招待状
柚原の町から岬に戻っても、私たちにできることは、何もなかった。
残る関係者は、鵜飼と、柚原。二人とも、私たちの警告を聞かなかった。鵜飼は時計の音の中に沈黙し、柚原は酒の中で自嘲した。次に、唄の五番が——火が、どちらを襲うのか。それとも両方か。私たちは、それを、ただ待つしかなかった。
手詰まりだった。警察は、別管轄の事故と自殺、と取り合わない。館の鎖は、固く閉ざされている。犯人の顔は、見えないままだ。私たちは、岬の宿に腰を据えて、何が起きるかを、息を詰めて待っていた。けれど、何かが起きるのを待つ、というのは、つまり、誰かが死ぬのを待つ、ということでもあった。その後ろめたさが、日に日に、重くなっていた。
そんなある日の夕方、宿に、客があった。
女将が、怪訝そうな顔で、二階に上がってきた。お客さんに、お客さまですよ、と。こんな岬の外れの宿に、私たちを訪ねてくる者など、いるはずがなかった。私と暁人は、顔を見合わせた。保科は、灯台を見に出ていて、留守だった。
階下に降りて、私は、息を呑んだ。
玄関の三和土に、一人の女が立っていた。
地味な紺の上着。ひっつめた髪。化粧気のない、整った、けれど何の表情も浮かべていない顔。——あの女だった。鎖の前で、私を無言で追い返した、回光館の管理人。ただ一度、言葉を交わしたきりの女。けれど、その横顔を、私は、何度も頭の中で見てきた。網代の家政婦が「影みたいな人」と言った女。室戸が、鵜飼が、口をつぐんだ、あの「使いの女」。——それらの輪郭が、いま、目の前で、一つに重なった。
私が、ずっと追ってきた女が、こうして、自分から、私たちの前に立っていた。
「夜分に、失礼いたします」女は、丁寧に頭を下げた。声も、顔と同じだった。温度のない、静かな声。「東雲暁人様は、こちらでいらっしゃいますか」
暁人が、進み出た。女は、彼に向かって、もう一度頭を下げた。
「回光館で、管理人をしております。七尾、と申します」女は言った。「燈屋玄三の使いで、参りました。——主が、近く、回光館で、ささやかな会を催します。灯火を継ぐ会、と。回光灯台の、これからを相談する集まりでございます」
七尾。女は、そう名乗った。私が、鎖の前で会ったとき、ついに聞けなかった、その名を。
灯火を、継ぐ会。
「灯台は、もう古く、主も歳をとりました」女は続けた。「この灯台を、これからどうするか。手放すのか、守り続けるのか。主一人では、決めかねております。それで、二十年来の、ゆかりのある方々に、お集まりいただくことになりました。——つきましては、灯台にお詳しい東雲様にも、ぜひ、ご意見を伺いたい、と。主が、そう申しております」
灯台に詳しい暁人に、意見を。——表向きは、筋の通った話だった。灯台の処分を相談する会に、専門家を招く。おかしなことは、何もない。けれど、私は訝った。
「なぜ、東雲さんが、この岬におられることを、ご存じなんですか」と、私は言った。「私たちは、お宅に、名乗った覚えもありません」
女の目が、わずかに私を見た。
「岬で、灯台を熱心に調べておられる方がいる、と。土地の者が、噂しておりました」女は、淡々と言った。「古い灯台を訪ね歩く方々のあいだで、東雲様のお名前は、知られております。回光灯台ほどのものに、その東雲様が来られたとなれば、私どもの耳にも入ります。——真壁様のことも、いつぞや、鎖の前で。お二人が、ご一緒に動いておられることも、存じておりました」
お二人が一緒に動いていることも、存じていた。——つまり、この館は、私たちが岬で何をしているかを、ずっと、見ていた。二十年前を嗅ぎ回る私たちを、把握した上で、こうして招いている。私は、背筋が冷えた。なぜ、よりにもよって、その私たちを、わざわざ、招くのか。
「私も、ご一緒して、よろしいでしょうか」と、私は言った。以前、この女に、門前で追い返されたことは、口にしなかった。向こうも、それを、わかっているはずだった。
女は、わずかにうなずいた。
「どうぞ。——主は、書く方が来られることも、承知しております」
主は、書く方が来られることも承知している。私は、その言葉に、ぞくりとした。嗅ぎ回る物書きを、招く。それを、玄三は承知している。けれど私は、もう一歩、踏み込んだ。
「失礼ですが」と、私は言った。「あなたは、網代権左さんや、室戸壮一さんのお宅にも、行かれましたか。この会の、お知らせに」
女は、すぐには答えなかった。けれど、その無表情は、少しも崩れなかった。
「はい」やがて、女は平然と言った。「ゆかりの皆さまに、お知らせして回りました。網代様にも、室戸様にも」
平然と。私は、その平静さに、背筋が冷えた。網代も、室戸も、この女が訪ねたあと、死んだ。なのに女は、何の動揺も見せず、訪ねた、と認める。
「そのお二人は」と、私は言った。声が、少し震えた。「相次いで、亡くなりました。ご存じですか」
女は、しばらく、私を見ていた。
「……存じております」やがて、女は言った。温度のない声で。「お気の毒なことでございます。お歳を召した方々ですから」
お気の毒なこと。それだけだった。その顔には、悲しみも、怯えも、後ろめたさも、何も浮かんでいなかった。能面のように。——この女は、何かを知っているのか。それとも、本当に、何も知らない、ただの使いなのか。その無表情の下が、私には、まったく読めなかった。死を運んできた女の顔にも見えた。何も知らずに、ただ使いを果たしているだけの女の顔にも、見えた。同じ一つの顔が、見るたびに、別のものに、変わるようだった。
