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灯台守の娘  作者: よしお


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降りてくるもの

 火が消えても、夜は終わらなかった。


 私たちは、暁人の言うとおり、広間に集まっていた。暖炉に火を絶やさず、互いの顔の見えるところに。柚原の亡骸は、焼け跡の書斎に戸板をかけて、そのままにしてあった。動かす気力も、まともな弔いをする余裕も、もう誰にもなかった。ただ、嵐が過ぎるのを待つ。朝が来るのを待つ。それだけが、私たちにできることだった。


 けれど、固まっていても安心はなかった。むしろ逆だった。互いの顔が見えるということは、互いを見張り合うということでもあった。誰も口をきかない。物音がするたびにびくりとした。史奈は膝を抱えて震えている。暁人は壁を背にして、一人一人を静かに見ていた。この中の、誰か。その思いが、広間の空気を凍らせていた。


 鵜飼は、いちばん奥の椅子でうずくまっていた。火事のあと、ひと言もしゃべらない。膝の上で両手を固く握りしめ、その指がときおり、痙攣のように震えた。煤に汚れた顔は土気色だった。何かに耐えているようでも、何かを待っているようでもあった。私は、その姿からなぜか目を離せなかった。


 真琴が、茶を配って回っていた。音もなく、表情もなく。鵜飼の前でふと身をかがめ、何か低くささやいたように見えた。鵜飼が顔を上げた。けれど、それはほんの一瞬のことで、私は気のせいだと思った。茶を配っているだけだ。


 どれほどたっただろう。柱時計の針は、十一時に近づいていた。


 ふと気づくと、鵜飼の椅子が空いていた。


「鵜飼さんは」暁人が低く言った。広間を見回す。「いつから、いない」


 誰も答えられなかった。みな、自分のことで精一杯だった。隣の人間が、いつ立ったのかさえ見ていなかった。固まっていよう、と言ったそばから、私たちは一人を見失っていた。


 暁人の目が、真琴に向いた。「あなたは、さっき、鵜飼さんに何か耳打ちしましたね」


 私は、はっとした。気のせいだと思った、あの一瞬。暁人は、見ていたのだ。


 真琴は、表情を変えなかった。「……はい。玄三様から言付かっておりました。灯の回り方がおかしいので、技師の鵜飼さんに機構室を見ていただきたい、と。先ほど、それをお伝えしました」


 玄三が。私は、窓の外の灯室の影を見た。あの老人が、塔の上から鵜飼を呼んだ。灯の不調を見てくれと。灯台技師の鵜飼には、それは抗いがたい呼び出しだったのだろう。けれど。


「一人で行かせたのか」暁人の声が鋭くなった。「誰も一人になるな、と言ったはずだ」


 暁人は、もう駆け出していた。私も続いた。広間を出て、暗い廊下を渡り廊下のほうへ。蝋燭の灯りは、私たちの足では追いつかず、闇が先へ先へと口を開けていた。窓を、雨が叩く。風が、館じゅうの古い建具を、ひゅう、と鳴らす。機構室は、塔の足もとにある。灯台へ続く渡り廊下を抜け、塔の基部の重い扉の、その奥。真琴だけが鍵を持つ、灯台の心臓部。


 廊下を走るさなか、それは聞こえた。


 嵐の音にまじって、地の底から突き上げるような、鈍く重い音がひとつ。——金属の塊が、力まかせに何か硬いものを打ちつけたような。低く、重く、腹の底にこたえる音だった。一度きり。それきり、もう何も聞こえなかった。


 私の足がすくんだ。暁人が振り返った。その顔は青ざめていた。


 渡り廊下を抜け、塔の基部へ。機構室の扉は、閉まっていた。内側から。押しても引いてもびくともしない。閂が下りている。


「鵜飼さん!」暁人が扉を叩いた。「いるなら、返事を!」


 返事はなかった。扉の向こうは、しんと静まり返っていた。さっきの、あの重い音のあとの、底のない静けさ。私は、その静けさが何を意味するのか、考えたくなかった。


 暁人と保科が、扉に肩をぶつけた。何度も。痩せた暁人ひとりではびくともしない。けれど、日に灼けた保科が体ごとぶつかり、二人で代わる代わる打ちつけ、廊下の燭台の鉄の台座をてこにこじ入れると、古い樫が軋みはじめた。やがて、閂を受ける留め金が、腐りかけた木からめりめりともげた。扉が内へ開いた。


