焼かれた記事
柚原のいる町は、室戸の隣町から、さらに県をひとつ越えた海沿いにあった。
保科は、岬に残った。回光灯台を、もう少し見ていたい、という。あの男は、人の死より、灯台のレンズのほうがよほど大事なのだ。私と暁人は、二人で柚原を訪ねることにした。暁人の伝手で、おおよその居場所は掴めていた。海沿いの電車に長く揺られた。窓の外を、灰色の海が流れていく。柚原という男に何を期待しているのか、私にもよくわからなかった。室戸は半分だけ語った。鵜飼は沈黙した。言葉で生きてきた元記者は、そのどちらだろう。口を開くのか、それとも、いちばん固く閉ざすのか。
その町は、海はあっても、港の活気はなかった。シャッターの下りた商店街が潮風にさらされ、人通りもまばらだった。柚原のアパートは、その外れの、海に背を向けた日の差さない一階にあった。地方紙のそれなりの地位まで上り詰めた男の、行き着いた先が、ここだった。表札は出ていなかった。
何度かノックして、ようやく戸が開いた。
昼間だというのに、酒の匂いがした。
出てきたのは、白髪まじりの赤ら顔の男だった。五十半ばだろう。かつては切れ者だったのかもしれない。けれど今は、目が濁り、頬がたるみ、だらしなく着崩れていた。手に湯呑みを持っている。中身は茶ではなさそうだった。
「なんだ、あんたら」柚原は面倒くさそうに言った。「新聞の勧誘なら、間に合ってる。——というのは冗談だ。俺はもう、今の新聞は読まん。書いてた側が読まんのだから、世話はない」
私が、物を書く仕事をしている、と名乗ると、柚原はふん、と鼻で笑った。
「物書き。ルポライター、か」彼は私を上から下まで見た。「今どき、ご苦労なことだ。誰が真実なんぞ読むんだ。——で、その物書きが、落ちぶれた元記者に何の用だ」
「二十年前、回光岬で——」
その地名を出した瞬間、柚原の手が止まった。顔から、酔いの赤みがすっと引いた。彼はしばらく私たちを見ていたが、やがて舌打ちをして、戸を大きく開けた。
「……入れ。こんな話、戸口でするもんじゃない」
中は荒れていた。空の酒瓶が隅に転がり、流しには洗っていない食器が積まれている。世の中から降りた男の巣だった。壁には、色の褪せた表彰状が一枚、傾いて掛かっていた。優秀記事賞、とある。皮肉な飾りだ、と私は思った。
その壁ぎわに、古い新聞が束ねられて積まれていた。日付を見ると、どれも二十年、三十年前のものだ。今の新聞は読まん、と言ったこの男が、昔の新聞だけは、捨てずに取ってある。たぶん、自分の書いた記事の載った新聞なのだろう。読まないのではない。読み返せないのだ。私は、そう思った。
私は、鞄からあの便箋を出した。柚原はそれを一瞥して、またふん、と笑った。
「差出人のない告発状か。俺のところにも来たよ、同じようなのが」彼は言った。「二十年前のことを知っている誰かがいる。そういうことだろう」
「網代さんと、室戸さんが亡くなりました」と、私は言った。「二十年前、回光岬の灯台で亡くなった、沖野燈里さんの死に関わった人たちが」
柚原は答えなかった。湯呑みの酒を一口飲んだ。
「あんた、室戸に会ったのか。室戸は、何か言ったか」
「半分だけ」と、私は言った。「事故ではなかった、と。玄三さんにそう言われた、と」
柚原は低く笑った。自嘲のような笑いだった。
「室戸らしいな。最後まで半分だけ、か」彼は言った。「医者はいい。検案書に書かなきゃいいんだ。手を汚さずに済む。——記者はそうはいかん。書くか、書かないか。どっちかだ。そして俺は——書かなかった」
柚原は湯呑みを置いた。それから宙を見て、低く言った。
「いや、違うな。俺は、一度は書いたんだ」
「書いた」
