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灯台守の娘  作者: よしお


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赦しのために使った歳月

 父が、二人。——その言葉を、灯子はもう一度、低く繰り返した。広間に満ちはじめた朝の光の中で、その横顔だけが、まだ夜の側に残っているように見えた。


「あの二人のことは、もうお話ししました」灯子は言った。「灯を握らされた、実の父。その灯に沈められた、育ての父。——でも、その二人が、私の中でどうつながっているかは、まだ、どなたにも申し上げていません」


 灯子はさきほどその両方を血と縁で背負っていると言いさして、それ以上は語らなかった。まだ語るときではない、というように。——いま、その先が開かれようとしていた。


「育ての父は」灯子の声が、ふとやわらいだ。「貧しかったけれど、優しい人でした。船から戻ると、私を肩車して浜を歩いてくれた。よその子になった私を、一度も、よその子として扱わなかった。——私にとって父といえば、ほんとうは、あの人のことなんです。実の父のことは、おぼろにしか覚えていない。七つで離されたきりですから」


 手放した父と、抱きとめた父。私は、灯子が「父が二人」と呼んだことの重さを少しずつ量りはじめていた。


 灯子は卓の上の父の手記へ目を落とした。そして、はじめて私たちのほうへまっすぐ目を向けて、低く言った。


「私の実の父は、燈屋に灯を握らされていました。岩のないところに灯を掲げて、よその船を岩へ送る。何年も、何度も。——そして私を育てた父は、その嘘の灯に沈められて、岩で死んだ。同じひとつの罪の、灯を掲げる側と、灯に沈められる側に。私の二人の父は、いたんです」


 広間が、しんとした。私はその意味の底が抜けるのを感じた。


「源助は」灯子の声が、はじめてかすかに掠れた。「自分が握らされた灯が、どの船を沈めたかまでは、知らされていなかった。燈屋は、実行役にさえ、何もかもは明かさなかったから。——だから父は、死ぬまで知りようがなかった。あの夜、自分の手が掲げた灯が、よりにもよっていちばんの友の船を——私を託した、あの人の船を、岩へ導いたのではないかと」


 私は息をのんだ。灯を握った父。その灯に沈められた、もう一人の父。——その二つが、ひとつの夜の、ひとつの灯でつながっているかもしれない。その疑いを、実の父は死ぬまで抱いて生きたのだ。


「手記の終わりのほうは」灯子は言った。「もう、字になっていませんでした。同じことが、何度も繰り返してあるだけで。——許してくれ、と。誰に宛てたものでもない。ただ、許してくれ、と。震える字で。父はそれを書きながら、自分で自分を、灯のように内側から焼いていったんだと思います」


 許してくれ。私はその言葉を胸の中で繰り返した。罪を犯した父が、最後に娘へ送ったのが、それだった。


「私は長いあいだ」灯子は言った。「その封を開けられませんでした。開けたのは、姉が死んで十年あまりが過ぎたころです。読んで、はじめて何もかもを知った。姉のことも。育ての父のことも。実の父が、その二つの死のまんなかにいたことも」


 灯子は手記の表紙にそっと手を置いた。


「それからの私が、いちばん長く苦しんだのは」灯子は静かに言った。「姉を奪われたことでも、育ての父を奪われたことでもありません。——実の父を、どう思えばいいのか、ということでした」


 私は灯子の横顔を見つめた。


「人殺しの灯を握った男です」灯子は言った。「私のもう一人の父を、沈めたかもしれない男です。——憎むのが、いちばん楽でした。こんな父、いなければよかったと。けれど、できなかった。だって父は、震える字で許してくれと書いて死んだ。脅されて、逆らえなくて、灯を守る人だったのに灯を嘘にさせられて、それで内側から焼け死んだ人です。——憎みきることが、どうしてもできなかった」


「だから私は」灯子は言った。「父を、赦したかったんです」


 赦す。その言葉が、血みどろの夜を越えてきたこの広間に、ふいに落ちた。


「でも、赦せなかった」灯子は続けた。「人殺しの灯を握った父、のままでは。その手で友を沈めたかもしれない父、のままでは。どうしても赦してやれなかった。——父を赦すには、まずはっきりさせなければならなかった。あの灯を、父に握らせたのは誰だったのか。父に船を沈めさせ、姉を殺させ、何もかもを嘘で塗り固めたのは、誰だったのか」


