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灯台守の娘  作者: よしお


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灯火を継ぐ会

 燈屋玄三が広間に現れたのは、嵐がいよいよ激しくなったころだった。


 扉が開き、七尾に支えられて、一人の老人がゆっくり入ってきた。広間の空気が、その瞬間に張りつめた。それまでぽつぽつと言葉を交わしていた客たちが、いっせいに口をつぐんだ。誰もがその老人を見た。畏れと緊張の混じった目で。


 七十を過ぎているはずだった。痩せて背が曲がり、杖をついている。手の甲に染みが浮き、首が襟の中で細く頼りなかった。——けれど、その目だけは別だった。落ちくぼんだ眼窩の奥で、黒い目が広間の一人一人をなめるように見ていく。長いあいだ、この岬を、この土地の人間を見下ろしてきた目だった。館にこもったきり、と聞いていた。けれど、こもっていたのは体だけで、この目はずっと、鎖の外を見張り続けてきたのかもしれなかった。


 燈屋玄三。この岬の半分を持つ家の当主。二十年前、灯台守の娘が死んだとき、この岬のすべてを握っていた男。——私がずっとその輪郭だけを追いかけてきた人物が、いま目の前に座ろうとしていた。


「よく来てくれた」玄三は、しわがれた、しかしよく通る声で言った。「わざわざ嵐の中を。——古い顔も、新しい顔も、揃ったようだ」


 古い顔。新しい顔。玄三の目が、鵜飼に、柚原に、史奈に、そして私たち三人に、順に向けられた。その目が、私と暁人の上でわずかに長く留まった。嗅ぎ回る物書きと、灯台の専門家。玄三は、私たちが何者か承知していた。承知した上で招いている。その目には、警戒も敵意もなかった。ただ、底の見えない静かな闇があるだけだった。


「この灯台も、わしも、もう長くない」玄三は、卓の上座について言った。「百年、燈屋家が守ってきた灯だ。わしの代で消すわけにはいかん。だが、わしにも、妹の史奈にも、子がない。燈屋家の血は、わしらの代で絶える。——この灯を、次の代へ誰が継ぐのか。よそに託すか、国に返すか、それとも消してしまうか。今夜は、それを皆で相談したい。長年、この岬に縁のあった皆と」


 史奈が、わずかに目を伏せた。子のない、と言われた一言に、何か思うところがあったのかもしれない。燈屋家は、この兄妹で終わる。百年、難破の海から富を引き上げ、灯を私してきた家が。——その最後の二人が、いま、この広間に揃っていた。


 灯火を継ぐ会。表向きは、そういう会だった。けれど、広間の空気は、とても灯台の相談をする集まりのものではなかった。誰もがこわばっていた。鵜飼はうつむいたまま、膝の上で手を握っている。柚原は、もう何杯目かの杯を呷っている。史奈は、指を組んだり、ほどいたり。——みな、灯台の話など聞いていなかった。別のことを考えていた。二十年前の罪のことを。そして、網代の、室戸の、相次ぐ死のことを。次は自分かもしれない、という恐怖を。


 私は、その空気の中へ、一つ石を投げてみることにした。


「燈屋さん」と、私は言った。形ばかりの会話が途切れた隙に。「二十年前、この灯台で、灯台守の娘さんが亡くなった、と聞きました。沖野燈里さん。——あの死のことを、覚えておいでですか」


 広間が、しん、となった。鵜飼がびくりと顔を上げた。柚原の、杯を持つ手が止まった。史奈の眼鏡がこちらを向いた。みな息を詰めて、玄三を見た。


 玄三は、しばらく私を見ていた。その黒い目は、何も変えなかった。


「……覚えとるよ」やがて、玄三は静かに言った。「気の毒な事故だった。灯台守の、上の娘がな。灯室から落ちて。——もう二十年も前の話だ。なぜ、今ごろそんなことを」


「あの死が、本当に事故だったのか。それを調べております」と、私は言った。


 玄三の目が、わずかに細くなった。怒りでも、動揺でもなかった。むしろ、何か面白いものを見るような、酷薄な光だった。


「事故だ」玄三は言った。「警察がそう言った。医者もそう言った。——あんたが二十年たって何をほじくり返そうと、事故は事故だ。変わりはせん」彼は、わずかに笑った。歯の抜けた、暗い笑いだった。「物書きさんよ。古いものを掘り返すのは、ほどほどにしておくことだ。掘り返した穴に、自分が落ちることもある」


