崩れる仮説
「待ってください」
暁人の声は低かった。けれど、ざわついていた広間が、その一言でしんとなった。警官に支えられて立ち上がりかけた史奈が動きを止めた。葛西がゆっくりと振り返った。
「東雲さん。何か」
「史奈さんは、犯人ではありません」暁人は言った。静かに、けれど、ひと言ずつ楔を打つように。
葛西の眠そうな目が、わずかに見開かれた。それから面倒なものを見るような色がそこに浮かんだ。「根拠を伺いましょう。あるなら」
「三つあります」暁人は史奈のほうへちらと目をやった。崩れ落ちたまま、史奈はぼんやりと暁人を見上げていた。自分が弁護されていることが、まだよく呑み込めないようだった。
「一つめは、唄です」暁人は言った。「この一連の殺しは、わらべ唄の見立てだ。網代さんは三番の崖。室戸さんは四番の潮。柚原さんは五番の火。鵜飼さんは六番の重し。玄三さんは七番の灯の主。——五つの死が、唄の三番から七番まで、寸分たがわず並んでいる。ですが、この唄には、もう一つ見落とせないものがある。犯人自身の、署名です」
彼は葛西を見た。
「唄の二番。双子の鴎が、沖を見て鳴く。——この一節だけが、死とも罪とも何の関わりもない、ただのどかな情景です。五つの死には、それぞれきちんと対応する節がある。なのに、二番だけが、どこにも収まらずぽつんと余る。なぜか。二番が、被害者を表す節ではないからだ。犯人が、自分は何者かを、唄の中にそっと書き込んだ——署名だからです。双子の鴎。犯人は、双子の片割れだ。この岬で双子といえば、二十年前の灯台守の二人の娘だけ。姉は死に、妹は行方知れずになった。——史奈さんは、双子では、ありません」
「唄なんぞ、調べればわかる」葛西が言った。「どこかで歌詞を手に入れて、それらしくなぞらえたのかもしれん」
「歌詞を調べることは、できます」暁人はうなずいた。「私たちも、そうやって知ったのですから」
「待ちなさい」葛西が口を挟んだ。「その二番は——二十年前に死んだ、灯台守の娘のことではないのかね。双子の、片割れだったという。犯人がその娘の弔いに、唄へ残した。そう考えれば、犯人自身が双子である必要はない。むしろ、その娘の死に後ろめたい者が、その一節にだけ手をつけなかった、とも読める。——たとえば、史奈さんが」
私は、はっとした。葛西の言うことにも、筋が通っていた。二番が、殺された娘を指すのなら。
「鋭いお考えです」暁人は低く言った。「たしかに、双子の片割れには、二十年前に死んだ娘がいる。——けれど葛西さん。『双子の鴎』は、二羽です。双子の、両方だ。一羽は、死んだ娘。では、もう一羽は。——二十年前に岬から消えて、行方の知れない、妹のほうです。そして、いまこの唄を歌い、五つの死を唄のとおりに組み上げているのは、死んだ姉ではありえない。生きている、もう一羽——妹のほうだ。二番は、その妹が『自分は、あの双子の、生き残ったほうだ』と名乗りを上げた署名です。死んだ娘の弔いではない。生きた妹の、名乗りだ。——史奈さんは、その二羽の、どちらでもありません。けれど、かりにそこを措くとしても、二つめの壁がある」
暁人は、窓の外の灯台のほうへ目を向けた。
「灯室の、玄三さんの『動く影』。それから、鵜飼さんを打ち砕いた、あの機構室の仕掛け。——どちらも、灯台の光と機構を知り尽くした者にしか組めないものです。光源とレンズの回り方。重錘の巻き上げ。香で時を計り、糸を焼き、掛け金を外す段取り。落下が同時に閂を下ろす連動。これは、帳面の数字を扱ってきた人の知識ではない。灯台そのものを手の内で知っている者の仕事だ。史奈さんが機構室に足を踏み入れたことすら、あるかどうか」
「手伝わせた、と言ったはずだ」葛西の声が、少し固くなった。「機構を知る者に組ませた。史奈は頭だ。手を動かしたのは、別の人間」
「『機構を知る者に手伝わせた』と、おっしゃる」暁人は静かに言った。「では、お訊きします。その『機構を知る者』を、史奈さんは、なぜ、いまだに名指ししないのでしょう。ありもしない罪で、縊られようとしているのに。共犯者がいるなら、その名を吐けば楽になれるはずだ。——言わないのは、かばっているからではない。言えないからです。そんな者を、史奈さんは、知らないからだ。それに——灯台の機構を知り尽くし、各地に先回りして人を葬り、二十年前のすべてを承知していた者。それだけのことをやってのける頭が、帳面しか知らない史奈さんの、ただの手足だったと、本気でお思いですか。主犯と従犯が、逆です。この夜を描いた頭が、別にいるのなら——その頭こそが犯人で、史奈さんは、その絵に描き込まれてすら、いなかった」
史奈が、はっとしたように顔を上げた。その目に、初めて、すがるような色が差した。
