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灯台守の娘  作者: よしお


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27/48

回る光の下で

 玄三が灯室へ立ってからも、広間の空気は重いままだった。


 柚原は、あれきり口をきかなかった。両手で顔を覆い、しばらく肩を震わせていたが、やがてよろめくように立ち上がった。誰にともなく「酔いをさます」と呟いて、広間を出ていった。引き止める者はいなかった。みな、自分のことで精一杯だった。史奈は暖炉のそばで指を組み、鵜飼はうつむいたまま動かない。暁人は、渡り廊下の入口のあたりを、何か確かめるように見ていた。一人また一人と、この孤立した館の中に散っていく。その散らばりが、なぜか私の胸を騒がせた。狭い檻の中で、めいめいが背を向け合っている。その背の一つ一つが、無防備に見えた。


 じっとしていられなかった。私は広間を出て、階段をのぼった。


 保科が、さっき言っていた。最上階の広間の窓からは、灯室の中が正面に見える、と。玄三が、いま、そこにいる。その姿をひと目、確かめておきたかった。なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。ただ、あの老人が本当に灯室にいるのか、この目で見ておきたかった。柚原が「殺してるのはあんただ」と指さした、その当人が、こんな夜にたった一人で灯のそばにいる。そのことが、どうしても落ち着かなかった。


 最上階の広間は、暗く冷えていた。


 ほかの階より、ひとまわり狭い部屋だった。使われていないらしく、古い長椅子や、布を被せた家具が、闇の中にうずくまっていた。けれど、海に面した壁の一面だけが、大きな硝子窓になっていた。その窓のほうへ、一脚の古い肘掛け椅子がぽつんと据えてあった。座れば、ちょうど灯台を正面に見られる位置に。誰かがここに座って、長いあいだ灯を眺めたのだろう。代々の当主が、この椅子から自家の灯を見守ってきたのかもしれなかった。灯を、家から見守るための部屋。保科の言葉がよみがえった。この館は、灯台を見るために建てたようなものだ、と。


 先客がいた。保科だった。大きな窓に張りつくようにして、岬の先の灯台を眺めている。私の足音に振り返り、嬉しそうに手招きした。


「真壁さん。見てごらんなさい。たまらんですわ」


 私は窓辺に並んだ。


 硝子の向こう、嵐の闇の底に、灯台が立っていた。そして保科の言ったとおりだった。この窓から、灯室の中が正面に見えた。ほとんど同じ高さに。海ぎわの低地に立つ塔の、その先端の灯室が、丘の上のこの窓とちょうど釣り合っていた。あいだを隔てるのは、雨に煙る四十メートルばかりの闇だけだった。


「なぁ、ちょうど目の高さやろ」保科は声をはずませた。「灯台ちゅうのは、たいてい見上げるもんや。麓から首が痛うなるほどな。それが、ここからは真正面や。灯室をこんなふうに横から覗ける家なんぞ、めったにない。よほど灯が好きで建てたんやろなぁ、ここの先祖は」


「それにな」保科は、闇の中の灯を見つめたまま続けた。「灯台ちゅうのは、不思議なもんですわ。沖をいく船からしたら、あの光は帰り道のしるしや。あれを目あてに、暗い海を港まで戻ってくる。命綱ですわ。——けど、灯ちゅうのは、置く場所ひとつ、向きひとつで、船を岩に誘い込むこともできる。昔は、わざと偽の灯を焚いて、船をおびき寄せて難破させた連中もおったっていいます。沈んだ荷を、かっさらうためにな」


 偽の灯。私はどきりとした。保科は、何も知らずに言っているのだった。けれどその言葉は、私がこの岬で追ってきたものの芯を、無造作に撫でていた。


「物騒な話やろ」保科はあっさり笑った。「まあ、昔話ですわ。今どき、そんなことする者はおらん。——でもな、せやから言うんです。灯ちゅうのは、嘘がつけるんや、と。正しく導きもするし、人を欺きもする。同じ一つの灯が。それを決めるのは灯やない。灯を握っとる、人間のほうですわ」