 掘り返した穴に、自分が落ちる。——忠告とも、脅しともつかなかった。私は背筋に冷たいものを感じた。この老人は、二十年前のすべてを知っている。そして、いまもそれを握りつぶせると思っている。——やはり、この男か、と私は思った。網代を、室戸を、口封じに。告発状に怯えて、秘密を知る者を消している。すべての糸の中心に、この老人が。


 そこまで考えて、私はふと、暁人のあの言葉を思い出した。口を封じたいだけなら、なぜ唄なのか。過去をなかったことにしたい者と、過去を刻みつけたい者。向きが反対だ、と。——目の前の玄三は、明らかに前者だった。事故は事故だ、掘り返すな、と。なかったことにしたい者。けれど、あの見立て殺人は、後者の匂いがした。忘れさせまいとする執念の。私はまた、わからなくなった。この老人が犯人なのか。それとも、この老人もまた、何かに追われているのか。


 張りつめた空気を、暁人が灯台の話でほぐした。さすがに灯台のことになると、玄三もいくらか口が滑らかになった。やがて暁人は、機構室の話に水を向けた。


「ぜひ、あの機構室を拝見したいものです」暁人は言った。「重錘式の、時計仕掛け。あれだけのものが百年も動き続けている。灯台好きには、たまらない」


「機構室はな」玄三は、少し笑った。「もう、わしも何年も入っとらん。あの急な梯子は、この足では無理だ。あそこは真琴に任せてある。鍵も、巻き上げも、灯の世話も、ぜんぶな。——この館で、あの機構室に入れるのは、いまや真琴だけだ」


 機構室に入れるのは、真琴だけ。私はそれをノートに書きとめた。灯台の心臓部の鍵を、あの管理人が一人で握っている。——住み込みの管理人なら、当然のことだった。けれど、なぜか、その「真琴だけ」という言葉が、小さく引っかかって残った。


 史奈、と呼ばれた女が、玄三の妹だった。


 玄三より、ずっと若い。五十代の半ばだろう。神経質そうに眼鏡を光らせ、終始落ち着かなかった。燈屋家の金まわりを長く見てきた、と言った。経理を一手に。——海が人を呑むたびに栄えた家の、その富の出入りを、帳簿の上で整えてきた女。二十年前の罪の、金の側を握っていたのは、この女なのかもしれない、と私は思った。


 史奈は、誰よりも怯えていた。物音がするたびに、びくりと肩を震わせた。網代の死、室戸の死。仲間が一人、また一人と消えていく。次は自分かもしれない。——その恐怖が、この女の神経質な仕草のすべてに滲んでいた。けれど、その怯えの奥に、ときおり奇妙な別の色がよぎるのを、私は見た気がした。怯えだけではない、何か。それが何なのかは、わからなかった。


 給仕の合間に、七尾——真琴が、広間を出入りしていた。影のように、音もなく。私は史奈に、それとなく訊いてみた。あの管理人は、長くこちらに、と。


「さあ……数年前から、かしらね」史奈は、気もそぞろに答えた。「兄が、どこからか雇い入れたの。身元の確かな、よく気のつく人だ、と。——でも、私はあの人のことを、よく知らないわ。どこの生まれで、それまで何をしていたのか。訊いても、はぐらかされる。無口な人でね。気がついたら、この館にいた。それだけ」


 どこの生まれで、それまで何をしていたのか、わからない。気がついたら、館にいた。——私はその言葉も書きとめた。数年前に、どこからともなく現れて、この館に住み込んだ女。その前の経歴が、たどれない。


