夜の潮
私たちが室戸の町に戻ったのは、翌日の昼前だった。
山あいの鵜飼の町から、夜のうちに引き返すことはできなかった。最終のバスで麓まで下り、駅前の安宿に一泊して、朝いちばんの電車に乗った。その間じゅう、私の胸の底には、あの嫌な熱がくすぶり続けていた。早く室戸にもう一度会わなければ。なぜこんなに焦るのか、自分でもわからなかった。ただ、間に合わないかもしれないという予感だけが、理由もなく濃くなっていった。
隣町の駅に降りた瞬間、その予感は形を持った。
駅前の新聞販売店の店頭に、地方紙が積まれていた。その片隅の見出しに、私の足が止まった。
元医師、入水か——。
短い記事だった。隣町の外れに住む元開業医(六二)が、近くの入江で遺体となって見つかった。事件性はないとみられる、とあった。名前は伏せられていた。けれど、隣町の外れの、元開業医。それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。
私はその新聞を買った。指がうまく動かなかった。
廃院に着くと、もう誰もいなかった。
住居のほうの窓は暗かった。あの夜、私が、いつまでも灯っていてくれと願った窓。もう灯ることはない。診療所の褪せた看板だけが、変わらず潮風に鳴っていた。止まった時間の中で、一人、罪を抱えて眠れずにいた老人は、もういなかった。私の願いは、二日ともたなかった。
近所の人に訊いて、室戸の遺体が上がった入江へ向かった。
廃院から海沿いにずいぶん歩いた場所だった。岩がちな小さな入江で、潮の満ち引きの大きいところらしい。昼の光の下では、ただ静かな入江だった。波が岩の間で、緩く寄せては返している。ここで二日前の夜、一人の老人が海に沈んだ。そう言われても、すぐには信じられないほど穏やかな場所だった。
入江のそばで、地元の年寄りが何人か立ち話をしていた。よそ者の私たちを、もの珍しげに見た。私が亡くなった医師のことを訊くと、一人が声をひそめて教えてくれた。
「気の毒にねえ。夜のうちに、海で」と、その老人は言った。「明け方、漁に出る者が見つけてね。満ち潮に、ずいぶん流されとったよ。どこで入ったんだか。お医者さんも、いろいろ苦しいことがあったんだろうって」
「いろいろ、と言うと」と、私は訊いた。
「眠り薬を、たくさん飲んどったらしい」老人は声をさらに落とした。「駐在さんが、そう言っとった。前から、眠れん眠れんと言うとったそうでね。それで思いつめて、薬を飲んで、海に入ったんじゃないか、と。家に書き置きみたいなものもあったらしいよ」
眠り薬。書き置き。私はそれを聞いた。
眠れぬ眠れぬと言っていた老人が、眠り薬を飲んで、夜の海に入った。誰が聞いても筋の通る話だった。罪に疲れた男の、入水自殺。あの眠れない目の下の隈を見た私には、なおさらもっともらしく聞こえた。あの人なら、そうしてもおかしくない。そう思いかけて、私はぞっとした。あまりに、もっともらしすぎた。
暁人は、入江のへりにしゃがみ、しばらく海を見ていた。それから立ち上がった。
「遺体は、満ち潮に流されていた、と言いましたね」と、彼は私に言った。「なら、どこで海に入ったかは、わからない。この入江とは限らない。潮は、人をずいぶん遠くまで運びます。——だから、ここで見つかったことに、意味を見すぎてはいけない。家のそばで入ったものが、ここまで流れてきた。そう考えても、おかしくない」
暁人は、まずそう言った。自分の見立てに、自分で釘を刺すように。確かめてもいないことを確からしく組み立てる。それを、この人もまた戒めていた。
「では、自殺、ということに」と、私は言った。
「断る材料は弱い」暁人はうなずいた。「肺の水が海水なら、海で溺れたのは確かでしょう。だが、それは自殺でも他殺でも同じことだ。海で死ねば、肺には海の水が入る。——ただ、一つだけ引っかかることがある。薬です」
