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灯台守の娘  作者: よしお


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二十年前の夜

「——私の名は、沖野灯子といいます」


 その声は低く、けれど澄んでいた。ひと晩じゅう給仕の指図を淡々と告げてきた、あの管理人の声とは別のものだった。真琴が——いや、その女が、長く隠してきた本当の名を、自分のものとして口にした最初の声だった。


「沖野」史奈が、喉の奥で呻いた。「沖野って……あの、灯台守の」


「源助の娘です」その女は言った。「灯台で死んだ燈里の。——双子の、妹」


 広間が凍りついた。私は、その横顔を見つめた。いつもの温度のない仮面は、もうなかった。代わりにそこにあったのは、長い歳月をたった一人で抱えてきた者の、静かな疲れと、底光りする硬いものだった。


「灯子さん」暁人が、はじめてその名を呼んだ。叱るのでも責めるのでもなく。「話してくれますか。——いや。その前に、私のほうから申し上げます。この館と、隣町の図書館の古い記録から、私が読み解いたことを。間違っていたら、正してください」


 灯子は、すぐには答えなかった。ただ、暁人を見た。聞きましょう、というように。


「あなたのお父さんは、この灯台の灯台守だった」暁人は言った。「灯を守る人だ。——けれど、私たちが図書館で古い記録を繰ったとき、奇妙なことに気づいた。七つ岩で沈んだのは、いつも値の張る荷を積んだよその船で、その荷は、ことごとくどこかへ消えていた。難破で損をするはずの灯台の持ち主が、この百年、難破で富を増やしてきた。——灯を持つ家が、灯で船を沈めていたのです。岩のないところに嘘の灯を掲げ、船を岩へ誘い、流れ着いた荷を奪う。その嘘の灯を握らされていたのが——灯台守の、お父さんの手だった。そうですね」


「……ええ」灯子は、低く言った。「父は、やりたくてやったのではありません。玄三さんに脅されていた。逆らえば灯台守の職を失う。それだけでは済まない。この狭い岬で、燈屋に逆らった者がどうなるか。——灯を守る人が、その同じ手で灯を嘘にして、船を沈めた。人が死にました。乗っていた人が。そのことが父を、ゆっくりと内側から殺していったんです」


 私は、この岬を初めて調べた夜に読んだ、あの観光案内の軽い一文を思い出した。昔は座礁する船が絶えなかった。そして港の老人の言葉も。沈むときは灯があっても沈むさ。灯ってのは、つけるも消すも人の手だでな。——あれは世間話ではなかった。暁人が図書館で読み当てた罪の輪郭が、いま、この女の口から裏づけられていく。


「姉さんは」暁人は続けた。「その灯の細工を、知ってしまったのではありませんか」


「……見てしまったんです」灯子は言った。「ある夜、父が灯を誤らせて、船を岩へ導く、その現場を。姉は賢い子でした。何が起きているのか、すぐにわかった。父が、人を殺す手伝いをさせられていることが。——でも姉は、訴えませんでした。父を、罪から引き戻したかったんです。それと、もう一人。鵜飼さんを」


 鵜飼。私は、機構室で重錘に潰されたあの男を思った。


「鵜飼さんは」灯子は言った。「私たち姉妹が、ごく幼いころからよく遊んでくれた人でした。灯台の、親しい大人だった。姉は、その鵜飼さんが父と一緒に灯の細工をしているのを知っていた。——だから警察ではなく、二人のところへ通ったんです。もうやめて、と。何度も。慕う二人を、これ以上罪に沈めたくない一心で。——その嘆願が、姉を殺しました」


「玄三に、知れたのですね」暁人が静かに言った。


「父も鵜飼さんも、玄三さんの前では弱かった」灯子は言った。「姉が罪を知って、もうやめてと迫っている。——それを、とうとう白状してしまった。玄三さんは悟ったんです。娘が知っている。しかも、実行役の二人を内側から崩しにかかっている。いちばん危ない、と。——姉を消すことに決めました。ただ消すのではなく、事故に見せかけて。灯台で足を滑らせた、不幸な転落事故に」


 灯子は、塔のほうへ目を向けた。窓の向こう、白みはじめた空に、灯台が黒く立っていた。灯は、もう消えていた。


「その夜のことを、私は見ていません」灯子は言った。「私はもうよそへやられて、岬にはいなかった。——あの夜、灯室で何があったかを私が知っているのは、父が死ぬ前に、すべてを書き遺してくれたからです。自分の罪も、姉の死の本当のことも」


