廃院の診療所
室戸壮一の家は、隣町の外れの、海に近い場所にあった。
かつて診療所だった建物だ、とひと目でわかった。海沿いの平屋の、古いコンクリートの建物。表に、褪せた看板が残っていた。室戸医院。内科・小児科。文字は潮に灼けて、半分が読めなかった。入口のガラス戸には、内側から色の褪せたカーテンが引かれていた。その下に、休診、と書かれた紙が、黄ばんで貼られている。ずいぶん長く、そのままなのだろう。診療所としての時間は、とうに止まっていた。
暁人は、その建物をしばらく見ていた。
「人は、住んでいますね」と、彼は言った。「診療所のほうは閉じている。だが、奥の住居に暮らしの跡がある。物干しに、洗濯ばさみが出ている。それも、一人分だ」
建物を読む。暁人は、ここでもそうしていた。室戸壮一という人間が、どんなふうにここで生きているのか。表札の出ていない戸口を見ただけで、彼にはもう、いくらか見えているようだった。
住居のほうの戸口に回って声をかけると、しばらくして、戸が細く開いた。
痩せた白髪の老人だった。六十の半ばを過ぎているだろう。かつては恰幅もあったのかもしれないが、今は頬がこけ、目の下に濃い隈があった。眠れていない人間の顔だった。彼は戸の隙間から、警戒する目で私たちを見た。
「……どなたかね」
「真壁と申します。物を書く仕事をしています」私は名乗った。「室戸壮一先生で、いらっしゃいますか」
室戸の眉が、わずかに動いた。先生、という言葉に、古い疼きを覚えたように。
「医者は、とうにやめた」と彼は言った。「先生、と呼ばれるような者じゃ、ない。……何の用かね。私は、誰とも会わんことにしとる」
「二十年ほど前、回光岬の灯台で亡くなった、沖野燈里さんのことで、うかがいたいことがあって」
その名を出した瞬間、室戸の顔から血の気が引いた。
彼は、何も言わずに戸を閉めようとした。私はとっさに、鞄からあの封筒を取り出した。ここで戸を閉められたら、もう二度とこの人は開けない。そう思った。
「先生。これを、見ていただけますか」
私は便箋を抜いて、彼の目の前に広げた。灯台の透かしの入った、一枚の紙。その中央の、一行。——二十年前、回光岬の灯台で死んだ少女は、事故ではない。殺されたのだ。
室戸の目が、その一行に釘づけになった。閉じかけた戸が、止まった。彼の手が、戸の縁を握ったまま、小さく震えはじめた。
「……どこで、これを」と、彼はかすれた声で言った。
「私のところに、届いたんです。差出人のない手紙として」
室戸は長いあいだ、その便箋を見ていた。それから、ふらつくように、戸を脇へ引いた。
「……入りなさい」
室戸医院は、診療所と住まいが、一つづきの建物だった。診療所をたたんでからも、室戸はここに住み、患者の来なくなった部屋を、少しずつ暮らしに使っているらしかった。住居の戸口を入ると、もとは待合室だった部屋に出た。
木の長椅子が、いくつか残っていた。受付の小窓も、薬の棚も、そのままだった。ただ、どれも白い埃をかぶっていた。時間が二十年前のある日で止まったような部屋だった。患者の来ないその部屋に、室戸は、自分の暮らしの道具を、少しずつ持ち込んでいた。古いストーブ。湯呑み。読みさしの本。止まった時間の上に、一人分の暮らしだけが、薄く積もっていた。
室戸は、長椅子の一つに崩れるように腰をおろした。私たちにも、座るよう目で示した。
「その手紙を書いたのが、誰か。心当たりは、ありますか」と、暁人が静かに訊いた。
「あるものか」室戸は即座に言った。けれど、その目は暁人を見ていなかった。膝のあたりの埃を見ていた。「二十年も前のことだ。私は、もう関係ない」
