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灯台守の娘  作者: よしお


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24/48

嵐の予報

 会の日は、朝から、空が低く垂れこめていた。鉛色の雲が、海の上に重く垂れて、水平線を消していた。風は、まだ強くなかったが、その底に、何か不穏なものを孕んでいた。嵐の前の、息をひそめたような静けさだった。


 天気予報は、夕方から夜にかけて、この秋いちばんの時化になる、と告げていた。発達した低気圧が、房総の南を、ゆっくり通る。海は荒れ、風は強まる。不要不急の外出は控えるように、と、繰り返していた。——よりにもよって、その夜に、私たちは、岬の先の館へ行こうとしていた。誰も近づくな、と言われる、その場所へ、自分から。


 保科は、朝から機嫌が良かった。


 暁人が先方に頼んで、保科の同行も許された。灯台に詳しい者がもう一人、と言えば、断られはしなかった。回光館の中に、回光灯台の足もとに、ついに入れる。それが、保科には嬉しくてたまらないらしかった。前の晩から、灯台の図面を、何度も広げては、たまらんですなァ、を繰り返していた。——これから、人が何人も死ぬかもしれない場所へ向かうのに、この男だけは、灯台のことしか頭になかった。


 けれど、その無邪気さが、私には少し救いだった。暁人は、終始無口で、何かを考え込んでいた。暗くなっていく空を、ずっと見ていた。私は私で、覚悟を決めていた。これは、これまでの取材とは違う。すでに起きたことを書きに行くのではない。まだ終わっていないことの、ただ中へ入っていく。——もしかしたら、今夜、誰かが死ぬ。それを止められるのか。あるいは、止められないものを、ただ見届けることになるのか。いや、と私は思い直した。死ぬのは、二十年前のゆかりの人々だけ、とは限らない。嗅ぎ回ってきた私たちもまた、犯人にとっては、邪魔な存在のはずだった。外と断たれた館で、安全な者など、一人もいない。私自身も、その例外ではなかった。


 午後、私たちは岬へ向かった。日が傾くにつれ、風は、目に見えて強くなっていった。


 バスの終点から、岬の付け根の集落までは、すぐだった。けれど、そこから先——灯台へ続く、あの細い一本道は、もう、ただごとではなかった。


 風が、横なぐりに吹きつけていた。道の両側の海は、白く泡立ち、波が、岩を越えて、道のうえまで、しぶきを散らしている。歩くたびに、潮が頬を打った。最初にこの道を歩いた日、私はぼんやり考えた。荒れた日には、この道は容易に水をかぶるはずだ、と。海の荒れた日には、ここはどうなるのだろう、と。——その答えが、いま、目の前にあった。道は、灰色の海の中に、かろうじて、背骨のように伸びていた。


 集落の漁師が一人、心配そうに私たちを見た。


「こんな日に、岬の先へ行くのかね」と、彼は言った。「やめときな。今夜は、もっと荒れる。下手すりゃ、道が、波で削られる。そうなりゃ、嵐が収まるまで、出てこられんよ」


 道が、削られる。出てこられない。——私は、暁人と顔を見合わせた。それは、まさに、私たちが向かおうとしている、その状況だった。孤立した館。外と断たれた岬。漁師の言葉は、警告というより、これから起きることの、予告のように聞こえた。


「行きます」と、暁人は言った。迷いは、なかった。「日が暮れる前に、渡りきりましょう」


 私たちは、しぶきを浴びながら、一本道を渡った。風に、何度もよろめいた。保科が、図面の鞄を大事そうに抱えて、それでも、たまらんですなァ、と、こんなときまで言っていた。暁人は、黙々と前を歩いた。海が、すぐ足元で唸っていた。一歩、足を踏み外せば、そのまま、灰色の波に呑まれそうだった。


 道の先に、あの鎖の門柱が見えてきた。


 私有地につき立入を禁ず。何度も私を拒んだ、あの鎖。錆びた板の、雨に流れかけた字。——けれど今日は、その鎖が、外されていた。会の客を迎えるために。地面に、外された鎖が、とぐろを巻くように置かれていた。これまで固く閉ざされていた境界が、今日だけ、開いている。


 私は、その開いた門をくぐった。


 長いあいだ、この鎖の外から、館を見上げてきた。初めて来た日も、その次も。鎖の向こうの、ただ一つの明かりを、何度も見た。その内側へ、いま、自分から足を踏み入れている。何かを越えてしまった、という感覚があった。引き返すなら今だ、と、どこかで声がした。けれど、私の足は止まらなかった。


 鎖の門から館までは、丘の斜面を、ゆるやかな坂が上っていた。その坂を上りながら、海ぎわの灯台を見た。風の中に、白く立っている。嵐の中でも、その塔は、少しも揺らがなかった。百年、この風に耐えてきた塔。その上の丘に、回光館があった。


 大正の洋館は、近くで見ると、思ったより傷んでいた。蔦が壁の半分を覆い、窓のいくつかは、雨戸が固く閉ざされている。尖った屋根が、低い空に、黒く突き出していた。美しい、というより、どこか、病んだ獣がうずくまっているような佇まいだった。けれど、玄関の上の窓には、明かりが灯っていた。鎖の外から、何度も見た、あの、ただ一つの明かり。その明かりの中へ、私たちは入っていく。


 玄関の扉を開けたのは、あの女——七尾だった。


「お待ちしておりました」女は、温度のない声で言った。「皆さま、もう、お集まりです。どうぞ、奥へ」


 館の中は、薄暗かった。古い洋館の、独特の匂いがした。黴と、埃と、長い年月の匂い。高い天井から、古いシャンデリアが下がっていたが、灯っているのは、その半分ほどだった。薄暗い廊下を、私たちは、女のあとについて歩いた。床板が、一歩ごとに軋んだ。