「眠り薬」
「眠れぬ人が薬を常用するのは、わかる」暁人は言った。「だが、たくさん飲んでいた、と言いましたね。もし、致死量に近いほど飲んだのなら——それだけ飲めば、人は海に入る前に眠ってしまう。動けなくなる。薬で死のうとしたのなら、海に入る必要はない。海で死のうとしたのなら、これほど薬を飲む必要はない。その両方をいっぺんにやる。眠ってしまうほどの薬を飲んで、なお、自分の足で海に入る。——その順序が、私には引っかかる」
眠ってしまうほどの薬を飲んで、なお、自分で海に入る。私はその不自然さを、頭の中でなぞった。眠らされて、それから運ばれて、沈められたのだとしたら。薬も、海も、両方そろう。
「けれど」暁人は、すぐに続けた。「これも、証明にはならない。思いつめた人間が、薬を飲み、それでも海に入った。そう言われれば、それまでだ。人が死のうとするときに、何を考え、どう動くか。それは誰にもわからない。——私たちの手には、やはり、何もない」
そのとき、私の頭の中で、あの唄の一節が、ひとりでに鳴った。
四つとせ。夜の潮は、深く深く、みな眠る。
夜の潮。みな眠る。眠り薬で眠って、夜の満ちた潮に。網代は崖で、紙の舟を抱いて死んだ。唄の三番のとおりに。そして室戸は、夜の潮に、眠って沈んだ。唄の四番の、とおりに。
「東雲さん」私は、かすれた声で言った。「これは——」
「ええ」暁人は静かに言った。その目も、同じ唄を見ていた。「網代が三番。室戸が四番。——偶然では、ないでしょう」
彼は、それ以上は言わなかった。けれど、言わなくてもわかった。のどかな子供の数え唄が、一つ、また一つと、人の死で埋められていく。その不気味さに、私は昼の光の下で震えた。
けれど、それをどう証せばいいのか。
その日の午後、私は駐在所へ行った。暁人は入江に残って、もう少し見る、と言った。私一人で、土地の駐在に会った。
初老の、人の好さそうな駐在だった。私が、亡くなった医師のことで話がある、と言うと、お悔やみのような顔をした。けれど、私が話しはじめると、その顔は少しずつ、困惑に変わっていった。
私はできるだけ順序立てて話した。室戸の死は自殺ではないかもしれないこと。ひと月ほど前、回光岬の網代という人物が崖から落ちて死んでいること。その二人が、二十年前、回光岬のある少女の死に関わっていたこと。二人のもとに、死の前、燈屋家の使いの女が訪ねていたこと。私のところに、差出人のない告発状が届いたこと。——そこまで話して、私は駐在の顔を見た。
駐在は、困りきった顔をしていた。
「あのね、真壁さん、と言いましたか」と、彼は言葉を選ぶように言った。「お話はわかりました。わかりましたが……網代さんの件は、うちの管轄じゃありません。回光岬は別の署です。それも事故ということで、もう片がついている。室戸さんのことは、これから調べますが、見たところ、薬を飲んで、ご自分で海に入られた、と」
「でも、眠り薬をそれだけ飲んだ人が、自分で海まで」
「歩けないとは、言いきれんでしょう」駐在は、穏やかに、けれどきっぱりと言った。「それに、ご遺体はずいぶん流されとった。どこで入られたかも、はっきりせん。家のすぐ前の海から入って、流れ着いたのかもしれん。——思いつめた人が、何を考えて、どう動くか。それは誰にもわかりません。書き置きもあったんです。もう疲れた、と。それを、ご自分で書かれて、海に入られた。そう考えるのが、いちばん無理がない」
「使いの女は」
「燈屋さんの使いが、昔のよしみで年寄りを訪ねた。それの、どこがおかしいんですか」駐在は、少し苛立ったようだった。「失礼ですが、真壁さん。あなたは物を書く方だ。古い事件を掘り起こすのが、お仕事だと。お気持ちはわかります。けど、これは、お話を作りすぎだ。事故と、自殺。別々の場所で、別々に起きた不幸を、二十年前の話や、子供の唄と結びつける。——証拠が、何もない」