「二十年前。あの座礁と、灯台守の娘の死。おかしい、と思った」柚原の目に、一瞬、昔の色がよぎった。「よその船ばかりが、なぜあの岩で沈む。積荷はどこへ消える。灯台守の娘が、なぜ人の背より高い手すりを越えて落ちる。——俺は若かった。記者だった。おかしいものをおかしいと書くのが仕事だと思っていた。だから書いた。一晩で原稿を書き上げた。震える手でな。これは特ダネだ、と思った」
彼の声が低くなった。
「その原稿は、活字にならなかった。デスクに出す前に、網代に呼ばれた。燈屋さんの使いだ、と」柚原は言った。「おとなしくしていれば悪いようにはしない。歯向かえば、この土地で記者は続けられん。女房子供はどうする。そう言われた。俺には所帯があった。守るものがあった」
柚原は、自分の手を見た。節くれだった、染みの浮いた手だった。
「俺は、自分でその原稿を焼いたよ。火鉢にくべてな。一枚ずつ」彼は言った。「燃えるのはあっけなかった。一晩かけて書いたものが灰になるのは、ほんの数分だ。俺はその灰を、火箸でかき混ぜた。文字が一つも残らないように。——あのとき思ったよ。これで家族を守れる、と。記者のつまらん正義より、女房子供のほうが大事だ、と。立派な言い訳だった」
焼かれた記事。私はその言葉の重さを思った。新聞社の資料庫が焼けるより、ずっと前に、もう一つの火があった。一人の記者が、自分の手で真実を火にくべた、その火が。
「一つ、訊いていいですか」と、暁人が初めて口を開いた。それまで、壁ぎわの古い新聞を黙って眺めていた男が。「あなたは、なぜそれを、今もそんなに細かく覚えているんです。二十年前に焼いた原稿を。一字一句、まだ手の中にあるような言い方だ」
柚原は、虚を突かれたように暁人を見た。
「忘れたいだけの過去なら、とうに酒で流しているはずだ」暁人は静かに続けた。「なのに、あなたは忘れていない。焼いた、その手の感触まで。——そこの古い新聞も、同じでしょう。今の新聞は読まないのに、自分の書いた昔の記事だけは、捨てられずに取ってある。本当は、忘れたくないのでは。自分が、一度は書こうとした、ということを。それだけが、あなたが記者だった、ただ一つの証だから」
柚原は、しばらく何も言わなかった。それから、苦い声で言った。
「……黙れ。何も知らんくせに」
けれど、その声には力がなかった。図星を突かれた者の声だった。暁人はそれ以上、言わなかった。建物の錆や傷を読むように、この男の二十年の悔いの形を読み取って、そして黙った。
柚原は、湯呑みを両手で包んだ。しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……あの娘のことだけは、忘れられん」
「娘さん」
「灯台守の、上の娘だ。燈里、という娘だった。十六だった」柚原は宙を見た。「取材で、一度だけ会ったことがある。事故の少し前にな。明るい娘だった。父親思いの。灯台のことを、嬉しそうに話してくれた。父さんの灯は日本一だ、と。——その娘が死んだ。事故、で。俺はその死を、三行で片づけた。名前も書かずに。あの娘が生きていたことごと、なかったことにした」
柚原は、目を伏せた。
「あの娘が落ちるところを、見たわけじゃない。会ったのは、生きていたとき、一度きりだ。それなのに、今でも、夢に見る。あの、灯の話を嬉しそうにしていた顔を。俺が事故の二文字に押し込めて、葬っちまった、あの顔を。——二十年だ。二十年、あの顔が、消えてくれん」
書かなかった、という罪が、生前に一度会っただけの娘の顔を、二十年、この男に見せ続けてきた。私は、それを思った。
