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灯台守の娘  作者: よしお


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唄を継ぐ者

 手詰まりは、続いていた。


 館の鎖は開かない。次の標的が、鵜飼か、柚原か、それもわからない。私たちは、岬の宿で、足踏みをしていた。暁人は、灯台の図面を飽きもせず眺めていたが、ある朝、ふいに、誰かに電話をかける、と言い出した。


「灯台のことで、もう一人、目を借りたい」と、彼は言った。「回る灯の機構を、外から検証するには、私一人の目では心もとない。——同じものを見て、同じように考える人間が、もう一人、いる」


 その人は、翌日の昼に、岬にやってきた。


 保科健、と名乗った。四十代だろう。暁人とは、まるで違う男だった。暁人が、痩せて、寡黙で、影のようなのに対して、保科は、丸顔で、よく日に焼けて、声が大きかった。岬のバス停に降り立つなり、岬の先の灯台を見上げて、


「いやァ、これはこれは。七尾の灯! たまらんですなァ!」


 と、大声を上げた。よそ者が、その旧称を口にするのを、私は、少し意外に思った。


「七尾の灯、という名を、ご存じなんですか」と、私は訊いた。


「ええ、ええ。古い灯台の記録を漁っとると、ときどき出てくるんですわ」保科は、嬉しそうに言った。「もっとも、地元じゃ、もう誰も使わん名やろなぁ。わしらみたいな、よそから来た物好きが、紙の上で見つけるだけで」


 保科は、灯台の研究家だ、と暁人は言った。職業、というわけではないらしい。ただ、日本中の灯台を、自分の足で見て回り、その構造や歴史を、調べては書き留めている。暁人とは、そういう、灯台に憑かれた者同士の、古い知り合いだった。世の中には、こういう人間が、何人かいるらしい。建物や灯台に、人よりも心を寄せる人間が。


「回光灯台のことは、前から知っとりました」保科は言った。「私有の灯台で、明治の石造りが、ほぼそのまま残っとる。こんなもん、もう日本に、なんぼもないんですわ。前に一遍、来たことがあるんやけど、鎖が張ってあって、門前払いでねぇ。それが、東雲さんから連絡もろて。回光灯台を調べとる、と。——もう、いてもたってもおられませんでなぁ」


 二人は、さっそく、灯台の話を始めた。私には、半分もわからない話だった。レンズの等級。回る周期。重錘式の機構。光の届く距離。——二人の専門家が、図面を広げて言葉を交わすのを、私は横で聞いていた。暁人が、十五秒に一閃の周期や、灯室と館の窓の高さのことを話すと、保科は、何度も、たまらんですなァ、を繰り返した。


「この灯台はね、外から見とるだけでも、面白いことが、ぎょうさんあるんですわ」保科は、目を輝かせた。「特に、あの回る光。あれはな、ただ回っとるだけに見えて、ほんまは、見る場所と間合いで、ずいぶん違うて見えるんや。——いや、その話は、また灯がついてから、ゆっくりな」


 その話は、また灯がついてから。保科は、そう言って、灯台のほうへ、首を伸ばした。私は、その言葉を、なぜか、覚えておくことにした。回る光は、見る場所と間合いによって、違って見える。——暁人が「光は嘘をつかない」と言うのと、どこか、裏表のような言葉だった。


 ひとしきり灯台の話が済むと、私は、保科に、訊いてみた。岬のわらべ唄のことを。


「唄?」保科は、きょとんとした。「いやァ、知りまへんなぁ。灯台のことなら、たいてい調べとるんやけど。唄は、専門外でなぁ」


 保科は、灯台の構造や歴史には、驚くほど詳しかった。回光灯台の旧称が「七尾の灯」であることまで、知っていた。けれど、岬の数え唄のことは、何も知らなかった。よそから来て、灯台を調べる人間にも、唄だけは、届かないのだった。


