表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯台守の娘  作者: よしお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/18

灯台技師の沈黙

 鵜飼丈太郎は、海から遠い内陸の町にいた。


 暁人が、灯火月報の古い記録から、その名を拾い出していた。二十年前、回光灯台の設備の保守をしていた技師。灯台の機械をいちばんよく知っていた男だ。その後の足取りを、暁人は伝手をたどって追い、この町に行き着いた。灯台守の一家が消え、記者の社が焼けた、あの海から、ずいぶん離れた山あいの町だった。バスを乗り継いで着いたその町には、海の匂いがしなかった。潮の音も、鴎の声もない。灯台の機械に人生を捧げた男が、これ以上ないほど海から遠い土地に、流れ着いていた。それが、何かの答えのように、私には思えた。


 鵜飼は、その町の片隅で、小さな時計店をやっていた。


 鵜飼時計店、と色の褪せた看板が出ていた。間口の狭い、古い店だ。硝子戸の中に、古い柱時計が何台も並んでいた。掛け時計。置き時計。振り子のついたもの。文字盤の黄ばんだもの。どれも古いものばかりで、新しいデジタルの時計は一つもない。店に入ると、いくつもの時計がてんでに時を刻む音が、いちどに耳に来た。チ、チ、チ、と無数の秒針が、少しずつずれながら時を刻んでいる。ひとつの大きな時の流れではなく、何十もの小さな時が、ばらばらに刻まれている。その不揃いな音は、聞いているうちに、なぜか胸が騒いだ。


 その音の奥で、一人の男が作業台に向かっていた。


 六十には少し間があるだろう。痩せて、背の丸い男だった。分厚い眼鏡をかけ、ピンセットで小さな歯車をつまんでいる。手元のルーペの下で、その手は少しも震えていなかった。指の節が太く、爪のあいだに油の黒さが染みついている。機械に人生を捧げてきた、職人の手だった。


 私たちが入ってきても、男はすぐには顔を上げなかった。歯車を定位置に収めてから、ようやくルーペを外した。


「修理かね」


「いえ」と暁人が言った。「鵜飼丈太郎さん、ですね。回光灯台の機械を、見ておられた」


 鵜飼の手が、止まった。


 彼は、初めて私たちを正面から見た。眼鏡の奥の目が、用心深く、私たちの素性を測っていた。回光灯台、という言葉が、この男の中の何かに触れたのは、確かだった。


「……古い話だ」やがて、鵜飼は言った。「もう、二十年も触っとらん。何の用かね」


「あの灯台の機構のことを、教えていただきたくて」暁人は言った。「あれは、重錘式の時計仕掛けですね。今となっては、あの機構を本当に知っている人は、あなたくらいしかいない」


 時計仕掛け、という言葉に、鵜飼の警戒がわずかに緩んだ。灯台の機構の話。それなら、語ってもいい。そう判断したように見えた。あるいは、長く誰にも語れなかったものを、語りたかったのかもしれない。職人というのは、自分の手が覚えたものについては、つい口が動くものらしかった。


「……あれは、でかい時計だよ」鵜飼は、作業台の上の古い柱時計を、顎でしゃくった。「そこの柱時計と、理屈は同じだ。重りが降りる。その力で歯車が回る。柱時計は、その力で針を回す。灯台は、その力でレンズを回す。それだけのことだ」


「重錘は、相当な重さだと聞きました」と暁人。


「ああ。柱時計の重りとは、わけが違う」鵜飼は、ピンセットを置いた。話すつもりになったらしかった。「何十キロもある鉄の塊だ。それが鎖で吊られて、塔の中をゆっくり降りていく。何時間もかけてな。下まで降りたら、人が巻き上げてやる。巻き上げりゃ、また降りる。その降りる力が、歯車の列を回して、てっぺんのレンズを回す。十五秒に一回、きっかりとな。狂いは、許されん。十五秒が十六秒になっても、十四秒になっても、いかん。沖の船は、その十五秒を数えて、自分の居場所を知るんだ。灯質が狂えば、船は、欺かれる」


 灯質が狂えば、船は欺かれる。鵜飼は、それを、職人の口ぶりで、当たり前のことのように言った。正しい灯を語っているつもりで、その裏に、灯を狂わせれば船を欺ける、という事実を、そのまま裏返しに置いていた。私は、それを、聞きのがさなかった。