 広間の柱時計が、七時半を指していた。晩餐がすみ、形ばかりの相談もひと巡りすると、会はひとまずお開きになった。嵐はいっこうに収まらない。とても外へは出られない。客はそれぞれ、館の客間に引き取ることになった。


 部屋へ向かう前、私は暁人と、廊下の隅で短く言葉を交わした。


「玄三を、どう見ました」と、私は訊いた。


「あの男は、二十年前のすべてを知っている。それは間違いない」暁人は、低く言った。「掘り返すな、と言った。あれは知っている者の言葉だ。——だが、それと、あの男が犯人だということは、別だ。事故は事故だと言い張る玄三と、唄になぞらえて死を刻む犯人とは、向きが逆を向いている。あの老人は過去を埋めたがっている。犯人は過去を暴き立てている。——同じ一人の人間とは、どうしても思えない」


「では、玄三も」


「わからない」暁人は言った。「ただ、一つ気になることがある。あの老人は確かに強い。この土地を握っている。けれど、今夜、私が見たのは——どこか、追い詰められた獣の目だった。掘り返すな、と凄んだ、その裏に、怯えがあった。あの男もまた、何かを恐れている。それが何なのか」


 追い詰められた獣の目。私は、玄三のあの底の見えない黒い目を思った。あれは、すべてを握る支配者の目であると同時に、何かに追われている者の目でも、あったのだろうか。


 あてがわれた部屋は、館の奥まった一角にあった。そこへ至る廊下は長く、両側にいくつもの扉が並んでいた。その扉のほとんどは固く閉ざされ、把手に薄く埃が積もって、何年も開かれていないことがわかる。大正のころに建てられたという館は、いまの住人には広すぎた。生きて使われているのはほんの一部の部屋だけで、あとの大半は、闇と埃に閉ざされたまま眠っている。当主と管理人、たった二人のために、これだけの空間が、夜ごと、ただ暗くうずくまっているのだ。


 その廊下の暗がりで、私は七尾と行き合った。


 彼女は両腕に、何かを抱えていた。古い、木の文箱だった。漆の剝げた、小さな箱。私と行き合うと、彼女はほんの一瞬、その箱を抱え直した。私の視線から隠すように。——いや、隠した、と感じたのは、私の気のせいだったかもしれない。けれど、その一瞬、いつも温度のないあの女の顔に、何か張りつめたものがよぎった。


「……お部屋は、こちらです」彼女は、何ごともなかったように言った。


 私は、その文箱のことを訊かなかった。訊ける雰囲気ではなかった。ただ、あの、私の目から隠すように抱え直した、その一瞬の仕草だけが、印象に残った。あの箱の中に、何が入っているのだろう。古い手紙か。写真か。——管理人が私物の一つや二つ、大事に持っていて、おかしくはない。けれど、あの一瞬の張りつめた横顔が、私の中で消えなかった。


 部屋に入り、私は窓の外を見た。


 嵐の闇の中で、灯台の灯だけが、十五秒に一度回っていた。その光の足もとに、機構室がある。真琴だけが鍵を握る、灯台の心臓部。——この館の中で、いくつもの糸が、あの管理人へと伸びている気がした。死の前に各地を訪ねた使いの女。岬で育ち、唄を口ずさんだ女。会を進言した者。機構室の鍵を握る者。経歴のたどれない女。人目から隠した、古い文箱。——けれど、その糸を一本に束ねるものを、私はまだつかめずにいた。岬で育った女は、ほかにもいる。管理人が灯台の鍵を持つのは当たり前だ。確かめてもいないことを確からしく組み立てる、あの癖だ。私はそう、自分に言い聞かせた。


 外では、嵐が館を揺さぶり続けていた。逃げ場のない、孤立した館。二十年前の罪を抱えた人々と、私たちと、顔の見えない犯人。——とても、眠れそうになかった。私は床に入る気にもなれず、ただ窓辺に座って、回り続ける灯を見ていた。風の音にまぎれて、ときおり、誰かが廊下を行き来する気配がした。この長い夜は、まだ、始まったばかりだった。


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