 父の手記。私は、公民館で繰った、あの百年史の余白をまた思った。名のない、灯台守の一家。その父が最後に遺した、たった一つの記録。


「その先は」と、暁人が言った。低い、けれど確かな声で。「私のほうから、申し上げてもいいですか。——あなたが、玄三さんをどう裁いたかを、私はこの目で見たのです」


 灯子が、暁人を見た。


「あなたは」暁人は言った。「回るレンズに死体の影を運ばせ、あの最上階の窓から見える灯室に、生きた玄三さんを演じさせた。館の窓と、灯室。その二つを結ぶ見通しを、あなたは使った。——私は、ずっと考えていました。なぜ、よりにもよって、その見通しだったのか。ほかにも、やりようはあったはずなのに。そして、思い至ったのです。——あなたは、姉さんが殺されたのと、同じ見通しで、玄三さんを裁いたのではないか、と」


 灯子の目が、はじめて大きく揺れた。


「あの窓からは」暁人は言った。「四十メートル先の、灯室の回廊が、正面から、同じ高さで見通せる。——二十年前、姉さんは、その回廊の手すりの際に立っていた。鵜飼さんを説きに来て。そして誰かが、あの窓から灯りを掲げて合図を送った。回廊にいた者が、その合図で、信じて背を向けた姉さんを、手すりの向こうへ突き落とした。三十五メートル下の岩へ。——灯を見守るための部屋が、人殺しを見張る部屋になった。あなたは二十年後、その同じ部屋と灯室との見通しを使って、玄三さんを裁いた。姉さんが落とされたのと、寸分たがわぬ、その仕掛けで」


「ええ」灯子は、声を震わせた。「——そのとおりです」


 広間は、声もなかった。私は、ひと晩じゅう私たちが見上げていた、あの最上階の窓を思った。玄三の影が立っていた、あの窓。——あれは二十年前、玄三が姉の死を見届けた、その同じ窓だったのだ。


「窓辺で灯りを掲げたのは、玄三さんです」灯子は、暁人の組み立てを、一つずつ埋めるように言った。「鵜飼さんは、自分からは手を下せなかった。信じて慕ってくれる娘を、自分の手で——できるはずがない。だから、合図を待っていた。父はその夜、当直で塔の下にいて、回廊の二人のそばには、いなかった。それも玄三さんの計算のうちでした。——慕う大人に、もうやめてと頼みに来た娘が、その大人の手で、光の合図ひとつで、海へ落とされたんです」


「そして、その死は」暁人が言った。「事故にされた。——網代さんが、室戸さんが、柚原さんが。あの図書館で、私たちは、その名を見ています。二十年前、この土地でそれなりの立場にいて、燈屋家と繋がっていた人たち。事故の認定を握る者。検案書を書く医者。新聞に書く記者。——それぞれが、その手で、姉さんの死を塗り消した」


「みんなで寄ってたかって」灯子は言った。「姉の死を、岬の灯台のただの不幸な余話に変えてしまった。十六歳の娘が灯台から落ちて死んだ。事故と見られる。——それで、おしまいに」


 事故と見られる。私のあの夜の検索に、ただ一行だけ残っていた、その言葉。少女の死は、点灯記念の祭りの写真と、漁港の水揚げ量のグラフのあいだに挟まっていた。ほかのどの出来事ともおなじ大きさで。——あの一行の下に、これだけのものが埋まっていた。


「史奈さん」灯子は、その老女のほうへ目を向けた。史奈は顔を覆って震えていた。「あなたが、この夜の誰にも手をかけていないことは、私がいちばんよく知っています。手を下したのは、私です。——あなたは、奪った荷を金に換え、その金を洗った。燈屋の蔵を肥やした一人だ。それは、たしかに罪です。けれど、あなたは、姉の死そのものには手を出していない。崖を事故と裁いたのでも、検案書を書き換えたのでも、新聞に書いたのでもない。——姉を一行に消したのは、あなたではなかった。だから、私はあなたを、この唄には入れなかったんです。——それに、あなたもまた、あの家に縛られて生きてきた一人だ。けれど、それで償いになるわけではありません。あなたは生きて、自分のしたことを、抱えていくしかない」


 史奈は、答えられなかった。ただ肩を震わせていた。


 暁人が、静かに口を開いた。「灯子さん。——あなたが二十年前の夜を知ったのは、お父さんの手記からだと言いましたね。では、その手記が、いまもあるんですか。あなたが沖野灯子であることを裏づけるものが」


 灯子は、暁人を見た。そして、はじめてその口もとに、笑みとも哀しみともつかぬかすかな影が差した。


「ええ」灯子は言った。「あります。——父が最後に私に遺したもの。手記と、それからもう一つ。長いあいだ誰にも見せられなかったものが」


 窓の外で、夜が明けきろうとしていた。長い、長い一夜が。けれど、語られるべきことは、まだ終わっていなかった。


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