「巻き上げは、力のいる仕事ですか」と暁人が訊いた。


「いる。重いからな。それに、危ない」鵜飼は言った。「鎖が外れたり、歯止めが利かなんだりすれば、何十キロの錘が、いっきに落ちる。機構室で、それに当たったら、ただじゃ済まん。わしは、若い時分に、一度、見たことがある。巻き上げの最中に、歯止めが甘くてな。錘が、ずるっと落ちて……まあ、その話はいい」


 その話はいい、と鵜飼は、自分で打ち切った。けれど、何十キロの鉄が、塔の中を落ちる、という像は、私の頭に、冷たく残った。


「機構室というのは」と、私は訊いた。


「塔の、下のほうの部屋だ」鵜飼は言った。「歯車と、錘と、巻き上げの装置がある。狭い部屋でな。錘が降りるための、縦の空間が、天井から床まで、吹き抜けになっとる。そこを、錘が、ゆっくり降りていく。……あの部屋にいると、機械の息づかいが、聞こえるようだった。歯車が噛んで、錘が降りて、てっぺんのレンズが回る。塔ぜんたいが、一つの生き物みたいに、動いとった。わしは、あの部屋が、好きだった」


 好きだった。鵜飼の声に、ふと、別の色が混じった。


「百年、狂わなんだ機械だ」彼は言った。「明治の職人が、手で削った歯車が、百年、海の風に耐えてきた。わしが手を引いて二十年、それでも、いまも狂わず十五秒を刻んどるはずだ。あの機械なら、な。そんな機械は、めったにない。わしは、それを守るのが——」


 誇りだった。鵜飼は、その言葉を、最後まで言わなかった。さっき一度、口にして、すぐに沈めた、その言葉を。誇り、という言葉が、いまの彼には、もう、痛むのかもしれなかった。


「よくできた機械です」暁人は、静かに言った。「だが、よくできた機械ほど、扱いを知る者の手にかかれば、何にでも使える。——その十五秒を、わざと狂わせることも。ある晩だけ、灯を消すことも」


 店の中の、無数の時計の音が、急に大きく聞こえた。


 鵜飼は、答えなかった。けれど、私は見た。その手が、作業台の上で、ゆっくりと握りしめられるのを。油の染みた、節くれだった指が、何もない掌を、固く握った。


「……できるか、できないか、で言えば」やがて、鵜飼は、ほとんど独り言のように言った。「できる。あの機構を知っとる者なら、回転を遅らせることも、速めることもできる。覆いをかけることも。消すことも。難しいことじゃ、ない。わしらに、とっては——」


 そこで、鵜飼は、はっと口をつぐんだ。自分が何を言いかけたのか、気づいたように。わしらに、とっては。その一言が、宙に、取り残された。


「鵜飼さん」と、私は言った。


「……帰ってくれ」


 けれど、私たちは動かなかった。鵜飼も、すぐには作業に戻らなかった。彼は、握りしめた手をゆっくりと開き、その掌を見つめていた。何かを思い出すように。あるいは、その手が何をしたかを、確かめるように。


「……あの晩」鵜飼が、ぽつりと言いかけた。「あの晩、わしは——」


 無数の時計が、いっせいに、時を刻んでいた。


 けれど、鵜飼は、そこで口を閉ざした。固く。今度こそ二度と開かない、というように。あの晩。その三文字の先に、何があるのか。私は息を詰めて待った。けれど、鵜飼はもう、何も言わなかった。言いかけた言葉を、無数の歯車のあいだに、しまい込んでしまった。


 私は、鞄からあの便箋を取り出した。室戸のときと同じように、彼の目の前に広げた。けれど鵜飼は、それを見ても、室戸のようには崩れなかった。ちらりと一行を見て、すぐに目をそらした。そして、ますます固く、口を閉ざした。


「……知らん」鵜飼は言った。「わしは、何も知らん。帰ってくれ」


 室戸は、震えながらも、半分は漏らした。けれど、鵜飼は違った。この男の沈黙は、室戸の怯えとは別のものだった。怯えも、あった。けれど、それ以上に、何かを固く守っていた。自分の手が、かつてしたこと。その手で、灯に触れたこと。それを口に出してしまえば、自分が自分でなくなる。——そういう、職人の、最後の砦のような沈黙だった。


 ふと、私は思った。この人は、二十年、誰にも言わずに生きてきた。あの晩、自分の手が何をしたかを、たった一人で抱えてきた。そして、その同じ手で、いまも、時計を直している。壊れたものを直して、また正しく時を刻ませる。狂った時を、正しい時に、戻しつづけている。——かつて、自分が狂わせた灯の、償いのように。


