だと。狂った女だと。そう書かれても、文句は言いません。それだけのことを、私はしたんですから。——ただ、ひとつだけ。姉のことだけは、本当のことを書いてください。あの子は、灯台から落ちて死んだんじゃない。落とされたんです。光の合図ひとつで。——どうか、一行で、終わらせないでください」
一行で、終わらせないでください。——私のところへ差出人のない手紙を送ってきた、あの夜の灯子の願いが、いままっすぐに私へ届いていた。掘れ、書け、と。あれは、復讐の仕掛けの一部であると同時に、たった一つの姉への手向けでもあったのだ。
私はノートを握った。
書く。——その言葉は、もう私の中で形になりかけていた。けれど、書くと決めることは、灯子を世間へ差し出すと決めることでもあった。この、目の前で姉のことを頼む女を。それを思うと、まだ、はい、とは言えなかった。
「灯子さん」私は言った。「——あなたは、それでいいんですか。あなた自身が、どう書かれても」
灯子はほんの少し首をかしげるようにした。そして、私が今まで見たことのない、おだやかな顔をした。
「私は」灯子は言った。「もう、じゅうぶんです」
もう、じゅうぶん。——その言葉の底に何か、私の知らないものが沈んでいる気がした。
葛西が、ゆっくりと立ち上がった。手帳を内ポケットに収め、灯子のほうへ一歩、近づいた。
「沖野さん」葛西は静かに言った。「——署で、もう一度、はじめから聞かせてください。あなたの話を、全部」
灯子は、うなずいた。逆らう色は、どこにもなかった。彼女はエプロンをそっと外し、たたんで卓に置いた。長いあいだこの館で結んできた、白い布を。それから、文箱を胸に抱いた。父の手記と、二人の少女の写真の入った、あの小さな箱を。
そのとき、廊下のほうで警官の一人が葛西を呼んだ。書斎の焼け跡で、何か見つかったらしかった。葛西が、ほんの少しだけ、そちらへ気を取られた。——ほんの、まばたきのあいだだった。
私は、もう一度灯子のほうを見た。
灯子は、もう、そこにいなかった。