 灯は嘘をつける。それを決めるのは、灯を握る人間。——暁人の口癖がよみがえった。光は嘘をつかない、嘘をつくのは光を語る人間だ。同じことを、この陽気な灯台好きが、別の言葉で言っていた。私は、闇の中で回り続ける光を、あらためて見つめた。あれも嘘をつけるのだろうか。あの正しく回る、几帳面な灯も。


 灯室の中は、明るかった。光源がずっと点いているのだ。その明るい灯室の中で、レンズが回っている。十五秒に一度、束ねられた光がこちらを向き、ぱっと閃く。閃いては、また十五秒。閃光の合間も、灯室そのものはほのかに明るいままだった。保科が前に話したとおり、光源は消えず、回っているのはレンズだけ。だから灯室の内はいつも仄明るく、その中の様子が闇に浮かんで見えた。


 そして、その明るい灯室の中に、人影があった。


 玄三だった。背の曲がった、痩せた影。灯のそばに立って、身じろぎしている。生きている。あの老人は、ちゃんと灯室にいる。私はなぜか、ほっとした。柚原の言葉が、史奈の怯えが、私の中に、知らぬまに不吉な像を結んでいたらしかった。けれど玄三は、こうして自分の灯のもとにいる。誰を手にかけるでもなく、ただ一人きりで、灯のそばに。そう思うと、さっきまでの自分の疑いが、少し恥ずかしくもあった。


「好きなんですなぁ、灯が」保科は、しみじみと言った。「この嵐の中、客をほったらかして、灯のそばへ行ってしもた」


「灯の、番でしょうか」私は訊いた。「でも、ここはもう、灯台守はいないと聞きました。今は機械で、ひとりでに回っているのだと」


「ええ、そのとおりですわ」保科はあっさりうなずいた。「今どきの灯台に、住みこみの番人なんぞおりません。日が落ちたら、勝手に灯がともって、夜どおし機械が回す。世話の人が、たまにのぼって、錘を巻いて、機械に油さして、硝子を拭く。それくらいでね。つきっきりの番なんぞ、もう、どこにもおりませんわ」


「では、玄三さんは、なぜ」


「灯のそばに、おりたいんやろなぁ」保科は、わかるなァ、という顔をした。「機械が回そうが、あの人にとっちゃ自分の灯や。百年、家で守ってきた灯ですわ。こんな夜に、客から妙な因縁つけられて——一人になりたなる。灯のそばちゅうのは、灯台の人間には、いちばん落ち着く場所ですわ。わしにも、わかる気がします」


 灯のそばにいたい。一人になりたい。——柚原に「殺してるのはあんただ」と指さされた、その直後だった。あの誇り高い老人が、客間にも広間にも戻らず、塔のてっぺんの、自分の灯のもとへ引きこもる。それは、いかにもありそうなことに思えた。


 私は、その人影をしばらく見ていた。


 十五秒に一度、光が閃く。そのたびに、玄三の影が、窓を横切るようにすっと動く。灯のそばで身じろぎしているのか。行きつ戻りつしているのか。けれど見ているうちに、私の中で、何かが小さくざわついた。


 その動きが、いつも同じなのだ。


 光が閃く。影が動く。また閃く。また動く。その影の動きが、毎回、寸分も違わなかった。同じ向きに、同じ速さで、同じ形に、すっと流れる。十五秒ごとに、判で押したように。


 私は息を詰めて数えた。一閃、二閃、三閃。そのどれもが、まったく同じだった。人が身じろぎするとき、同じ動きをこうも正確に繰り返せるものだろうか。灯のそばに立っているなら、ふと窓の外へ目をやったり、肩を落としたり、向きを変えたり、その姿はそのたびに少しずつ違うはずだった。立ち止まって、じっとする間もあるだろう。けれど、あの影は違わなかった。一度として。休みもせず、迷いもせず、十五秒ごとに、同じ姿勢で、同じ軌跡をなぞるように動いた。


 機械のように。


 その言葉がなぜ浮かんだのか、わからなかった。背筋を、冷たいものがすっと撫でた。私は目を凝らした。けれど、嵐の闇と、雨に濡れた硝子と、四十メートルの距離とが、影の細部を押し潰していた。輪郭しか見えなかった。その輪郭が、ただ十五秒ごとに、同じ動きを繰り返していた。生きて動く人の、あのこまかな揺らぎが、そこにはなかった。


