旧称「七尾の灯」
岬に戻って、私たちには、することがなかった。
館の鎖は、固く閉ざされている。玄三は、誰にも会わない。次の死を止めたくても、どこで、誰が狙われるのか、わからなかった。鵜飼か、柚原か。二人は、遠くに散っている。私たちは、また後手に回っていた。何かが起きてから、その死を、後ろから確かめにいく。網代のときも、室戸のときも、そうだった。
暁人は、その焦りを、紙の中に沈めるようにして過ごした。宿の部屋に、古い紙を広げる。灯台の図面の写し。燈火月報。郷土資料の、黄ばんだ束。岬に来てから何度も見てきたものを、彼はもう一度、はじめからたどり直していた。建物が口をきかないなら、建物の古い記録に訊く。手詰まりの中で、この男にできるのは、それだけだった。
私は、その横で、これまでのノートを読み返した。回光岬、と書いた最初のページから。差出人のない手紙。灯台の透かし。沖野家。七つ岩。わらべ唄。網代。室戸。——いくつもの名と、いくつもの死が、ノートの中に積み重なっていた。読み返すほど、私たちが、まだ何も止められていないことだけが、はっきりした。
二日目の昼近くになって、暁人が、ふと顔を上げた。
「妙な名が、出てくる」と、彼は言った。
彼が指したのは、いちばん古い、灯台の図面の写しだった。明治のころのものを、県立図書館の郷土史料から写し取った、という。その隅のほうに、墨で、小さく書き込みがある。私は覗き込んだ。回光灯台、ではなかった。そこには、別の字があった。
七尾灯。
「七尾の灯、と読むのでしょう」暁人は言った。「この図面の、ほかの場所には、回光灯台、とある。だが、この隅の古い書き込みだけ、七尾灯、と書かれている。——おそらく、これが、もとの名だ。回光灯台、というのは、あとから付けられた」
「あとから」
「ええ」暁人は、図面を指でなぞった。「灯台の名が変わるのは、珍しくない。けれど、名が変わるとき、そこには、たいてい、誰かの意図がある。——考えてみてください。七尾の灯、というのは、土地の言葉です。七つ岩を照らす灯。漁師が、自分たちの命を守るための、実用の名だ。だが、回光灯台、というのは違う。光が回る、と書いて、回光。美しいが、どこか、よそゆきだ。土地の手触りが、ない」
「燈屋家が、付けた、と」
「断じはできません。けれど」暁人は言った。「灯台を私有する家が、その灯台に、新しい名を付ける。土地の漁師が呼んできた古い名を、捨てて。それは——この灯台は、もう、お前たちの七尾の灯ではない、燈屋家の回光灯台だ、と、宣言するようなものだ。名を変えることは、持ち主を、塗り替えることでもある」
名を変えることは、持ち主を塗り替えること。私は、その言葉を書きとめた。燈屋家は、灯台を、土地から奪った。私財で建て替え、土地ごと私有し、そして、名まで付け替えた。七つ岩を照らす、漁師たちの灯を、燈屋家の灯に。——光を、私物にし続けた家。暁人が、はじめて灯台を見たとき、そう言ったのを、私は思い出した。
「この名の謂れを知っている人がいるとすれば」暁人は言った。「土地の、古い人間だ」
私は、すぐに一人の顔を思い浮かべた。シゲさん。源助の親の代から、この岬にいる、あの老女。岬に戻ったら、もう一度会いに行かなければ、と思っていた。約束も、まだ果たせていなかった。
シゲさんは、海の見える小さな家で、相変わらず一人で暮らしていた。私たちが訪ねると、皺深い顔に、懐かしそうな色を浮かべた。前に会ったときより、また少し小さくなったように見えた。岬の古い記憶を、その身一つに抱えた人が、少しずつ、海に近づいていく。そんなふうに、私には見えた。
「ああ、あんたら。まだ、岬におったのかね」
私たちは、上がらせてもらった。仏壇に、古い写真が並んでいる。先に逝った者たちを、この老女は、まだ一人で弔い続けていた。
