便箋の出所
「その手紙を、見せていただけますか」
暁人が言った。私は鞄の底からあの白い封筒を取り出した。長い旅のいちばん最初に、私をこの岬へ呼び寄せた一枚の紙。封を起こし、三つ折りの便箋を広げて卓の上に置いた。葛西刑事が太い首を伸ばして覗き込んだ。
「二十年前、回光岬の灯台で死んだ少女は、事故ではない。殺されたのだ」
暁人が、その一行を声に出して読んだ。広間の空気が、しんと張りつめた。
「これが、すべての始まりです」暁人は言った。「真壁さんのもとへ差出人もなく届いた。署名も、要求もない。ただ一行、二十年前の死を殺人だと告げて、あとは黙っている。——この手紙が届かなければ、真壁さんはこの岬を知らず、私もここへは来なかった。私たちがいまこうして死人に囲まれているのは、もとをたどれば、この一枚の紙から始まっている」
「それが、どうかしましたか」葛西が訊いた。「いたずらの怪文書かもしれん。差出人もないのでは」
「いたずらでは書けない紙なのです」暁人は便箋を光のほうへ持ち上げた。「真壁さん。あなたはこれがどこの紙か、もう突き止めておられた」
私はうなずいた。岬に着いた翌朝、私はこの透かしを公民館で照合していた。
「便箋の隅に、透かしが漉き込まれています」私は言った。「灯台の図案です。細い塔と、扇のように開く光の線。——市販の便箋には、こんなものは入りません。誰かが、自分の家のために、特別にあつらえた紙です。そして私はこれと寸分違わぬ透かしを公民館で見つけました。『回光灯台百年史』。編者は燈屋。その見返しの紙とこの便箋は、同じ版で漉かれた、同じ紙でした」
葛西の太い眉が動いた。「同じ……燈屋家の紙だと」
「重ねて何度も確かめました」私は言った。「塔の傾き、光の線の本数、紙の手触りまで。同じところから出た紙です。——この告発状は、燈屋家の便箋で書かれていたんです」
広間がざわめいた。史奈が青ざめた顔を上げた。
「待ってちょうだい」史奈が震える声で言った。「それじゃまるで、私たちの家の誰かが、自分の家の罪をよその人に告げ口したみたいじゃないの。そんな……なぜ、身内が」
「ええ。そこが、肝心なところです」暁人は静かに言った。「燈屋家の紙を使える者が、燈屋家の罪を外へ書いて送った。普通、こういう手紙は外から来る。恨みを持つ者、置き去りにされた者が、暗がりから家を撃つために書く。けれどこの手紙を書いた手は、撃とうとしている家の、その紙を使える側にいた」
「なら、なおさら妙だ」葛西が腕を組んだ。「身内がなぜ身内を売る。家の罪が暴かれて得をする身内なぞ、おらんでしょう」
「いません」暁人はうなずいた。「だから書いたのは、ただの身内ではない。——刑事さん。この夜、この館で死んだ五人を思い出してください。網代さん、室戸さん、柚原さん、鵜飼さん。そして玄三さん。みな、二十年前のあの死に手を貸した人たちです。その罪が表に出れば、いちばん困るのはこの五人だった。自分の罪を世間に書き送る道理が、この五人にはない。——では史奈さん、あなたは」
史奈がびくりと肩を震わせた。
「私が、書くわけないでしょう」史奈は叫ぶように言った。「私だって、二十年前のことが暴かれたら……」
「ええ。あなたにも、書く道理はない」暁人はあっさりと言った。「あなたもまた、暴かれて困る側だ。この告発状は、あなたが書いたものではありません」
史奈が、呆けたように口を開けた。自分を庇う言葉が、よりによって、自分を追いつめるはずの男の口から出たことに、追いつけずにいるようだった。
「告発状を書いた者は」暁人は続けた。「燈屋家の紙を当たり前に使える場所にいて、なお二十年前の罪が暴かれて困らない者です。むしろ——暴かれることを望んでいた者だ」
望んでいた。私の中で、何かがことりと動いた。
「考えてもみてください」暁人は便箋を卓に戻した。「この一通が、何を起こしたか。真壁さんを岬へ呼んだ。真壁さんが嗅ぎ回りはじめた。その噂が、二十年前の罪人たちを怯えさせた。怯えた者たちは、口裏を合わせるために重い腰を上げて、一所に集まった。——この『灯火を継ぐ会』に。告発状がなければ、彼らは全国に散らばったまま、二度と一堂には会さなかった。誰も、唄のとおりに殺されることなどなかった」
葛西が低く唸った。「告発状が……関係者を一所に集めた、と」
「一所に集めるための、撒き餌だったのです」暁人の声が低くなった。「この手紙を書いた者は、燈屋家の罪を暴きたかったのではない。罪人たちを、岬へ、この館へとおびき寄せたかった。逃げ場のない一つの檻に、二十年前の罪人をことごとく追い込むために。——告発状は、罰を求める叫びではなかった。獲物を呼ぶ笛だったんです」
広間は、水を打ったようだった。私はあの夜の台所を思い出した。薄い封筒の、丁寧すぎる糊づけ。端正な楷書。叫んでいない一行。あれは、助けを求める手紙ではなかった。——知っている者が、静かに罠の糸を一本、私の手に握らせた。あのとき私は、確かにそう感じたのだ。糸の端を、こちらの手に握らせるように、と。
「では」と葛西が、声を絞り出した。「その、撒き餌を撒いた者は。誰なんです」
「もう一つ、糸があります」暁人は言った。「真壁さんと私は、この岬へ来る前、各地で死んだ罪人たちの暮らしを訪ね歩きました。網代さんの家。室戸さんの診療所。——その先々で、同じ証言を聞いたのです。亡くなる少し前、燈屋家の使いだという一人の女が訪ねてきていた、と」
