沖野の娘
灯子は、エプロンの隠しに手を入れた。
取り出したのは、古い文箱だった。掌に乗るほどの、漆の剥げた小さな箱。私は、それに見覚えがあった。この館に着いた晩、給仕の合間に、真琴がふと人目を避けるようにして布のあいだへ滑り込ませたもの。あのとき私は、過去を語らぬ管理人のささやかな私物だろうと思った。——それが、いま、この広間のまんなかで開かれようとしていた。
灯子は、箱の蓋を開けた。中から、二つ折りの古い紙束と、一枚の写真を取り出した。
「父の手記です」灯子は、紙束を卓に置いた。黄ばんで、折り目の擦り切れた紙だった。「父が死ぬ前に、養家の私あてに送ってくれた。——灯火詐欺のこと。姉が殺されたこと。自分が灯を操らされ、口を噤まされたこと。すべてが、ここに父の字で書いてあります。読めば、わかります。私が嘘をついていないことが」
暁人が、手記をそっと取り上げ、最初の数行に目を落とした。やがて、静かにうなずいた。
「そして、これが」灯子は、写真を卓に置いた。「父が手記に添えてくれたものです」
私は、それを覗き込んだ。セピアに褪せた古い写真だった。灯台の足もとの岩の上。二人の少女が手をつないで立っている。十ばかりの、痩せた女の子が二人。——けれど、二人ではなかった。同じ顔だった。同じ目、同じ輪郭、同じはにかんだ笑み。鏡を立てたように瓜二つの少女が二人、灯台を背に、こちらを見ていた。
「双子だ」と、葛西がかすれた声で言った。
「沖野燈里と、灯子」灯子は言った。「姉と、私です。この灯台の下で、私たちはこうして育ちました」
暁人は、写真を手に取り、それを、目の前の灯子の顔へとゆっくり向け直した。写真の中の少女の、片方。その顔だちが、二十数年の歳月を隔てて、いま広間に立つ女の顔にたしかに重なっていた。骨の線。目の据わり。——双子の、生き残ったほう。
「この子のひとりが」暁人は低く言った。「あなたですね」
「ええ」灯子はうなずいた。「私が、沖野灯子です。——もう、隠しません」
広間の誰もが、写真と灯子の顔とを見比べていた。長年、別人としてこの館に仕えてきた女。その素顔が、一枚の古い写真によって、はじめて本当の名前に結びついた。
「灯子さん」と、私は思わず訊いていた。「あなたは、なぜ岬を離れていたんですか。姉さんと、双子なのに」
灯子は、しばらく写真の中の二人を見ていた。それから語りはじめた。
「灯台守は、薄給です」灯子は言った。「父は、二人の娘を養いきれなかった。——私が七つか八つのころです。父は、信じていた船乗り仲間に、私を託しました。戸籍ごと、よその家の子に。それが、いちばん私のためになると思ったんでしょう。私は姉と引き離されて、岬を出ました」
七つか、八つ。私は、その幼さを思った。同じ顔をして、同じ灯の下で育った双子が、片方だけ、よそへ。
「別れの前の晩」灯子の声が、わずかに和らいだ。「私と姉は、灯台の下で唄を歌いました。いつもの数え唄を。何度も、何度も。泣きながら。——岬を出た者は、あの唄を忘れると言われています。土地を離れれば、唄は骨から抜けていく、と。私も、忘れてよかったんです。十数年、遠いよそで暮らしたんですから。——でも、忘れられなかった。あの唄だけは。なぜなら、あれは——姉と私が、最後にいっしょに歌ったものだったから。私に残された、姉のたった一つのかけらだったからです」
私は、暁人が灯子の口ずさむ唄を聞いたと言っていたのを思い出した。誰に聞かせるつもりもなく、唇の端で。——骨に染みついた唄。あれは土地の記憶ではなかった。引き裂かれた姉との、絆そのものだった。だから二十年たっても、抜けなかったのだ。
「養家で」灯子は続けた。「私を引き取ってくれたのは、優しい人でした。父のいちばんの友だった。海の男です。——けれど、その人も海で死にました。私が十四のころ。座礁事故だと聞かされました。船が岩に乗り上げて、沈んだ、と」
灯子は、そこでわずかに目を伏せた。
「私は、長いあいだ、それをただの不運な海難だと思っていました」灯子の声が低くなった。「——けれど、それも父の手記に書いてありました。あの座礁も、燈屋の灯が招いたものだったと。あの夜、七つ岩に、嘘の灯が点っていた。私を育ててくれた人は、その嘘の灯に導かれて、岩へ乗り上げたんです」
広間が、しんとした。私は、その意味の底にあるものに気づきかけて、寒くなった。灯を操った父。その灯に殺された、もう一人の父。——灯子は、その両方を、血と縁で背負っていた。けれど灯子は、そのことには、それ以上触れなかった。まだ語るときではない、というように。
