七尾という名
その夜、私はこれまで歩いてきた道を、はじめからたどり直していた。
眠れなかった。広間の隅で膝を抱え、目を閉じても、頭の中だけが冴えていく。岬に来てからのことを一つずつ順に思い返した。差出人のない手紙。崖から落ちた網代。夜の潮に沈んだ室戸。シゲさんの、海の見える家。古い図面の隅に暁人が見つけた、墨の文字。点灯祭の、色褪せた写真。手をつないだ、瓜二つの双子。——あちこちの関係者を訪ね歩くあいだ、私はたくさんのものをノートに書きとめてきた。そのどれもが、ばらばらの、別々の出来事のはずだった。
けれど、この館に閉じ込められ、人が一人ずつ死んで、五人にまで減ったいま。そのばらばらだったものが、暗がりの中で、ひとりでに近づきはじめていた。
訪ね歩いていたころは、打ち消せた。岬で育った人間は大勢いる。消えた娘のことも、館の管理人のことも、別々の引き出しにしまっておけた。けれどいま、その仕切りが一つずつ外れていく。残ったのが五人だから。そして、玄三を殺せた機会が、あの女のほうへ、静かに傾いているから。
七尾。
また、その名だった。私は目を開けた。なぜこの名が、これほど引っかかるのか。これまで調べ歩いてきた記憶をもう一度たぐった。そして、ようやく思い当たった。
七尾の灯。
あの古い図面の隅に暁人が見つけた、灯台のもとの名。七つ岩を照らす灯。シゲさんが懐かしそうに口にした、岬の古い言葉。回光灯台という、よそゆきの名の下に隠れていた、もう一つの名。——あのとき私はそれを灯台の名として聞き、書きとめ、それきり別の引き出しにしまっていた。
七尾の灯。七尾真琴。
同じ、七尾だった。
どうして、いままで気づかなかったのだろう。いや、気づかなかったのではない。並べてみる理由がなかったのだ。灯台の旧称と、管理人の姓。その二つを引き比べる謂れは、あのころどこにもなかった。あの女は、ただの無口な管理人で、それ以上の何者でもなかったから。
けれど、いまは違った。
私はそっと身を起こし、壁ぎわの暁人のところへにじり寄った。彼は目を閉じて座っていたが、眠ってはいなかった。私が隣に来ると、薄く目を開けた。
「眠れませんか」と、彼は小声で言った。
「七尾の灯」と、私はささやくほどの声で言った。「あなたが、あの古い図面で見つけた、灯台のもとの名前」
暁人の目が、暗がりの中でわずかに動いた。
「——七尾真琴さんの、七尾と。同じです」
暁人は、すぐには何も言わなかった。長いあいだ、暗い天井を見ていた。やがて、ほとんど息だけの声で言った。
「気づいて、おられましたか」
「では、あなたも」
「あの図面の名を見つけたとき、頭の隅をかすめはしました」暁人は言った。「七尾。同じ名の女が、あの館にいる、と。——けれど、それだけでした。当時は、あの人を疑う理由が何もなかった。私はその符合を、ただの偶然として脇に置いたのです」
「偶然——」私は言いかけた。「あれだけの名が、たまたま重なるものでしょうか」
「重なります」暁人は静かに言った。「むしろ、当たり前かもしれない。——七尾、というのは、もとを正せば、あの沖の岩のことだ。七つ岩。七つの岩が、尾を引くように連なっている。だから、七尾。灯台の旧称も、そこから来ている。つまり七尾とは、この岬の、土地そのものの名です。海辺で生まれた者が七尾という姓を負っていても、何も不思議はない。むしろ、ありふれている。——名前が一つ重なった。それだけでは、私は、誰のことも指せません」
私は口をつぐんだ。さっきまで大きな発見のように思えたものが、暁人の静かな一言で、みるみる色を失っていく。七尾は、土地の名。この岬の生まれなら、誰が名乗っていてもおかしくない。——また、だ。私はありもしない糸を結んで、勝手に意味を読もうとしていた。
「けれど」と、暁人は続けた。その声が低くなった。「名前が空振りでも、その名が裏から照らしている一事だけは、消えません。——七尾という姓も、あの数え唄も、結局は同じ一つのことを言っている。あの人は、この岬の生まれだ。よそから流れてきた、ただの管理人ではない。この七尾の岬の、土地の者だ。それは、もう動かない」
「岬の生まれであること自体は、罪ではありません」暁人は言った。「岬で育った者は大勢いる。その一言で、私たちは、いくつもの引っかかりを手放してきた。唄を口ずさむ管理人のことも。消えた、双子の妹のことも。——だが、いまは、その先がある」