 中の光景に、私は息を呑んだ。


 機構室は、灯台の心臓だった。天井から太い鎖が垂れ、大きな歯車がいくつもかみ合っている。その歯車の一つが、いまもゆっくりと回っていた。かすかな、規則正しい音を立てて。灯台は生きている。レンズは、まだ回り続けている。


 けれど、その機械の足もとに。


 鵜飼が倒れていた。操作盤の前。うつ伏せに。その頭から背にかけて、黒い鉄の塊がのしかかっていた。大きな、円い錘だった。灯台の機構の、部品の一つ。それが梁の上から落ちて、鵜飼を打ち砕いていた。


 もう、声をかけるまでもなかった。


 鵜飼。海から逃げ、灯台から逃げ、二十年、時計の音に囲まれて生きてきた男。その灯台のふもとへ、自分から戻ってきて、こうして灯台の錘に打ち砕かれた。——つい先刻、この男は、玄三を連れてこようと言い出した。言い出しておきながら、足が一歩も動かなかった。あれほど塔へ行くのを恐れていた男が。なのに、いまは、たった一人でその塔の底へ降りて、死んでいる。誰かに呼ばれて。逃げ場のないこの館の中で、彼は最後まで、逃げようとして逃げられなかった。


 むかしの重し、するすると、降りてくる。——唄の六番。私の頭の中で、その一節が鳴った。重しが降りてくる。落ちてくる。そして、人を押し潰す。唄は、また、そのとおりになぞられていた。網代。室戸。柚原。そして鵜飼。四人。残るは、ただ一つ。七番。灯の主。


 暁人は、青ざめた顔で、しかし、その目だけは鋭く、室内を見回していた。


「妙だ」と彼は言った。けれど、それはもう何度目かの「妙だ」だった。今度のは、これまでとは桁が違った。「この部屋は、内側から閂が下りていた。私たちが破って入った。——つまり鵜飼さんは、自分で中から閂を下ろして、一人ここにいた。そして、錘に打たれた。誰も入れない部屋で。誰の手も届かない部屋で」


 誰も入れない部屋で。私はぞっとした。それでは、まるで。


「事故、でしょうか」と私は言った。「古い機構だ。錘が、何かのはずみで落ちて」


「そうであってくれれば、と思います。——けれど」暁人はしゃがみ込み、その錘と、垂れ下がった鎖をじっと見ていた。やがて、落ちた錘のすぐそばの、床の一点を指でなぞった。何か白い、糸のようなものの燃え残り。そして、かすかな灰。焦げくさい、けれど火事とは違う、もっと細い、香のような匂いが、そこに残っていた。


「これを」暁人は、指先に、黒く焦げた細い糸の端をつまみ上げた。「テグスです。釣り糸の。切れたのではない。焼き切れている。先が焦げて、縮れている。何かが、ゆっくりと、この糸を焼いた」


 焼き切れた糸。私には、その意味がまだわからなかった。


「そして、これは香の灰だ」暁人は、床の細い灰の筋を見た。「渦を巻いて燃える香。長い時間をかけて、端から端へ燃えていく。蚊取り線香のような。それが、この糸のすぐそばで燃え尽きていた」


 彼は立ち上がり、落ちた錘から梁の上へ目を走らせた。それから、内側の閂と、そこから伸びる細いワイヤーの、擦れた跡を見た。


「わかりますか、真壁さん」暁人は声を落とした。私にだけ。「この錘は、ひとりでに落ちたのではない。誰かが、この錘を、そこの巻き上げの仕掛けで梁まで引き上げておいた。そして、落ちないように留めた掛け金を、この細いテグスで引いて止めておいた。——糸が支えていたのは、錘そのものではない。外れ止めの掛け金、ただ一つだ。だから、こんな細い糸で足りる。その糸のそばに、火をつけた香を置いた。香は長い時間をかけて燃え進み、やがて糸を焼き切る。糸が切れれば、掛け金が外れ、錘が落ちる。——時計仕掛けです。仕掛けた者が立ち去った、ずっとあとで、ひとりでに動く」