私が、灯台の古い名のことを訊くと、シゲさんは、しばらく遠い目をした。
「七尾の灯、かい」やがて、彼女は言った。「懐かしい名を、出すねえ」
「今の若い者は、もう、回光灯台、としか言わんよ」シゲさんは言った。「看板にも、地図にも、そう書いてある。けど、わしらの子供のころは、あれは、七尾の灯、だった。みんな、そう呼んどった」
「七尾、というのは」
「沖の岩さ」シゲさんは、海のほうへ手を向けた。「七つ岩。沖に、岩が七つ、尾を引くように並んどるだろう。波の悪い日にゃ、あれが、海の中から、七つの尾みたいに見えるんだよ。その七つの岩を照らす灯だから、七尾の灯。——古い、岬の言葉さ」
七つの岩を照らす灯。七尾の灯。私は、ノートにその字を書きつけた。
「わしも、ちっちゃいころは、あの灯を見て育ったよ」シゲさんは、目を細めた。「夜になると、ぐるり、ぐるり、と回る。あれが回りはじめると、ああ、日が暮れた、と思うてね。岬の子は、みんな、あの灯を、時計みたいにして暮らしとった。漁に出た父ちゃんが、あの灯を頼りに帰ってくる。だから、灯が回っとるあいだは、安心でね。——七尾の灯は、岬の、命綱だった」
シゲさんは、それから、難破の夜のことも語った。
「波の悪い晩はね、ときどき、沖で、船が……」彼女は、声を落とした。「難破の知らせがあると、村じゅうが、浜に出てね。子供は出るな、と言われたけど、わしらは、こっそり見に行った。浜に、いろんなものが流れ着いてね。木の箱や、樽や。——今思えば、よその船の、よその人の、持ち物だ。けど、子供のころは、それが、宝物みたいに見えてね。みんなで、拾った。難破は、怖いことのはずなのに、どこか、浜は、浮き立っとった。——いま思うと、ぞっとする話だけどね」
難破は怖いことのはずなのに、浜は浮き立っていた。私は、港の老人の言葉を思い出した。流れ着いた荷を拾いに出た、と。この岬では、よその船の不幸が、長いあいだ、浜の恵みだった。その土壌の上に、もっと暗い何か——誰かが灯を操って、わざと船を沈めていたのだとしたら——が育っても、おかしくはなかった。
「灯子ちゃんたちのことも、その灯の下でね」シゲさんは、ふと、声を和らげた。「源助さんは、母親のない双子を、よく灯台に連れてきとった。仕事のあいだ、灯台のまわりで、二人を遊ばせて。——七尾の灯の、足もとでね。燈里ちゃんと、灯子ちゃん。二人で、手をつないで、あの数え唄を歌っとった。ひとつとせ、ふたつとせ、と。可愛い声でねえ。灯台守の、双子の娘。岬の、名物みたいなもんだった」
七尾の灯の足もとで、唄を歌う双子。私は、その情景を、頭に思い描いた。回る灯の下、手をつないで歌う、二人の幼い姉妹。やがて一人は、その灯台のいちばん上から落ちて死に、もう一人は、どこかへ消えた。あの数え唄は、もともと、あの姉妹が、灯の下で歌っていた唄だったのだ。
「今じゃ、七尾の灯、と呼ぶ者も、ほとんどおらん」シゲさんは、寂しそうに言った。「わしくらいの年寄りか、この岬で生まれ育った、古い人間だけだ。よそから来た人は、知らんよ。回光灯台、としか。——名前ってのはね、その土地で生きた者の口にだけ、残るもんでね。岬を出ていった者も、いつか忘れる。けど、ここで育った者は、年寄りになっても、ふっと出てくる。七尾の灯、とね。骨に、染みついとるから」
ここで育った者だけが、知っている。骨に染みついている。私は、その言葉を聞きながら、あの数え唄のことを思った。岬で育った者だけが、最後まで知っている唄。七尾の灯、という旧称も、同じだった。よそ者には、たどり着けない。岬の、古い記憶のいちばん深いところに沈んでいる言葉。——そして、その言葉を骨に染みつかせた人間の中に、灯子も、いた。
「灯子ちゃんのことは、まだ、わからんかね」シゲさんは、私を見た。海を見下ろす、あの墓の前で交わした約束を、覚えていた。