「それが、唄の、不思議なところです」暁人が言った。「灯台の構造は、調べれば、よそ者にもわかる。図面があり、記録がある。保科さんのように。——けれど、唄は、違う。文字に残りにくく、土地の子供の口から口へ、伝わる。だから、よそ者には、たどり着けない。あの数え唄を、最後まで口ずさめる者がいたら、その人は、子供のころ、この岬の集落で、その唄を歌って育った人間だ。それは、間違いない」


「では」と、私は言った。「唄を口ずさむ人を見つければ、犯人が——」


「いや。そこは、慎重にならなければ」暁人は、私を制した。「唄を知る、ということは、岬の集落で、子供として育った、ということまでしか、言わない。それ以上では、ない」


「それ以上では、ない」


「考えてみてください」暁人は言った。「子供のころ、この岬で、手毬をつきながら、あの唄を歌った子供は、何人も、何十人もいたはずだ。灯子も、燈里も、その大勢の中の、二人にすぎない。漁師の子も、職人の子も、みんな、あの唄を歌って育った。その中の何人かは、岬を出ずに、今も、この土地で年を取っている。何人かは、年寄りになっても、唄を覚えている。——唄を知る、というだけでは、その人が犯人だ、とは、まったく言えないのです」


 唄を知る子供は、大勢いた。私は、その当たり前のことに、はっとした。私は、いつのまにか、唄を知る者を見つけさえすれば犯人にたどり着ける、と思い込みかけていた。けれど、岬で育った子供は、何十人もいた。灯子も、燈里も、その大勢の中の一人にすぎない。唄を知っている、というだけでは、誰のことも、指せないのだった。


「唄を知る、というのは、ふるいの、いちばん粗い目です」暁人は言った。「よそ者を、ふるい落とす。それだけだ。保科さんや、私や、あなたのような人間を、外へ弾く。——けれど、岬で育った大勢の中から、たった一人を選り分けるには、もっと細かい、別のふるいが、要る。唄だけでは、足りない」


 もっと細かい、別のふるい。私には、それが何なのか、まだわからなかった。けれど、暁人の言葉は、私の急ぎすぎる思考に、楔を打った。唄を知る者=犯人。唄を知る者=灯子。そう短絡しては、いけない。確かめてもいないことを、確からしく組み立てる。それは、私の、いちばんの悪い癖だった。網代のときも、室戸のときも、私は、その癖と、闘ってきたはずだった。


「面白いもんですなぁ」と、保科が、口を挟んだ。話の半分も、わかっていない様子だったが、それでも、目は輝いていた。「灯台の図面は、誰にでも読める。けど、唄は、その土地で育った者にしか読めん。——同じ土地の記録でも、ずいぶん違うもんやなぁ」


 保科の、何気ない一言が、私の中に、残った。図面は、誰にでも読める。けれど、唄は、育った者にしか、読めない。——犯人は、その、唄を読める側にいる。灯台の図面の側ではなく、土地の唄の、内側に。岬で育った、大勢の中の、誰か。


 その日の午後、私と暁人は、岬の集落で、唄を継ぐ者を探した。保科は、灯台をもっと見たい、と言って、一人、鎖の前へ向かった。よそ者が一人増えても、岬の口は、もう、私たちには、ほとんど開かなかったが、唄のことだけは、別だった。事件の話ではなく、ただの、子供の唄。それなら、と、何人かは、応じてくれた。


 けれど、唄を、最後まで歌える者は、ほとんどいなかった。


 若い世代は、誰も知らなかった。そんな古い唄、聞いたこともない、と言う者すらいた。中年の漁師が、ひとつとせ、ふたつとせ、までは、かろうじて口にしたが、その先は、忘れた、と笑った。岬の子供は、もう、手毬唄など、歌わない。テレビがあり、ゲームがあり、子供の数も減った。唄は、継ぐ者を失って、消えかけていた。