 廊下の壁には、肖像画が並んでいた。燈屋家の、代々の当主たちだろう。古い、油彩の肖像。みな、厳めしい顔で、こちらを見下ろしていた。難破した船から富を引き上げ、海が人を呑むたびに栄えてきた、と暁人が読んだ、あの一族。その当主たちの目が、廊下を行く私たちを、ひとりひとり、検分するように見ていた。


 廊下を歩きながら、暁人は、館の造りを、それとなく見ていた。天井の高さ。廊下の曲がり。途中で枝分かれする、灯台へ続く渡り廊下の入口。——この男は、どんなときも、建物を読む。この館も、暁人には、口の重い証人の一人なのだろう。


 通されたのは、館の一階の、広間だった。


 高い天井の、広い部屋だった。中央に、長い卓。古いが、上等な調度。壁際に、使われていない暖炉。大きな窓は、嵐の海に面していたが、いまは雨戸が、半分閉ざされていた。長い卓を囲んで、数人の客が、すでに腰をおろしていた。


 その中に、見覚えのある顔が、二つあった。


 鵜飼丈太郎。灯台技師。あの、海から遠い町の時計店で、口を閉ざした男。そして、柚原。記事を焼いた、元記者。——二人とも、私たちの警告を聞かず、それでも、この館に来ていた。来ずには、いられなかったのだろう。燈屋家の招きを、無視できる者は、この土地にいない。鵜飼は、私を見て、気まずそうに目をそらした。あれほど「行かん、二度と岬には近づかん」と言っていた男が、それでも、来ていた。告発状が出回り、仲間が相次いで死に、もう、海から遠い時計店に、一人でこもってもいられなくなったのだろう。来なければ、かえって何かを疑われる、と思ったのかもしれない。柚原は、すでに顔が赤かった。手元の杯を見つめている。私たちが警告した二人が、その警告も虚しく、こうして、唄の舞台に、自分から上がっていた。——燈屋家の招きには、恐れていても来ずにはいられない、そういう力があるらしかった。


 ほかにも、私の知らない顔が、一人、二人いた。中でも、神経質そうに眼鏡を光らせた、初老の女が目を引いた。落ち着かなげに、指を組んだり、ほどいたりしている。みな、二十年前のゆかりの人々なのだろう。広間には、奇妙な空気が淀んでいた。互いに、二十年来の顔見知りのはずなのに、誰も打ち解けて話そうとしない。ぽつり、ぽつりと、当たり障りのない言葉を交わしては、また黙る。互いの顔色を、探り合っている。——無理もなかった。この中の何人かは、もう知っているのだ。網代が、室戸が、死んだことを。自分たちの仲間が、一人、また一人と消えていることを。次は、自分かもしれない、と。


 当主の燈屋玄三は、まだ姿を見せていなかった。会の主でありながら、奥の部屋から出てこない。七尾が、ときおり奥へ下がっては、戻ってくる。主の世話をしているらしかった。二十年、館にこもったきりだという当主。その人に、私たちは、まだ会えずにいた。——役者は、揃いつつあった。二十年前の罪を抱えた人々が、一つの卓に。そして、その人々を唄のとおりに殺してきた誰かも、この同じ屋根の下に、いるのかもしれなかった。


 その夜、嵐は、予報どおりに来た。いや、予報を上回った。


 風が、館を揺さぶった。古い洋館の、あちこちが軋み、窓ガラスが鳴った。雨戸が、風に叩かれて、絶え間なく音を立てた。海鳴りが、地の底から響いてくるようだった。


 夜の八時を回ったころ、館の電話が、不通になった。風で、古い電話線が切れたのだ。誰かが受話器を取り、つながらない、と告げた。携帯は、もとより、この岬では圏外だった。外と館をつなぐ、声の糸が、まず、切れた。


 そして、ほどなく、外の様子を見に出ていた保科が、青い顔で戻ってきた。びしょ濡れだった。さすがの灯台好きも、声がこわばっていた。


「大変だ」と、彼は言った。「あの一本道が——途中が、波で、崩れ落ちた。この目で見てきた。もう、渡れん。車も、人も。——嵐が収まるまで、ここからは、誰も出られんし、誰も入れんですよ」


 誰も、出られない。誰も、入れない。


 私は、暁人を見た。彼は、静かにうなずいた。予期していた、という顔だった。


「これで、外と断たれた」暁人は、低く言った。「電話も、道も。この館にいる者だけで、嵐が過ぎるまで、過ごすことになる。——警察も呼べない。助けも来ない。もし、この中に犯人がいるなら。逃げ場は、もう、どこにもない。私たちにも。そして、犯人にも」


 外では、風が唸りを上げていた。波が、岬を揺さぶっている。窓の外は、もう、何も見えなかった。ただ、灯台の灯だけが、十五秒に一度、嵐の闇を、ぐるりとなでていく。その光が回るたび、広間の窓ガラスに、居並ぶ人々の顔が、青白く浮かんでは、消えた。誰の顔も、こわばっていた。誰もが、何かを恐れていた。けれど、何を恐れているのかは、たぶん、それぞれ違っていた。


 二十年前の罪を抱えた人々と、私たちと、顔の見えない犯人。——みな、この、海の上の孤島のような館に、閉じ込められた。逃げ場も、助けも、ない。


 数えて七つ、灯消えて、朝が来る。——あの唄の、最後の一節が、ふいに頭をよぎった。朝が来るまでに、この館で、いくつの灯が、消えるのだろう。私は、その考えを、振り払うことができなかった。窓の外で、本物の灯台の灯だけが、何も知らぬげに、十五秒に一度、回り続けていた。


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