私はあの旅を思い出した。漁村の網代の家でも、廃院めいた室戸の診療所でも、人々は口を揃えた。燈屋さんの使いの方が、招待状をわざわざ届けに来られて、と。地味な身なりの、物静かな女。顔をよく覚えている者は、一人もいなかった。
「会の招待状を各地へ配って回った女がいる」暁人は言った。「燈屋家の使いとして。そして、その女が訪ねた家の主は、女が去ったあと次々と死んでいった。網代さんは崖から落ち、室戸さんは海に沈んだ。——招待状を届ける者は、相手の家を知り、暮らしぶりを知り、一人になる折を知る。先回りして待ち伏せるのに、これほど都合のいい立場はありません」
「その、使いの女が」葛西の声がかすれた。「告発状の、紙を使える者と」
「同じ一人だと、私は見ています」暁人は言った。「燈屋家の紙を使え、燈屋家の使いとして各地を回り、罪人たちを岬へ呼び集めた。——この館に着いてからは、晩餐の給仕をし、火事に水を運び、死体の片づけをして、終始みなのそばにいた。誰の目にも、忠実に働く、影のように静かな者として」
暁人はそこで言葉を切った。広間の誰の顔も見なかった。けれど私の目は、いつのまにか広間の隅へ向いていた。茶の支度の盆を手に、音もなく控える、一人の女のほうへ。
「この館に住んでいるのは」暁人は静かに言った。「玄三さんと、もう一人。その二人きりだと、皆さんが言っておられた。玄三さんは、いちばん最初に殺された獲物だった。告発状を撒くことも、各地を回ることも、玄三さんにはできない。——では、残る一人は」
残る一人は。私は、その隅の女から目が離せなくなっていた。真琴。柱時計の脇に立つ、その横顔は、いつもと変わらなかった。悲しみも、怯えも、何もない。自分のことが語られているとも知らぬように、ただ静かに、盆を持っていた。
葛西がその視線をたどって、隅の女を見た。そして、はっとしたように口を開きかけた。
「お待ちください、刑事さん」暁人がその先を制した。「いまは、まだ」
葛西が、暁人を見た。「なぜ止める。筋は通っている。紙も、使いの女も、館に残る一人を指しているじゃないか」
「指している、というだけでは足りないからです」暁人はゆっくりと言った。「機会があった。立場があった。それは認めます。けれど、なぜその者が、二十年前の罪人たちを、一人残らず唄のとおりに葬らねばならなかったのか。——燈屋家に雇われた、一介の管理人が。仕える主の家を、なぜ根こそぎ滅ぼさねばならなかったのか。その動機の根を、まだ私はお見せできていない」
「動機など」葛西が苛立たしげに言った。「捕まえて、吐かせればいい」
「いいえ」暁人の声は、静かだが、揺るがなかった。「この事件は、力ずくで吐かせて、それで終わるものではありません。この館で起きたことには、二十年前から繋がる一本の太い糸が通っている。その糸の根もとを見ないかぎり、私たちは、誰を、何の罪で裁くのかさえ本当には分からない。——名を挙げるのは、その根を見てからです」
名を挙げるのは、根を見てから。私は、暁人のその慎重さの底にあるものをまだ測りかねていた。証拠は、もうここに揃っているように私には思えた。便箋。使いの女。館に残る、ただ一人。それでも暁人は、最後の一語を頑なに口にしようとしなかった。光は嘘をつかない。嘘をつくのは、光を語る人間だ。——彼は、半分の答えで人を名指すことを自分に禁じているようだった。
「その根は」と、私は訊いた。「どこに、あるんですか」
「あの唄です」暁人は言った。「この夜、五つの死をなぞった、わらべ唄。あれを、もう一度、最初から数えてみなければなりません。——なぜ、この事件のすべてが、あの古い数え唄のかたちをしていたのか。なぜ、犯人は、人を殺すだけでは足りず、一つひとつを唄になぞらえずにいられなかったのか。その問いの答えが、犯人がほんとうは何者なのかを、教えてくれる」
唄。私は、ひと晩じゅうこの館に響いていた、あの数え唄を思った。崖で手を振る娘。夜の潮に眠る者。赤々と燃える灯。降りてくる重し。ぐるりと夜を守る灯の主。——五つの死は、三番から七番までにぴたりとはまっていた。けれど唄には、まだ手をつけられていない一節が残っていた。
「二番です」暁人は、私の思いを読んだように言った。「双子の鴎が、沖を見て鳴く。——五つの死は、三番から七番までを埋めた。けれど二番だけが、どの死にも使われずにぽつんと空いている。なぜ犯人は、二番だけを使わなかったのか。あるいは——二番を、誰のために空けておいたのか」
双子の鴎。私の胸の奥で、その一節がにわかに別の重みを帯びはじめた。沖野の家には、娘が二人いた。灯台から落ちて死んだ、姉。そして、よそへやられて、この村の記憶からも消えた、妹。——双子。
「その一節をたどれば」暁人は便箋を私の手に、そっと戻した。「告発状を撒いた手が、ほんとうは誰の手だったのか。なぜその手が、二十年を経てなお、この復讐を選んだのか。——その、いちばん深いところへ、私たちはようやく、たどり着きます」
私は便箋を、鞄の底へ戻した。二十年前の死を殺人だと告げた、たった一枚の紙。それは、見知らぬ私への助けの求めではなく、罪人を呼ぶ笛であり、そして書いた者自身の、消えない署名でもあったのかもしれなかった。広間の隅では、真琴が相変わらず音もなく立っていた。その手の中の盆が、ほんのわずかも揺れていなかった。