「それから、俺は出世した」柚原は、また湯呑みを取った。「書かないことで。燈屋さんに都合よく書くことで。事故、事故、事故。——気づいたら二十年だ。女房は出ていった。子も寄りつかん。守ろうとしたものは、結局、ぜんぶこぼれ落ちた。残ったのは、この酒と、あそこの嘘くさい賞状だけだ」
彼は、壁の表彰状を顎でしゃくった。それから、濁った目で私を見た。その奥に、刺すようなものがあった。
「あんた、書く側なんだろう。なかったことにされた死を掘り返す。立派なことだ」柚原は言った。「けどな、覚えておけ。書く、というのは敵を作ることだ。いつか、あんたにも来る。書くな、という圧力が。守るものができたとき、あんたは書けるか。火鉢を前にして、原稿をくべずにいられるか。——俺を、笑えるか」
私は、答えられなかった。
書けるか。私は自分に問うた。私には、まだ守るものがなかった。家族も、地位も。だから書いてこられた。失うものがないから、怖いものが少なかった。——もし、私に守るものができたら。柚原のように、火鉢に原稿をくべる日が来ないと、言いきれるだろうか。私は、それをはっきりとは否定できなかった。この落ちぶれた男は、私の、ありえたかもしれない姿だった。あるいは、これから先の。
「柚原さん」と、私は声を絞り出した。「最近、燈屋家から、使いの女が来ませんでしたか」
柚原の眉が動いた。
「……来たよ。地味な、物静かな女だ」彼は言った。「玄三さんが、二十年ぶりに昔の連中を館に集める、と。会、とかいうものに。——今さら、何の集まりだ、と思ったがな」
「行かないでください」と、私は言った。「網代さんも、室戸さんも、その使いの女が来たあとに亡くなっています。次は——」
「次は、俺か」柚原は笑った。けれど、その笑いはこわばっていた。「ご親切なことだ。だがな、物書きさん。俺みたいな男を、今さら誰が殺す。殺す値打ちもない。——俺はもう、とっくに死んでるようなもんだ。二十年前、原稿を焼いた、あの晩からな」
それ以上、柚原は聞かなかった。私たちは引き上げるしかなかった。帰りぎわ振り返ると、柚原はまた湯呑みを口に運んでいた。傾いた表彰状と、捨てられない古新聞の束の、あいだで。
外に出ると、海が灰色に広がっていた。シャッターの下りた商店街を、潮風が抜けていく。
「あの人も、危ない」と、私は言った。
「ええ」暁人は海を見ていた。「網代、室戸、鵜飼、柚原。二十年前の四人。そのうち二人が、もう死んだ。残るは、鵜飼と柚原だ」彼は、そこで少し間を置いた。「——柚原は、自分の記事を火で焼いた、と言いましたね」
「ええ」
「五つとせ。灯は赤々と、燃え立ちて、夜を照らす」暁人は、低く唄の一節を口にした。「赤々と、燃える。——火だ。五番は、火で焼かれる者を指している。そして柚原は、二十年前、自分の記事を、火で焼いた男だ。もし、犯人がそれを知っているなら」
記事を焼いた男を、火で。私は、その符合のむごさにぞっとした。けれど、すぐに思い直した。それはまだ、当て推量だった。犯人が、柚原の焼いた記事のことを知っているのかどうか。次が柚原なのか、鵜飼なのか。それすら、確かなことは何もない。私たちはまた、何も止められないまま、一人の男を置いて去ろうとしている。
柚原のアパートを、もう一度振り返った。日の差さない一階の窓。あの中で、男はまた酒をあおっているのだろう。焼かれた記事の、二十年分の灰を、その身に抱えたまま。——書かなかった男と、書く私。私たちを隔てているものが、本当に確かなものなのか、私にはもう、よくわからなかった。守るものができたとき、お前は書けるか。柚原のその問いが、帰りの道のあいだ、ずっと耳の奥に残っていた。その問いに、私はまだ、答えを持っていなかった。