「保科さん」私は声をひそめた。「あの影、変だと思いませんか。動きが……毎回、まったく同じで」


「同じ?」保科はきょとんとした。それから、また窓に目を戻し、しばらく眺めた。「さあ……嵐で、ようは見えませんからなぁ。雨で、硝子も流れとる。それに、この距離や。——灯のまわりは、ことにあてになりません。あの回る光は、目をだますんですわ。ちらちらするもんやから、止まっとるものまで、揺れて動いて見えたりする。気のせいと、ちゃいますか」


 回る光が、目をだます。そう言われれば、そうかもしれなかった。雨に濡れた硝子。四十メートルの闇。ちらちらと回り続ける光。それが、ありもしない規則を私の目に見せているのか。私は自分に、そう言い聞かせようとした。けれど、あの寸分違わぬ正確さが、どうしても喉の小骨のように残った。揺れて見えるというには、あの繰り返しは、あまりにきちんとしすぎていた。確かめてもいないことを不吉なほうへ組み立てる、あの癖だ。私はそう打ち消そうとした。暁人がここにいてくれたら、と思った。あの人なら、この、言葉にならない違和感の正体を、すくいとってくれるかもしれなかった。


 窓に映る自分の顔の向こうで、玄三の影が、また、すっと動いた。同じ姿勢で。同じ軌跡で。私はふと、別の考えにとらわれた。——この窓から灯室が見えるということは。この椅子に座れば、灯室の中で起きることが、何もかも見えるということだった。二十年前、灯台守の娘が、その灯室から落ちて死んだ。あのとき、もし、この部屋の椅子に誰かが座っていたら。その誰かは、灯室で何があったのかを、この目で見たことになりはしないか。灯を見守るための部屋は、灯室の死を見届ける部屋にも、なりうるのだった。


 ぞっとして、私は窓から一歩退いた。


 暁人を呼んでこよう、と思った。この影のことも、いま胸をよぎった考えも、あの人に話さなければ落ち着かなかった。確かめてもいない、ただの薄気味悪さにすぎないのかもしれない。けれど、薄気味悪さの一つ一つを、暁人は決しておろそかにしなかった。私は、窓に背を向けかけた。


 その背に、保科の暢気な声がかかった。


「おや、玄三さん、まだあそこに。よっぽど、灯がお好きや」


 振り返ると、灯室の影は、相変わらず十五秒ごとに、同じ動きを繰り返していた。休むことを知らない、寸分たがわぬ繰り返し。先ほどは、灯を慕う老人の姿に見えたそれが、いまは、ただ薄ら寒かった。あの影は、本当に何かをしているのだろうか。あの中で、玄三は、本当に——。


 そのときだった。


 階下で、悲鳴が上がった。


 女の声だった。史奈の声だ、とすぐにわかった。続いて、何かが倒れる音。誰かが叫んでいる。火だ、火が出た、と。私と保科は顔を見合わせ、窓辺を離れて階段へ走った。


 駆け下りながら、私は焦げくさい匂いに気づいた。煙の匂いだ。どこからか、ひと筋、流れてくる。広間の客たちが、廊下へ飛び出していた。みな、母屋の奥を指していた。渡り廊下の手前、書斎のある一棟。その窓の奥が、赤くちらついていた。


 廊下に出てきた顔を、私はとっさに数えた。史奈。鵜飼。暁人。保科は、私のすぐ後ろにいる。——柚原がいない。さっき、酔いをさますと言って、一人で出ていった柚原が。煙は、その一棟から流れてきていた。彼が向かったほうから。


 まさか、と思った。胸の奥が、すっと冷えた。


 火が、出ていた。


 唄の、五番。灯は赤々と燃え立ちて。その一節が、頭の中で鳴った。私は、人々の波に押されるようにして、赤い光のほうへ走った。背後の窓の向こうでは、灯台の灯が、何ごともないように、十五秒に一度、回り続けていた。そして、その明るい灯室の中で、玄三の影は、まだ同じ動きを繰り返しているはずだった。


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