「失礼ですが」と、今度は暁人が口を開いた。「この会は、玄三さんが、ご自分で思い立たれたのですか」
女は、少し、間を置いた。
「……いいえ。お勧めしたのは、私でございます」女は言った。「主が、灯台の今後を一人で抱えて、思い悩んでおられましたので。二十年来の方々と、灯台にお詳しい方をお呼びして、皆さまで相談されては、と。差し出がましいことを、とお思いかもしれませんが」
お勧めしたのは、私でございます。
私は、その言葉を聞きのがさなかった。この会を、玄三に進言したのは、この女だった。気の利く管理人が、思い悩む主のために、人を集める会を勧めた。——表向きは、それだけのことだった。けれど、私の中で、何かが引っかかった。二十年前のゆかりの人々を、一堂に集める。それを勧めたのが、この女。そして、その人々を、死の前に訪ね歩いたのも、この女。——気を利かせた、というには、その糸は、あまりに、きれいに、一点へ手繰り寄せられていく気がした。
「では、お待ちしております」女は、最後に頭を下げた。「会は、三日後の、夕刻から。回光館で。——どうぞ、お越しくださいませ」女は、懐から一通の封書を取り出し、暁人に差し出した。「こちらが、お招きのしるしでございます」
そして女は、来たときと同じように、音もなく去っていった。後ろ姿が、夜の闇に溶けるまで、私は見送った。最後まで、その背は、一度も振り返らなかった。まるで、私たちが、あとからついてくることを、はじめから知っているかのように。
女が去ったあと、私は、その封書を暁人の手から受け取った。中の招待状を、明かりにかざしてみる。——厚みのある、上質な紙。右下の隅に、見覚えのある、小さな透かしが漉き込まれていた。灯台の、透かしだった。
私は、息を呑んだ。あの告発状と、同じ紙だった。私の台所に届いた、差出人のない、あの一行。それと、この会への招待状とが、同じ、燈屋家の紙に書かれている。告発状を送った誰か。会の招待状を用意した誰か。——どちらも、同じ館の紙を、使っていた。
「告発状も、この招きも、同じ館の紙です」と、私は言った。「あの一行を私に送って、岬に呼び寄せ、そして今、会に招く。——同じ手が、糸を引いている気がします」
「ええ」暁人は言った。「告発状で、あなたを呼んだ。あなたが嗅ぎ回り、関係者が死んだ。そして今、全員を、館に集める。——もし、これが一人の人間の描いた絵だとしたら。その人間は、ずいぶん前から、この絵を描いていたことになる」
ずいぶん前から。私は、ぞっとした。
「罠、でしょうか」と、私は言った。
「かもしれない」暁人は言った。「嗅ぎ回る者を、懐に招き入れる。様子を見るため。あるいは、口を塞ぐため。——あるいは、まったく別の理由か」
「別の理由」
「わからない」暁人は言った。「ただ、一つ、確かなことがある。その会には、二十年前のゆかりの人々が集まる。鵜飼も、柚原も、呼ばれているはずだ。——これまで、私たちは後手に回ってきた。一人が死んでから、次へ。ばらばらに散った関係者を、追いかけて。だが、その会では、全員が、一つ屋根の下に集まる」
「次の死を、止められるかもしれない」と、私は言った。
「あるいは、犯人を、見極められるかもしれない」暁人は言った。「あの館を、おいて、ほかにない。——危ない橋だ。だが、渡らなければ、向こう岸には、行けない」
「保科さんも、連れていきたい」暁人は続けた。「灯台のことなら、あの男の目も借りたい。それに、人数は、多いほうがいい。あの館で、何が起きるか、わからない。——先方には、灯台に詳しい同好の者を、もう一人、と頼んでおきます。灯台の処分を相談する会だ。専門家が一人増えて、断られることは、ないでしょう」
保科は、きっと喜んでついてくるだろう。回光館の中に入れる、と聞けば、灯台好きのあの男は、危険のことなど忘れてしまうにちがいなかった。その無邪気さが、今は、少し、頼もしくも思えた。
「天気も、変わりそうだ」暁人は、窓の外の暗い海に目をやった。「漁協の者が話していた。三日後あたりから、大きな時化になる、と。——岬は、荒れた日には、本土から切り離される」
荒れた日には、岬は島になる。私は、最初に岬へ来た日に、ぼんやり考えたことを思い出した。あの細い一本道が、波をかぶり、崩れる。古い電話線も、嵐には弱いと聞いた。そうなれば、岬の先は、外と、完全に断たれる。
三日後。会の夜。そして、嵐。——もし、その夜、岬が孤立したら。あの館の中に、二十年前のゆかりの人々と、私たちと、そして、顔の見えない犯人とが、閉じ込められる。逃げ場も、助けも、ない場所に。電話も通じず、道も断たれた、海の上の、孤島のような館に。
私は、その晩、なかなか眠れなかった。招かれている。あの、温度のない女に。会へ。館へ。——呼び込まれている、という感覚が、どうしても拭えなかった。誰かが、二十年前の関係者を、一人残らず、あの館へ、手繰り寄せようとしている。そして、私たちも、その糸の先に結ばれて、引かれていく。何かが起きる。あの、嵐の夜の館で。それが何かは、まだわからなかった。けれど、起きてからでは、遅いのかもしれなかった。




