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灯台守の娘  作者: よしお


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28/48

業火

 書斎は、母屋から短い廊下でつながった別棟にあった。その廊下の先が、赤かった。


 煙が廊下に満ちはじめていた。私たちは袖で口を覆い、身をかがめて走った。暁人が先頭だった。書斎の扉は半ば開いていた。その隙間から、橙色の光と熱風とが吹き出していた。


 中は、火の海だった。


 古い書斎だった。三方の壁が天井まで作りつけの書棚で、ぎっしりと本が詰まっている。その紙の壁が、いま、ごうごうと燃えていた。火は書棚から書棚へ舐めるように広がり、天井を焦がしていた。熱が、扉の外まで波のように押し寄せてくる。


「柚原さん!」暁人が叫んだ。煙の奥へ目を凝らす。「中にいる」


 火明かりの中、部屋の中ほど、大きな机のそばに、人が倒れていた。柚原だった。床にうつ伏せに。動かない。その周りにも、もう火が回りかけていた。


 暁人が上着で顔を覆い、踏み込もうとした。けれど熱と煙が、それを押し返した。一歩で、もう進めなかった。「だめだ……近づけない」


 私たちはただ、その熱に押し戻されるしかなかった。手の届くところに、人が倒れている。なのに火がそれを許さない。書斎じゅうの本が燃料だった。古い紙は、よく燃えた。頁のはぜる音が、ぱちぱちと闇に弾けた。


 そのとき、横から、水を張った大きな手桶が差し出された。真琴だった。いつのまに用意したのか、濡らした厚い布と水とを、次々に運んでくる。「こちらを、お使いください」その声は、火事のただ中でも奇妙なほど落ち着いていた。


 男たちが水をかけ、濡れ布で叩いた。鵜飼まで、青い顔で桶を運んだ。古い館の、石造りの厚い壁が幸いした。火は書斎の中で荒れ狂ったが、隣へは容易に移らなかった。やがて長い格闘のすえ、炎は勢いを失っていった。


 どれほどそうしていただろう。みな、煤と汗にまみれ、咳き込み、肩で息をしていた。水は何度も汲み直され、廊下を手から手へ運ばれた。腕が上がらなくなるころ、ようやく最後の炎が、濡れた布の下で、じじ、と音を立てて息絶えた。


 火が鎮まったとき、書斎は黒い洞のようになっていた。焼け焦げた紙の匂いと、白い煙とが立ちこめている。そして、その焼け跡の中ほどに、柚原が倒れていた。


 もう助からないのは、ひと目でわかった。火は、人を人でないものに変えていた。私はとっさに目をそらした。それでも、それが柚原だとわかった。つい先ほどまで、生きて喋っていた人だと。


 私は口を手で覆った。昼から酒を呷り、自嘲し、二十年前に焼いた原稿を悔いていた男。俺はとっくに死んでいる、原稿を焼いたあの晩から。そう言って力なく笑った、あの男が——いま、火に焼かれて死んでいた。


 つい先刻、この同じ広間で、柚原は卓を叩いて叫んでいた。本当のことを書いたのに焼いた、活字にしておけばよかった、と。二十年抱え続けた悔いを、ようやく声にした。——その口が、いま、永遠に閉ざされた。彼が焼いて、それでも覚えていた、たった一つの真実も、もう誰にも語られない。火に焼かれた男と、火に焼かれた記事。書こうとして書けなかった言葉は、二度、灰になった。


 私は、ものを書くことを仕事にしている。柚原はいつか私に言った。守るものができたとき、お前は書けるか、火鉢に原稿をくべずにいられるか、俺を笑えるか、と。私は笑えなかった。あのとき、笑えなかった。そして今も、笑えないまま、その柚原を焼け跡の中に見ている。書くことから逃げた男の、行き着く果て。けれど彼は、最期に逃げはしなかった。書いておけばよかったと悔いた。悔いることだけはした。——その悔いごと、火が消してしまった。