「三つめは、各地に現れた人物です」暁人は続けた。「網代さんも、室戸さんも、亡くなる少し前に、一人の女が訪ねていました。燈屋家の使いだと名乗って、会の招待状を届けに、と。——その女が先回りして、各地で手を下した疑いがある。訪ねられた家の者は、その女の背格好も、物腰も覚えているはずだ。それが、史奈さんと一致しますか。葛西さん、各地に問い合わせて、確かめてみてください。——私の知るかぎり、網代さんや室戸さんのもとに現れたのは、史奈さんではない。別の、誰かです」
葛西は、腕を組んで黙っていた。眠そうな目が、もう眠そうではなかった。
「それに」と、私は思い切って口を挟んだ。「史奈さんの、あの安堵のことです。私も、それを史奈さんが犯人だからだと話してしまいました。けれど、逆かもしれない。捕まれば、もう唄のとおりに殺される心配がなくなる。ひと晩じゅう次は自分かと怯えていた人が、ようやく安全なところへ行ける。——あの安らぎは、人を殺してきた者の余裕ではなく、殺される側の人が、やっと逃れられる、その安堵だったのでは」
史奈が、声を漏らした。嗚咽とも安堵ともつかない、細い声だった。それが、何よりの答えのように、私には聞こえた。
葛西は、長いあいだ私たちを見ていた。やがて太い息を吐いた。
「……では、東雲さん」彼は言った。連行を命じかけていた手を、下ろしていた。「あんたは、誰が犯人だと言うんです。この館の、誰が」
暁人は、すぐには答えなかった。広間を、ゆっくりと見回した。
「まず、外から来た者ではありません」彼は言った。「一本道は崩れ、海は荒れていた。嵐のあいだ、この岬には誰も入れず、誰も出られなかった。よそから忍び込んだ者の犯行ではない」
「では、館の中の者だ」
「ええ。——ですが、ここで一つ、考えておかねばならないことがある」暁人は低く言った。「この館は広い。使われていない部屋も、暗い区画もいくらでもある。もし誰かが、私たちが孤立する前から、館のどこかに潜んでいたとしたら。その者は、私たち五人が広間で身を寄せ合い、互いを見張り合っているあいだも、誰の目にも触れず、館の闇を自由に動けたことになる。灯室へも、機構室へも。——五人の誰のアリバイも、その者には関わりがない」
私は息を呑んだ。ゆうべ、暁人が口にした、あの可能性。姿の見えない、六人目。
「けれど、その考えは捨てなければなりません」暁人は葛西を見た。「葛西さん。あなた方は、この館を隅々まで調べたはずだ。誰かが潜んでいた跡——寝起きした場所、食べ物の残り、出入りした痕跡は、ありましたか」
「……ない」葛西は低く答えた。「どこにも。人が隠れ住んでいた様子は、なかった」
「それに、灯室も機構室も、鍵がかかっていた」暁人は言った。「その鍵を持つのは、この館でただ一人だけです。潜む者が、勝手にあの場所へ立ち入れたはずがない。——もし本当に潜んでいた者がいたとしても、鍵を持つ誰かの手引きがいる。だとすれば、その鍵を持つ者こそが、本当の犯人だ。姿の見えない六人目を、わざわざ館の闇に置く必要はない。鍵を持ち、機構を知り、唄を知る者が、すでにこの五人の中にいるのだから」
鍵を持つ者。私の中で、一つの像が、また輪郭を結びかけた。けれど、私はそれをまだ口にしなかった。暁人も、その名を呼ばなかった。
「犯人は、この中にいます」暁人は静かに言った。「唄を知り、灯台の機構を知り、灯室と機構室の鍵を持つ者。二十年前のすべてを、その身に背負った誰かが。——史奈さんでは、ない」
葛西は、しばらく黙ってから、低く言った。
「……話は、わかった。だが東雲さん、それはまだ消去法だ。史奈さんが違う、外の者でもない、潜んでもいない。だから残りの誰かだ、と。——肝心のその『誰か』を、あんたはまだ名指ししていない。証もなしに人を指させないのは、あんたも私と同じはずだ」
「おっしゃるとおりです」暁人はうなずいた。「だから、確かめなければならない。名を呼ぶ前に、たった一つ、はっきりさせるべきことがある」
彼は、窓の外の灯台を見た。朝の光の中で、もう灯の消えた塔が、白々と立っていた。
「あの灯室で、本当は何が起きていたのか」暁人は言った。「玄三さんは、いつ死んだのか。——ひと晩じゅう、私たちが見ていた、あの『動く影』。あれの正体がわかれば、この夜のすべての時刻が組み替わる。誰に何ができて、誰に何ができなかったのか。それが、まるで違ってくる。——そこからしか、本当の答えは出てきません」
史奈が、警官の手を離れ、椅子に座り直していた。連れていかれる女ではなく、ただ疲れ果てた一人の人間として。その目は、もう暁人だけを見ていた。
私も暁人を見た。あの影。ひと晩じゅう私たちを見下ろしていた、十五秒ごとに同じ動きを繰り返した、玄三の影。その正体を、暁人はもう、つかんでいるのだ。私にはそれがわかった。長い夜が照らし出さなかったものを、朝の光の中で、この男はいまからひとつずつ明るみに出そうとしていた。