証拠が、何もない。
その言葉の前で、私は黙るしかなかった。駐在の言うことは、正しかった。私の手元には何もなかった。網代の手帳。使いの女の証言。便箋一枚。唄の符合。そのどれも、状況にすぎなかった。一つとして、人が人を殺したと証すものはなかった。私は、確かめてもいないことを、確からしく組み立てている。駐在の目には、そう映っていた。そしてそれは、私がいちばん恐れている、私の悪い癖の顔をしていた。
「……わかりました」と、私は言った。それ以上、言えることはなかった。
駐在所を出ると、日が傾きはじめていた。
暁人が、入江のほうから戻ってきた。私の顔を見て、結果は聞くまでもない、という顔をした。
「相手にされませんでした」と、私は言った。「網代は管轄違い。室戸は自殺。遺体は流された。使いの女は、ただの使い。唄は作りすぎ。——証拠が、何もない、と」
「でしょうね」暁人は、意外なほど落ち着いていた。「警察は、起きてしまったことを片づける場所だ。事故は事故、自殺は自殺。一つ一つ、別々に片づける。——いくつもの死を、一本の糸でつなげて見る。それは警察の仕事ではない。私たちの仕事です」
「でも、私たちには何の力もありません」私は、無力感に押しつぶされそうだった。「網代に会えば、網代が死ぬ。室戸に会えば、室戸が死ぬ。私たちはただ、犯人に、次は誰かを教えて回っているだけ。止めることが、できない」
暁人は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「室戸を死なせたのは、私たちではありません」彼は言った。「室戸を殺したのは、室戸を殺した人間です。私たちが訪ねたから死んだのではない。室戸は二十年前から、もう死ぬ場所に立たされていた。私たちはただ、その死に間に合わなかっただけだ」
間に合わなかっただけ。その言葉は、慰めにはならなかった。けれど、暁人がそれを、自分にも言い聞かせているのが、わかった。この人もまた、間に合わなかったことを悔いている。
私は、もう一度入江を見た。
夕方の潮が、ゆっくりと満ちはじめていた。二日前の夜も、こうして潮が満ち、その満ちた水のどこかに、一人の老人が沈んだ。眠れぬ夜を二十年過ごしてきた人だった。あの夜、ついに眠らされて。夜の潮の中で、深く、深く。——みな眠る、と唄は歌う。眠れなかった人が、ようやく眠った。こんな、むごい眠り方で。
「室戸さんは」と、私は言った。「あと一度、私たちが早く会えていたら。話してくれたかもしれない。あの人は揺れていました。すがるような目をしていた。本当は、誰かに話したかったんです。二十年、抱えてきたものを」
「ええ」暁人はうなずいた。「だから犯人は、急いだのかもしれない。室戸が揺れていることに気づいて。あの人が口を開く前に。——私たちが揺さぶったことが、皮肉にも、犯人を急がせた」
私たちが揺さぶったことが。私は唇を噛んだ。やはり、私たちは無縁ではなかった。
海の向こう、回光岬の方角が、夕日に赤く滲んでいた。
網代。室戸。二人が死んだ。唄の三番と、四番。そして、まだ生きている人々がいる。鵜飼。柚原。そして、館にこもる燈屋玄三。あの数え唄は、まだ半分も埋まっていない。次は五番。その次は六番。——そう考えて、私は頭を振った。唄の続きを、死でなぞろうとしているのは、私のほうではないか。けれど、もう、その考えを笑い飛ばすことはできなかった。網代と、室戸。二つの死が、唄のとおりに、すでに起きてしまっていた。
潮が満ちてくる。私たちの足元の、すぐ近くまで。私はその夜の潮の冷たさを思って、もう一度、身震いした。