 火。唄の五番。灯は赤々と燃え立ちて、夜を照らす。明るく燃え立つ火。私は震えた。唄が、また一つなぞられた。今度は、この鎖の内側で。逃げ場のない、孤立した館の中で。


 網代も室戸も、外で一人ずつだった。けれど、これは違った。私たちがみな一つ屋根の下にいる、その中で起きた。——犯人は、この館の中にいる。いま、この焼け跡を囲んでいる、誰かの中に。


 それに——柚原は、ついさっき広間で玄三を指さした男だった。殺してるのはあんただ、と。その当人が、糾弾した同じ夜に、こうして焼け死んでいる。口を開いた者から消されていく。私の中で、玄三という名が、また黒く大きくなった。


 暁人は、焼け跡のそばに片膝をついていた。煤に汚れた顔で、柚原の亡骸をじっと見ている。その目は、悲しみよりも、何か別のものに険しく尖っていた。


「妙だ」と、暁人は低く言った。私にだけ聞こえるように。


「妙、とは」


「火が出れば、人は逃げる」暁人は言った。「酔っていても、煙に巻かれても、戸口へ、窓へ、這ってでも逃げようとする。それが生き物だ。——だが柚原さんは、座っていた場所からほとんど動いていない。机のそばに、崩れるように。まるで、火が出たとき、もう動けなかったかのように」


 動けなかった。私はその言葉にぞっとした。


「酔って眠っていた、ということですか」


「あるいは」暁人は声を落とした。「火がつく前に、もう息がなかったか」


 火に焼かれて死んだのか。死んでから焼かれたのか。——その境目に、すべてがかかっていた。


「火に巻かれて死んだ者は、煙を吸う」暁人は続けた。「喉にも肺にも、煤が入る。苦しんで息を吸った証だ。——だが、焼ける前にもう死んでいたなら、煤は入らない。息をしていないのだから。柚原さんの喉に、煤があるかないか。それを検めれば、わかる」


「では、調べれば」


「調べる者がいない」暁人は苦く言った。「医者は室戸さんだった。その室戸さんは、もういない。この岬は、嵐で閉じられている。警察も来られない。——柚原さんが生きて焼かれたのか、殺されてから焼かれたのか。それを検める手立ては、いま、この孤立した館にはない」


 私は慄然とした。検死のできる者を、先に消しておく。——もし、これがすべて一人の手によるものなら。その手は、この夜のために、ずっと前から邪魔な目を片づけてきたことになる。眠れぬ夜を生きていた、あの室戸の死が、ここで、こんなふうに効いてくるとは。


「事故よ」と、史奈が震える声で言った。「柚原さんは、酔ってランプでも倒したんだわ。事故に決まってる」——けれど、その声は、自分に言い聞かせる響きだった。誰もうなずかなかった。本に埋もれた書斎で、戸口のすぐ内側で、酔った男が逃げもせずに焼ける。それを、ただの不運な事故と信じられる者は、もう、この館に一人もいなかった。


 誰かが、玄三は、と言った。当主はどこだ、と。——みなの目が、窓の外へ向いた。嵐の闇の先、灯台の灯室に、あの影がまだあった。十五秒に一度、同じ動きで。あの老人は、塔の上で自分の灯のそばにいた。客が一人焼け死んだことも知らずに。あるいは——知っていて、降りてこないのか。私はその影を見ながら、また、説明のつかない寒けに襲われた。


 行って、玄三を連れてくるべきではないか。鵜飼が、かすれた声で言った。当主がこの始末を知らずにいるのは、おかしい、と。——けれど灯室は、渡り廊下を抜け、塔の細い段を上った、その先だ。嵐の夜に、あの暗い塔を上ろうという者はいなかった。それに、窓の向こうの影は、相変わらず灯のそばで動いている。無事なのだ。報せは後でいい。——誰もが、そう思いたがった。


 けれど、誰も口にしない、もう一つの理由が、その場には澱んでいた。——もし、柚原を手にかけたのが玄三だとしたら。あるいは玄三の差し金だとしたら。あの灯室は、いま、この館でいちばん近づいてはならない場所だった。嵐に閉ざされた塔の上に、たった一人でいる灯の主。次に消されるのが自分かもしれない者が、その手の届くところへ、暗い塔を上ってのこのこ身を運ぶ。——そんな真似が、できるはずもなかった。げんに、行くべきだと言い出した鵜飼でさえ、その口とは裏腹に、足は床に貼りついたように、一歩も動こうとしなかった。