 私の中で、ばらばらだったものが、音もなくひとつに合わさった。告発状。見立て。この館へ集められた者たち。——あれは、ただ姉の仇を討つためだけのものではなかった。


「灯を握らされた手は、父の手です」灯子は言った。「けれど、その手に灯を握らせたのは、玄三さんたちだった。——その人たちを一人残らず灯の前へ引き出して、罪を罪として並べる。そうしてはじめて、父は、人殺しではなく、人殺しを強いられた人になる。被害の側へ立たせてやれる。——父の手記を読んでから、十年あまり。その歳月を、私は、父を人殺しのままで終わらせないために、使ったんです」


 赦しのために、人を殺す。——私は、その言葉のねじれた形に、声を失っていた。父を赦すために、灯子は五人を唄のとおりに手にかけた。憎しみのためではなく。むしろ、愛のために。実の父への、ねじくれた、けれどまっすぐな愛のために。


「灯子さん」私は、ようやく訊いた。「——それで、赦せましたか。お父さんを」


 灯子は、すぐには答えなかった。白みきった窓のほうを長いあいだ見ていた。


「わかりません」やがて灯子は言った。「父を、人殺しを強いられた人の側へ立たせることはできた。——でも、赦せたのかどうかは、わからない。それを確かめる相手が、もうどこにもいないんですから。父も、姉も、育ての父も。みんな、とうに、いない」


 みんな、いない。私はこの広間に並んだもう一つのものを思った。崖。潮。火。重し。回る灯。——灯子が裁いた、五つの死。そのどれも、灯子には何も返してくれない。父を赦せたという、たしかな手応えさえも。


「一つだけ」灯子は静かに言った。「はっきりしていることがあります。——私は、父を赦すために、残りの半生を使いました。でも、私自身は、誰にも赦されない。それは、わかっているんです。父は強いられて灯を握った。私は、誰にも強いられていない。自分で選んで、この手で、五人を殺した。——父と私は、ちがう。私のしたことには、許してくれと書く相手すら、いない」


 灯子は、自分の両手を膝の上で静かに見下ろした。茶を淹れ、灯を守り、そして五人を死へ送った手を。


 暁人は長いあいだ、何も言わなかった。やがてほとんど息だけの声で口を開いた。


「光は、嘘をつかない」暁人は言った。「——あなたは、さっき私がそう言ったとき、答えませんでしたね。けれど、いまわかりました。あなたは、お父さんを、嘘の側から本当の側へ、移したかった。そのために、嘘に使われたのと同じ灯を、もう一度使った。——本当のことを、語らせるために」


「ええ」灯子は言った。


「けれど」暁人の声が低くなった。「そのために、あなたは五人を、本当に殺してしまった。——お父さんを人殺しのままにしないために。あなた自身が、人殺しになった」


 灯子は暁人をまっすぐに見た。そして、はじめて、ごくかすかに微笑んだように見えた。哀しみとも安らぎともつかぬ薄い影が、その口もとをよぎった。


「ええ」灯子は言った。「それで、いいんです」


 それで、いい。——私はその言葉にぞっとした。この女は、父を救うために自分を捨てた。父を本当の側へ移すかわりに、自分を、罪の側へ永遠に置いた。それを、いい、と言った。


 朝の光が、広間にあまねく満ちていた。長い夜は、完全に明けていた。けれど私の中では、別の夜が、いままさに始まろうとしていた。


 私は書く者だ。灯子は書く者がほしくて私を選んだ。一行で消された姉の死を、もう一度、表へ引き出すために。——けれど、いま私の手のなかには、姉の死だけではない、これだけのものが揃ってしまった。燈屋の百年の罪。灯火と難破。そして、それを唄のとおりに裁いた一人の女の、何もかもが。


 これを私は書くのだろうか。書けば、燈屋の罪が白日のもとにさらされる。けれど同じ筆が、灯子を——父を赦すために自分を捨てたこの女を、人殺しとして世間の前に引き据えることになる。書かなければ、燈屋の百年は、また土の底だ。姉の死は、もう一度、たった一行に戻る。


 書いても、書かなくても、私は、誰かを切り捨てる。


 窓の外で、嵐の去った海が、白くどこまでも光っていた。その光の上を、灯台の灯は、もう回っていなかった。夜が明けて、自分で消えていた。


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