「もう、あの唄を、まるごと覚えとる者は、よほどの年寄りくらいのもんだろうね」と、ある漁師は言った。「わしらの子供のころは、まだ、みんな歌っとったけどね。今は、もう」


 唄は、消えていく。私は、シゲさんの言葉を思い出した。岬を出た者は忘れる。けれど、ここで育った者は、骨に染みついている、と。——その、骨に染みついた者たちも、一人、また一人と、年を取り、死んでいく。唄を継ぐ者は、もう、ほとんど、残っていない。


 だからこそ、と、私は思った。消えかけたその唄を、わざわざ、人の死になぞらえる者がいる。少なくとも、三番と四番を。——そんなことをする人間にとって、あの唄は、ただ覚えている、というだけのものでは、ないのかもしれない。もっと重い、別の意味が、その唄には、あるのかもしれなかった。


 唄を、継ぐ者。


 そう思いかけて、私は、首を振った。それは、まだ、ただの当て推量だった。なぞられたのは、三番と四番。二つだけだ。犯人が、その先の唄まで知っているのかどうか。五番、六番、七番と、続けるつもりなのかどうか。それすら、確かなことは、何もない。私は、また、確かめてもいないことを、先回りして組み立てようとしていた。網代のときも、室戸のときも、そうやって、急ぎすぎる自分を、抑えてきたはずだった。


 わかっているのは、ただ一つ。少なくとも三番と四番を、人の死になぞらえた者がいる。その者は、岬で育った、大勢の中の、誰かだ。けれど、それが誰なのかは、唄だけでは、わからなかった。暁人の言うとおり、もっと細かい、別のふるいが、要る。


 夕方、鎖の前から、保科が戻ってきた。さんざん灯台を眺めて、満足した顔をしていた。


「いやァ、ええ灯台や」保科は言った。「外から見とるだけでも、半日、飽きへん。——ただ、一つ、妙でしたわ。鎖の向こうに、女の人が一人。館の窓を拭いとった。こっちが、なんぼ見とっても、ちらりともこっちを見ん。まるで、わしらなんぞ、はなから見えとらんように」


 女の人。館の窓。私は、暁人と、目を見交わした。あの管理人だ。鎖の前で、私を無言で追い返した、温度のない女。


「あの館には」と、私は言った。「当主の玄三さんと、その女の人と、二人きりで、暮らしているそうです」


「ほゥ」保科は、さして関心もなさそうに言った。「物好きな家ですなぁ。あんな立派な灯台と館を持っとって、誰も入れんとは」


 保科は、それきり、管理人のことは、忘れたようだった。彼にとっては、灯台のほうが、よほど面白いのだった。けれど、私の中には、その、窓を拭く女の姿が、なぜか、残った。鎖の向こうで、よそ者の視線など、はじめから見えていないかのように、黙々と、館の窓を拭く女。あの女も、岬の、どこかで、生まれ育ったのだろうか。あの女も、あの唄を、知っているのだろうか。——そこまで考えて、私は、また、その先を、止めた。確かめてもいないことを、組み立てている。あの女は、ただの管理人だ。岬で育った大勢の中の、誰がそうであれ、あの女が、そうだとは、限らない。


 その晩、私たちは、宿の窓から、灯台の灯を見た。保科は、懐中時計を片手に、灯がこちらを向くたびに、低く数を読んだ。暁人が、岬に来た最初の夜に、したのと、同じように。十五秒に一閃。きっかり。二人の灯台好きは、その規則正しい光を、いつまでも、飽きずに眺めていた。


 私は、その光の下に広がる、暗い岬のことを思った。あの灯の下のどこかに、すでに二人を、唄になぞらえて葬った者がいる。岬で育った、大勢の中の、誰か。その顔は、まだ見えなかった。けれど、その人は、確かに、この岬のどこかで、息をしている。——そして、もし、暁人の読みが正しければ。あの数え唄は、まだ、四番までしか、埋まっていない。


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