 火を告げる声が上がったのは、九時を回ったころだった。火の起きたあいだ、誰がどこにいたのか。考えてもわからなかった。会が解散してから、私たちはめいめいに散っていた。私と保科は最上階に。暁人は渡り廊下のほうに。史奈と鵜飼は広間に。玄三は灯室へ。真琴は、館のどこかで客の世話を。誰もが、ばらばらだった。火を告げる声が上がるまで、誰が誰の姿をはっきり見ていたわけでもない。つまり、柚原が死んだその短い間に、確かなことを言える者は、この館に一人もいないのだった。


 いや——一つだけ、確かでないものを、私は見た気がした。火と格闘している最中、水を汲みに母屋へ走り戻ったときだ。誰もいないはずの廊下の奥、客間の並ぶ暗がりで、何かが動いた。嵐の音にまぎれた、足音とも家鳴りともつかない、かすかな軋み。私は手桶を提げたまま、一瞬、足を止めた。けれど火を告げる声にすぐ呼ばれて、また走りだした。この広い館は、嵐の夜にはどこもかしこも軋み、揺れる。きっと、その類だ。そう思って、私はそれきり気にも留めなかった。


 真琴は、もう焼け跡の片づけを始めていた。煤を払い、焼け落ちたものを静かにまとめている。その横顔には、火事のあいだも、いまも、ひとかけらの動揺もなかった。火を告げる声に応じて水を運び、布を配り、そして今、後始末をしている。誰よりもよく働いていた。忠実な管理人として。——私はその背を見ながら、ふと思った。火が出たとき、この人はどこにいたのだろう。けれど、すぐに打ち消した。あの混乱の中で、誰の居場所を私が言えるというのか。それこそ、確かめてもいないことを不吉に組み立てる、あの癖だ。


 鵜飼が、焼け跡の入口で、棒のように突っ立っていた。煤と水に汚れた顔から、血の気が引いている。彼は、柚原の亡骸を、見られないというふうに目をそらしていた。その唇が、かすかに震えている。——あの男は二十年、灯台と同じ仕掛けに囲まれて、海から逃げ続けてきた。その灯台のふもとへ、自分から戻ってきて、そして今、かつての仲間が一人また一人と消えていくのを見ている。鵜飼の目には、もう明日を見ていない者の色があった。次は自分だと、わかっているような。


「今夜は、誰も一人になってはいけません」暁人が、皆に向けて静かに言った。「広間に固まっていましょう。火を絶やさず、互いの顔の見えるところに。朝まで、それだけは」


 誰も異を唱えなかった。けれど、その言葉には奇妙な棘があった。互いの顔の見えるところに。——その「互い」の中に、犯人がいる。私たちは、身を寄せ合うことで身を守ろうとしている。その輪のすぐ隣に、網代を、室戸を、柚原を手にかけた手が、あるかもしれないのに。顔を寄せ合いながら、誰も互いの目を、まっすぐには見られなかった。


「五番まで来ました」暁人が、焼け跡を見つめて言った。「残るは、六番と七番。落ちる重しと、灯の主だ。——犯人は、もう隠そうともしていない。外での事故や自殺とは違う。これは見せている。唄のとおりに、この館の中で、一つずつ。止められるものなら止めてみろ、と」


 止められるものなら。私は、焼けた書斎の黒い洞を見つめた。残り二つ。落ちる重しと、灯の主。次は誰の番なのか。そして、それを私たちは止められるのか。——唄は、もう五番まで来ている。あと二つ歌われれば、この岬の灯は消えて、朝が来る。数えて七つ、灯消えて朝が来る。その結びの一節が、頭の奥で低く鳴っていた。犯人は、いま、この同じ屋根の下で、残りの二つを、すでに胸の中で数えているのだ。煙の匂いの中で、私はただ立ち尽くしていた。


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