「まだ、何も」と、私は答えた。「行方は、知れないままです」
シゲさんは、小さくため息をついた。
「そうかい。……生きとると、いいんだけどね」彼女は言った。「あの子は、姉ちゃんと瓜二つでね。声まで、おんなじでね。よく、二人で唄を歌っとった。七尾の灯の下で」
瓜二つの双子。もし、灯子が今も生きているなら——死んだ姉と寸分違わぬ顔をして、どこかで年を重ねているはずだった。四十近くなった、燈里の顔で。けれど、それがどこなのかは、誰も知らない。生きているのかさえ、わからない。私は、その顔のない面影を、しばらく頭の中に置いていた。
シゲさんは、ふと、声を落とした。
「網代の旦那も、逝きなさったね」と、彼女は言った。
その死は、岬にも届いていた。網代は、この岬のすぐ近くの漁村の名士だった。崖から落ちて死んだ、と。
「この岬はね、昔から、よくないことが続く土地でね」シゲさんは、海のほうを見た。「海が、人を呑む。灯が、人を惑わす。古い者が、一人、また一人と逝く。——昔、ここであったことの、報いかもしれん。わしは、そんな気がするよ」
昔、ここであったこと。シゲさんは、それ以上は言わなかった。けれど、この老女もまた、岬の古い罪の匂いだけは、嗅いでいるようだった。それを語る言葉を、持たないだけで。沖野の一家が、まるごと呑まれていったのも、よその船が何度も沈んだのも、すべて、その「よくないこと」の一部なのだ。岬の古い人間は、それを口にはせず、ただ、海のせいに、灯のせいにして、生きてきた。
シゲさんの家を出ると、日が傾きはじめていた。
私は、書くことを、生業にしてきた。消えていくものを、消える前に、紙に留める。なかったことにされる死を、なかったことにさせない。——けれど、この岬では、ずっと逆のことが起きてきた。古い名が、消されていく。七尾の灯、という名が、回光灯台、に塗り替えられたように。難破の死が、海のせいにされたように。少女の死が、事故にされたように。誰かが、ずっと、この岬の記憶を、消しつづけてきた。書く者がいなければ、消す者の、思いのままだった。
そして、シゲさんのような古い人間が、いなくなれば。七尾の灯、という名も、灯子姉妹が唄を歌った記憶も、いつか、すべて消える。この岬の本当のことは、誰の口にも残らなくなる。——その前に。私は、書かなければ、と思った。たとえ、まだ、何も証せなくても。
私は、ノートに書いた、その字を、もう一度見た。七尾の灯。七つの岩を照らす灯。——七。私の中で、その数が、いくつかのものと重なりはじめた。
沖に、七つの岩。それを照らす、七尾の灯。そして、あの数え唄は、七つまである。七つとせ、灯の主は、ぐるりぐるりと、夜を守る。——この岬では、七、という数が、繰り返し現れる。岩も、灯の名も、唄も。まるで、七という数が、この岬の底に、刻まれているように。
その符合に、意味があるのか、ないのか。私にはわからなかった。ただ、七尾の灯、という古い名が、なぜか、心の隅に引っかかって取れなかった。確かめてもいないことを確からしく組み立てる、いつもの癖かもしれない。けれど、その癖が、これまで、いくつもの埋もれたものを掘り当ててきたのも、確かだった。
岬の先で、灯台が、夕日を浴びて白く立っていた。七尾の灯。七つの岩を、百年、照らしてきた灯。やがて日が落ちれば、また、十五秒に一度、回りはじめる。その灯を、私はしばらく見ていた。古い名で呼んでみると、同じ灯台が、少し違って見えた。よそゆきの「回光灯台」の下に、もっと古い、土地の記憶に根ざした、もう一つの名が、隠れていた。
隠れていた、もう一つの名。——私は、その言葉に、なぜか、ぞくりとした。理由は、わからなかった。ただ、この岬では、表向きの名の下に、もっと古い名が、ひっそりと、生き続けている。そのことが、その夕暮れ、なぜか、ひどく不穏なものに思えた。