彼は、指を折るように数えはじめた。
「一つ。あの人は、この岬の生まれだ。唄が、名が、それを裏づけている。——二つ。なのに、その来し方を、ほとんど語らない。この館へ来るより前、どこで、どう生きてきたのか。問うても、はぐらかすばかりだ。土地に生まれた女の、いちばん肝心なところが、本人の口から、すっぽりと抜け落ちている」
彼は、広間の隅のほうへ目を向けた。
「——三つ。その岬の生まれの女が。燈屋家がこの土地に何をしてきたかを、知らぬはずのない女が。よりにもよって、その燈屋家の館に、自ら望んで住み込み、たった二人きりで当主に仕えている」
三つ。私はその数を胸の中で繰り返した。一つひとつは、なんでもないことだった。岬の生まれ。語られない来し方。住み込みの仕事。どれも、それだけなら、世間にいくらでもある。けれど、その三つが、一人の女に、きれいに重なっていた。
「一つなら、偶然です」暁人は言った。「けれど、岬に生まれた者が、その来し方をいっさい語らず、よりにもよって、土地の罪を背負った家に、自ら入り込んでいる。——この三つが、同じ一人に重なったとき。それを、まだ偶然と呼べるのか。私には、わからなくなってきました」
私の中で、これまで何度も打ち消してきたものが、もう打ち消せなくなっていた。あの宿の夜、写真を閉じて考えすぎだ、と言い聞かせたことを思った。手をつないだ、瓜二つの双子。一人は死に、一人は消えた。消えた一人も、岬で育ち、あの唄を骨に染ませていたはずだった。——その消えた一人を、私はいま、すぐ隣の部屋にいる女と重ねかけていた。
「暁人さん」私は、その先を口にしようとした。「消えた、双子の——」
「待ってください」暁人は、静かに、けれどはっきりと私を止めた。「そこまで、まだ言ってはいけない。——いいですか。私たちが並べたのは、三つの、偶然らしきものだけだ。それは、あの人が何者なのかを問うてはいる。けれど、あの人が人を殺した、とまでは一言も言っていない。生まれと、語られない過去と、住み込みの仕事。それだけで誰かを犯人だと指させば、私たちはまた、半分の答えで人を縊ることになる。——私は、それをいちばん恐れる」
半分の答え。私は口を閉じた。暁人の言うとおりだった。いま私が口にしかけたことは、まだ何の証もない、ただの組み立てにすぎなかった。私の、いちばんの悪い癖。それが、また頭をもたげていた。
「ただ」と、暁人は最後に言った。「確かめるべき場所が、一つ定まりました。あの人が、どこで生まれ、なぜ過去を語らず、なぜこの館にいるのか。——夜が明けて、この嵐がやんだら。私は、それを確かめます。あの人の、語られない来し方に、何が隠れているのかを」
私は、広間の隅をそっと見た。
真琴は、そこにいた。冷えた暖炉のそばで、背筋を伸ばして座っている。目を閉じているのか開いているのか、暗くてわからなかった。膝の上で両手が静かに重ねられていた。長年この館で玄三に仕えてきた手。茶を淹れ、灯台を守り、誰にも会わずに生きてきた手。——その手のことを、私は何も知らなかった。あの女がどこから来て、何を抱えて、なぜここにいるのか。何一つ。
七尾という名。それは、暁人の言うとおり、ただの土地の名にすぎなかったのかもしれない。けれど、その空振りの名が、かえって、一人の女の輪郭を、暗がりからくっきりと浮かび上がらせていた。岬の生まれでありながら、その来し方を語らず、加害者の館にひとり入り込んだ女。
——けれど、と私は思い直した。私はまた、一つの顔に何もかもを結びつけようとしているのではないか。あの女に何か秘密があるとしても、それがいま起きていることのすべてとつながっているとは限らない。この館は広い。閉ざされた部屋も、暗い区画も、いくらでもある。私たちの知らない誰かが、その奥のどこかにひそんでいないと、どうして言いきれるだろう。——目の前のあの女なのか。それとも、まだ姿を見せぬ、別の誰かなのか。その答えは、まだ私には分からなかった。
灯は、なお回っていた。七尾の灯。七つの岩を照らすために、百年前にともされた光。死んだ主の頭上で、その古い名のとおりに、ぐるりぐるりと夜を守って。七尾。七つ。——私の中で、またあの数がひそかに頭をもたげはじめていた。




