疑心の夜
広間の扉に、また卓を寄せた。
灯室から降りてきて、私たちは何も言わずにそれをした。重い天板を引きずる音が、石の床に長く尾を引いた。さっきまでは、塔の上の玄三に見下ろされながら、この扉を閉ざしていた。いまは違う。玄三はいない。あの影の主は、ずっと前から死んでいた。私たちが閉め出そうとしている相手は、もう外にはいない。この部屋の中の、誰かなのだ。
五人。私と暁人。保科。史奈。そして真琴。卓を囲んで座っても、誰も互いの顔を正面から見られなかった。見れば、そこに犯人を探してしまう。探して、見つけてしまうのが、恐ろしかった。
暁人だけが、まっすぐ前を見ていた。膝の上で指を組み、何かをひとつずつ頭の中で並べ替えているようだった。やがて彼は、低く口を開いた。
「最初から、読み違えていた」彼は言った。「私たちは今夜のことを、起きた順に並べて考えていた。柚原さんが死に、鵜飼さんが死に、最後に玄三さんが死んだ、と。だが違う。玄三さんは、いちばん最初に死んでいた。日が暮れて、私たちがこの館に閉じ込められるよりも前に。——順番が、丸ごと裏返る」
「裏返ると、どうなるんです」私は訊いた。
「今夜のアリバイが、ぜんぶ崩れる」暁人は静かに言った。「玄三さんが二十時に死んでいたのなら、私たちがひと晩じゅう窓に見ていたあの影は、誰かが作ったものだ。死体を据えて、灯で動かして見せた。それをやった者は、この館の中にいる。そしてその者は、私たちが死んだ男の影に怯えるのを、すぐ隣で、平気な顔で見ていた」
すぐ隣で。私はぞくりとして、つい両隣を見た。右に史奈、左に保科。その向こうに真琴。誰の顔も、いつもと変わらないように見えた。変わらないことが、いっそう怖かった。
「鵜飼さんのときも、そうだ」暁人は続けた。「あの仕掛けは時計仕掛けだった。錘が落ちる時刻に、仕掛けた者がその場にいる必要はない。柚原さんの火事も同じだ。火がついて私たちが別棟に駆けつけたのは、九時過ぎ。それより前——日が暮れてから九時過ぎまでのあいだ、誰がどこにいたか、私たちは互いに、ほとんど見ていない。みな、てんでに館の中を動いていた」
私はその時間を、頭の中でたどった。晩餐が済んで、めいめいが部屋に引き取り、玄三が灯のそばへ発って。あの、ばらばらだった時間。たしかに私は、そのあいだ、誰のことも、ずっとは見ていなかった。
「では」と保科が、かすれた声で言った。「その時間に、玄三さんと最後に一緒におった者が——」
言いかけて、保科は口をつぐんだ。その目が、ひとりでにある方を向きかけて、あわてて伏せられた。私にはわかった。玄三を灯室まで送っていったのが誰だったか。この場の全員が、それを見ていた。
真琴だった。
暁人も、それに気づかぬはずはなかった。けれど彼は、真琴の名を呼ばなかった。代わりに、誰にともなく、こう言った。
「玄三さんを灯室まで送り、最後にそのそばにいた者。灯台の鍵を持ち、機構室にも灯室にも入れる者。今夜その気になれば、これだけのことができたかもしれない者は——たしかに、いる」彼はそこで言葉を切った。「だが、機会があることと、やったということは、違う。その人に、玄三さんや鵜飼さんを、こんなふうに殺してまわる理由が、私には見えない。理由のない機会は、まだ誰のことも指さない」
理由。動機。暁人はそこで止まった。長年この館に仕え、玄三に目をかけられてきた管理人が、なぜ主を殺すのか。なぜ、見も知らぬ客たちまで、唄のとおりに屠っていくのか。その問いに答えが見つからないかぎり、暁人は誰も指さないつもりだった。半分の答えで人を縊らせない。それがこの人の、頑なな流儀だった。
真琴は、その間ずっと静かに座っていた。やがて、暁人のほうへわずかに顔を向けた。
「お訊きになりたいことが、おありのようですね」真琴は言った。温度のない声だった。