 仕掛けた者が、立ち去ったあとで。私は、その言葉の底にあるものに気づきかけて、ぞっとした。


「では、犯人は」と私は声を震わせた。「この錘が落ちたとき、ここにいなくても」


「いなくて、よかった」暁人はうなずいた。「どこか別の場所で、誰かと一緒にいても。——いや、むしろ」彼は、そこで言葉を切った。その先を言わなかった。けれど、その目は、何か恐ろしいことを考えていた。むしろ、何だというのか。私には、その先が聞けなかった。


「閂も、同じだ」暁人は、内側の閂を指した。「この錘が落ちる、その同じ落下が、このワイヤーを引いて、内側の閂を下ろした。鵜飼さんが自分で閂を下ろしたのではない。錘の落下が、人を殺すと同時に、部屋を閉じた。一つの仕掛けで、殺しと密室とを、いっぺんに」


 保科が、その機構を呆然と見上げていた。あれほど見たがっていた、回光灯台の心臓部。重錘式の、時計仕掛け。それを、ようやく目にした場所が、人の死の現場だった。「……こんな、立派な機械を」彼は、かすれた声でつぶやいた。「こんなもんに、使うやなんて」その横顔から、いつもの、たまらんですなァ、は消えていた。


 その間も、機構室の歯車は、ゆっくりと回り続けていた。落ちた錘は、機構の主軸とは別の、予備の錘だったらしい。それが落ちても、灯台の回転は止まらなかった。だから、灯は乱れなかった。だから、館の窓から見える灯室の、玄三の影も、いまも十五秒ごとに同じ動きを繰り返している。あの老人さえ、塔の上で、何ごともなく灯のそばにいる。


 思えば、ひと晩じゅう、灯は一度も乱れなかった。狂いもせず、消えもせず、十五秒ごとに海をなでてきた。それは、塔の上に、灯を守る者がずっといた証のように見えた。下で書斎が燃え、人が二人死んでも、灯は平然と回り続けた。あの玄三でさえ、この死には関わりようがない。——そう、思えてしまうのだった。


 全員が、広間にいた。鍵のかかった心臓部。内側から閉じられた密室。なのに、人が死んだ。いったい、誰に、こんなことができたのか。


 固まっていれば守れると思った。互いの顔の見えるところに、と。——けれど犯人は、その輪の中から、平然と一人を釣り上げた。塔の上から届いた、灯を見てくれという、ただ一つの呼び出しで。鵜飼を、闇の底へ。私たちが身を寄せ合い、震えている、その目と鼻の先で。塔の上には、玄三がいる。あの、底の見えない目をした老人が。


 史奈が、扉の外で、声を殺して泣いていた。眼鏡を外し、両手で顔を覆っている。網代。室戸。柚原。鵜飼。二十年前、玄三のもとで一つの罪を分け合った者たちが、一人また一人と消えていく。残された共犯者は、もう、この女と、塔の上の玄三だけだった。次は、自分かもしれない。その恐怖が、史奈の痩せた肩を、絶え間なく震わせていた。


 ふと、私は思い出した。この機構室に入れるのは真琴だけだと、玄三が言っていた。鍵も、巻き上げも、ぜんぶ。——けれど、すぐに打ち消した。鍵がどうあれ、この部屋は内側から閂が下りていた。中には鵜飼しかいなかった。鍵の話など、何の意味もない。そう思おうとした。けれど、その小さな引っかかりは、また私の中に残った。


 暁人は立ち上がり、窓のない、その石の部屋を見回した。それから、低く言った。


「六番まで来た。残るは、七番。灯の主だ」


 灯の主。私たちは、誰からともなく塔の上を見上げた。この石の天井の、ずっと上。嵐の夜空に突き出した、灯室。そこに、玄三がいる。最後の、一人。——あるいは、最後の獲物。あるいは。


 あるいは、すべてを仕組んだ、その人が。


 私には、もう、どちらともわからなかった。回り続ける歯車の音だけが、その石の部屋に、低く響いていた。


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