「鵜飼さん」と、私は言った。「最近、燈屋家から、使いの方が来ませんでしたか。物静かな、女の人が」


 鵜飼の手が、また、ぴくりと動いた。


 彼は、答えなかった。けれど、その沈黙は肯定だった。来たのだ。網代のところにも、室戸のところにも来た、あの影のような女が。この、海から遠い町の時計店にまで。


「……あの集まりには、行かんよ」鵜飼は、ぽつりと言った。誰にともなく。「わしは、行かん。もう、あの岬には近づかん。灯台にも、あの家にも。——二度と」


 行かん、と繰り返すその声に、私は怯えを聞いた。使いの女は、この男にも、回光館の集まりを告げに来た。そして、この男は、それを恐れていた。集まりそのものを、か。それとも、その集まりで、何かが起きることを、どこかで、予感しているのか。


 それ以上、鵜飼は何も話さなかった。私たちが店を出るときも、彼は顔を上げず、ばらした時計の部品を、黙って組み直しはじめていた。チ、チ、チ、と、店じゅうの時計が、てんでに時を刻んでいた。その音の中に、鵜飼は自分を閉じ込めているように見えた。


 店を出ると、山あいの町は、もう暮れかけていた。


「話さなかったな」と、私は言った。


「ええ。だが、話さないことで、ずいぶん話してくれた」暁人は言った。「あの男は、灯台の機構を知り尽くしている。灯を狂わせることも、できる、と自分で言った。そして、その話になったとたん、手を握りしめ、口を閉じた。——あの灯は、人の手で狂わされたことがある。鵜飼は、それを知っている。いや、たぶん、その手の一つだった」


「灯を、操作した側」


「源助さん一人で、できることではなかったはずだ」暁人は言った。「灯台守は、灯を守る人だ。だが、機構そのものを細工する。いつもと違う回り方をさせる。消して、また点ける。そういう機械の側の仕事には、技師の手が要る。鵜飼は、その手だったのかもしれない。——だから、あの男は灯台を捨てた。海を捨てた。こんな海から遠い町で、小さな時計ばかり直して暮らしている」


 灯台を捨て、海を捨て、時計を直して暮らす。私は、あの無数の時計の音を思った。鵜飼は、毎日あの音の中にいる。重りが降り、歯車が回り、時を刻む音。灯台と同じ理屈の音だ。あの男は、灯台を捨てたつもりで、その実、灯台と同じ仕掛けに囲まれて生きていた。逃れられないものから逃れようとして。あるいは、忘れられないものを、そばに置いて。


 書くことを、私は仕事にしてきた。言葉にならないものを、言葉にする。誰も書かなかったことを、書く。それが、なかったことにされた死を、なかったことにさせない、ただ一つの道だと信じてきた。けれど、あの店には、言葉にされないまま、二十年、時を刻みつづけているものがあった。鵜飼の沈黙は、私の書くどんな言葉よりも、重く、雄弁だった。あの人は、語らないことで、すべてを語っていた。自分の手が、かつて灯を狂わせたこと。その灯が、船を、人を、海へ沈めたこと。そして、その罪を、二十年、たった一人で抱えてきたことを。


 いつか、あの人にも、沈黙を破ってもらわなければならない。けれど、それは、いつだろう。そして、それまで、あの人は——。私は、その先を、考えないようにした。


「網代、室戸、鵜飼」暁人は、指を折った。「三人とも、二十年前、回光岬の、あの死のまわりにいた。そして、三人とものところに、燈屋家の使いの女が来ている。集まりの知らせを持って」


「網代さんは、もう」


「死んでいる」暁人は低く言った。「使いの女が来た、そのあとに。——室戸と、鵜飼は、まだ生きている」


 まだ、生きている。その言葉が、夕暮れの町に冷たく落ちた。私は、隣町の外れの廃院を思った。止まった時間の中で、震える手をして、眠れずにいた、あの老人を。あの人の窓の灯は、今夜も灯っているだろうか。


 私たちは、もう一度、室戸に会いに行くべきだ。そう思った。鵜飼の沈黙は固かった。けれど、室戸は揺れていた。あの人なら、もう一度行けば、話してくれるかもしれない。それに——使いの女が来た、というその符合が、私の中で、嫌な熱を持ちはじめていた。早く、もう一度、あの人に会わなければ。なぜか、そんな焦りが、胸の底に生まれていた。


 山を下る最終のバスに、私たちは間に合った。窓の外を、見知らぬ町の灯が、流れて過ぎていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