暁人は彼女を見た。「一つだけ。鵜飼さんは、なぜ夜半に機構室へ行ったのでしょう。あの部屋へ、わざわざ一人で」
「玄三様の、お言いつけです」真琴は答えた。「夜半に機構の様子を見てほしい、と鵜飼様にお伝えするよう、言付かっておりました」
「いつ、言付かったのですか」
「晩餐の、終わるころでございます」真琴の声に淀みはなかった。「席を立たれる前に。——あのときは、玄三様はたしかに生きておいででした」
たしかに生きておいででした。私はその言い方に寒けを覚えた。死んだ玄三の名で、鵜飼は機構室へ呼び出され、落ちてくる錘の下で死んだ。けれど真琴は、自分はただ生きていたころの玄三の言葉を伝えただけだと言う。それを嘘だと示すものは、何もなかった。玄三は死んでいて、もう何も言えない。いつ、誰に、何を命じたのか。確かめる手立ては、どこにもなかった。
「……結構です」暁人は静かに言った。それ以上、彼は何も訊かなかった。訊いても確かめようがないと、わかっていたのだ。
その沈黙を破ったのは、史奈だった。
「あたしじゃない」彼女はふいに甲高い声で言った。膝の上で両手を握りしめている。「みんな、あたしを見てる。そうでしょう。兄さんが死んで、二十年前を知ってる者で生きてるのは、もうあたしだけ。だから、あたしがみんなを——そう思ってるんでしょう」
誰も答えなかった。答えないことが、答えのようだった。
史奈の言うとおりだった。網代も室戸も柚原も鵜飼も、そして玄三も死んだ。二十年前のあの罪を分け合った者で、まだ息をしているのは史奈ただ一人。仲間が一人減るごとに、その秘密を知る者が減っていく。誰よりも得をするのは誰か。その筋道は、まっすぐに史奈を指していた。
「あたしに、何ができるっていうの」史奈はすがるように言った。その声が震えた。「灯台の仕掛けなんて、あたしは何も知らない。あの重たい錘をどうやって落とすのか、影をどうやって作るのか、あたしにわかるとでも。あたしはずっと帳面をつけてきただけよ。金の計算だけ。それだけで、二十年——」
言葉がそこで途切れた。史奈は両手で顔を覆った。指のあいだから嗚咽が漏れた。けれど私は、その震える肩のどこかに、泣いているのとは違う色が、ちらりとよぎるのを見た気がした。怯えだけではない、何か。長いあいだ自分を縛ってきたものが一つずつ消えていくことへの——うまく言えない、昏い、安らぎのようなもの。すぐにそれは消えて、また怯えだけが残った。私は自分の見たものが信じられず、目をそらした。
真琴が、音もなく立って、冷めた茶を新しいものに替えていった。こんな夜更けにも、その手は少しも乱れていない。湯気の立つ茶碗を、一人ずつの前に置いていく。史奈の前にも、そっと。泣いている女を咎めるでも憐れむでもなく、ただいつものように。私はその横顔を、つい目で追った。長年この館にいて、誰よりも玄三の近くにいて、けれど私たちはこの人のことを、何ひとつ知らない。どこで生まれ、どこから来て、なぜここにいるのか。
——また始まった、と私は思った。確かめてもいないことを確からしく組み立てる、私の悪い癖。真琴がいくら静かでも、それは咎ではない。仕える主を失ってなお取り乱さないのは、この人の強さだ。そう自分に言い聞かせた。
けれどその夜、卓に伏せて浅くまどろみながら、私の頭の隅に、一つの名が、小さな棘のように引っかかって抜けなかった。
七尾真琴。
その名を、私はこの数日、何度も口にし、何度も書きとめてきた。なのにいまになって、ふいに耳慣れない響きに思えた。七尾。——七尾とは、いったい、どこの名だろう。いつから、この人の名だったのだろう。問いはかたちにならぬまま、嵐の音にまぎれてほどけていった。私はそれを、ただの寝ぼけた思いつきとして、明けきらぬ夜の底に置き去りにした。夜明けには、まだ間があった。