「養父が死んでから」灯子は言った。「私は、岬とはすっかり切れていました。だから、姉が死んだことも、その二年あとに父が死んだことも——私は知らされませんでした。葬式にも出ていない。知らせてくれる人が、もうどこにもいなかったんです」
知らされなかった。私は、岬を調べはじめた夜に見つけた、あの一行を思った。灯台守の娘、十六歳、転落、事故と見られる。——あの一行さえ、灯子のもとには届かなかった。実の姉の死が、新聞の片隅の、たった一行に。その一行を、双子の妹は、何年も知らずにいた。
「すべてを知ったのは」灯子は言った。「ずっとあとです。父の手記が、養家の古い荷物の底から出てきた。父は、死ぬ前に、それを送っていたんです。私あてに。——けれど私は、長いこと、その封を開けてもいなかった。父からの、最後の便り。それをようやく読んだのは、姉が死んで、十年あまりが過ぎたころでした。——あまりに遅すぎた。姉は、もうとうに、岩の底に眠っていたんです」
灯子の手が、写真の縁をそっとなぞった。
「そこから、私の復讐が始まりました」灯子は言った。「七尾真琴、という名を、私は選びました。——七尾の灯。この灯台の、古い名前です。七つ岩を照らすことから、土地の人は昔、そう呼んだ。私は、姉と、灯と、故郷と、何もかもを失った。——せめて、その名前だけでも、自分のそばに置いておきたかったんです」
七尾。私は、暁人とあの旧称をめぐって交わした言葉を思った。七尾は、七つ岩を指す土地の名。——けれど、それを自分の名に選ぶというのは、土地の者なら誰でもすることではなかった。失ったものの名を、身にまとう。それは、忘れまいとする者の執着だった。
「七尾真琴という人は」暁人が静かに言った。「自分の来し方をついぞ語らなかった。——私があなたに引っかかったのも、そこです。生まれた土地のことも育った家のことも、昔の話の端くれひとつ、あなたの口からは出てこない。人は誰しも問わず語りに来し方をこぼすものなのに。——まるでこの館へ来るより前には、どこにも生きていなかったかのように」
「長い歳月をかけて」灯子は言った。「私は、七尾真琴を作りました。経歴を、少しずつ積み上げて。——そして、玄三さんが奥さまを亡くして、身のまわりの世話をする者を探していると知ったとき。私は、その経歴を携えて、この館の門を叩いたんです。数年前のことです」
「玄三は」と、葛西が言った。「気づかなかったのか。双子の片割れだぞ。顔だって、似ていただろうに」
「玄三さんは」灯子は静かに言った。「成人した私の顔を、一度も見ていません。私は、岬を出てから一度も戻らなかった。姉の葬式にも、父の葬式にも。玄三さんにとって、私は、ずっと昔の使用人の幼い娘の、おぼろげな記憶でしかなかった。——それに、玄三さんには、揺るがない前提がありました。沖野の娘は、燈里は死んだ。もう一人は、どこにいるとも知れない。——目の前のよく気のつく管理人が、まさか、その娘だとは。年老いた人の薄れた記憶と目に、それを疑う理由は、何もなかったんです」
灯子は、自分の顔に軽く手をやった。
「私も努めました」灯子は言った。「髪のかたちも、装いも、物腰も。記憶の中の、岬の少女から遠ざかるように。——顔そのものを変えたわけではありません。ただ、人が思い出さないように。あの娘の面影を、誰の中にも呼び起こさないように。——二十年というのは、人の顔を、人の記憶を、それだけ変えるのにじゅうぶんな歳月でした」
二十年。私は、その長さを思った。姉を喪ってから、今日まで。——その後半を、灯子は、失った姉の名を、灯台の名を、ありもしない経歴を、少しずつ組み上げることに費やした。憎む相手のすぐそばで、茶を淹れ、灯を守り、世話を焼きながら。——一人の人間が、復讐のためだけに、別の人間になりきって生きたのだ。
「これで」灯子は、写真をそっと卓に戻した。「私が誰なのかは、わかっていただけたと思います。沖野源助の娘。燈里の双子の妹。沖野灯子。——七尾真琴という女は、はじめから、どこにもいなかったんです」
窓の外で、朝の光が、広間の床に薄く差しはじめていた。長い夜が明けていた。けれど、まだ語られていないことがあった。なぜ灯子が、よりによって、あの数え唄に五つの死を重ねたのか。告発状を私のもとへ送り、関係者をこの館へ呼び集めたのは、どういう絵だったのか。——復讐の、その組み立てのすべてが。