「燈里さんは、灯室の手すりを越えて落ちた、ということになっています」暁人は、室戸の否定を聞き流すように続けた。「あの手すりは、人の背より高い。うっかり越えて落ちる高さでは、ない。先生は遺体を診て、検案書を書かれた。その不自然さに、気づかれなかったはずはない」
「私は、見たままを書いた」室戸の声が低くなった。「遺体には、高いところから落ちた傷があった。それは事実だ。私は、嘘は書いていない」
「嘘は、書いていない」と、私はゆっくり言った。「でも、書かなかったことがあるのではないですか。手すりが高すぎること。突き落とされたのなら残る傷。争った跡。——書けば事故では済まなくなることを、先生は書かなかった。違いますか」
室戸は、答えなかった。膝の上で、両手を固く握っていた。その手が、また震えていた。
しばらく、誰も口をきかなかった。受付の小窓の向こうで、止まった柱時計が、針を二十年前のどこかに止めたままにしていた。
「……あんたらに、何がわかる」やがて、室戸は絞り出すように言った。「この土地で、燈屋家に逆らって生きていけると思うか。私は、ここで診療所をやっていくしかなかった。妻も、いた。患者も、いた。——玄三さんに、事故で、と言われて。逆らえる者が、この岬のどこにいた」
玄三さんに、事故で、と言われて。それは、半分の告白だった。室戸は、燈屋玄三に言われて、燈里の死を事故に仕立てた。そう言いかけて、なお、最後の一線だけは踏み越えまいとしていた。私は、暁人の言葉を思い出した。気づいていて目をつぶった人間は、二十年、それを忘れられない。忘れられないものを抱えて生きている。——室戸の、眠れない目の下の隈が、その二十年の重さを語っていた。
この人は、ずっと燈里の死を抱えてきたのだ。事故と書いた、その一枚の紙を。患者の来ない部屋で、止まった時間の中で、たった一人で。
「先生は、ご自分を責めてこられたんですね」と、私はつい言った。問い詰めるためではなく、ただ、そう思ったから。
室戸は、私を見た。何か言いかけ、それを飲み込んだ。その目が、一瞬、すがるように揺れた。けれど、彼は首を振った。
「……帰ってくれ。私は、何も知らん。事故だ。あれは、事故だったんだ」
言葉とは裏腹に、その声には力がなかった。事故だ、と繰り返すたびに、彼自身がその言葉を信じていないことが、伝わってきた。
私がもう一度、何か言おうとしたとき、室戸が、ふいに別のことを口にした。
「……あんたらだけじゃ、ない」彼は、虚ろな目で宙を見ていた。「最近、来たんだ。燈屋家から、使いが」
「使い」私は、暁人と目を見交わした。
「女だ。地味な、物静かな女でね。玄三さんの使いだと」室戸は言った。「昔のことで、近く、回光館で集まりを持ちたい、と。先生にも、ぜひお運びいただきたい、と。……二十年、何もなかったのに。なぜ、今になって。手紙は出回る。使いは来る。私のまわりで、何かが動いとる」
地味な、物静かな、女。燈屋家の、使い。
網代のときと、同じだった。網代の家政婦も、同じことを言った。地味で、化粧っ気がなく、顔さえ思い出せない、影のような女。燈屋家の使い。その女が網代を訪ね、網代はその数日後に、崖から落ちて死んだ。
私の頭の中で、またあの顔が浮かんだ。鎖の前で、私を無言で追い返した、温度のない女。あの管理人。けれど、私はその考えを、口には出さなかった。
代わりに、私は迷った。網代の死のことを、室戸に言うべきか。網代にも同じ女が来て、その数日後に死んだ、と。けれど、それを言って何になる。確かなことは、何もない。網代の死は、事故ということになっている。ただ、老人をいたずらに怯えさせるだけかもしれない。確かめてもいないことを、確からしく人に告げる。それは、私がいちばんしてはいけないことだった。
それでも、私は一つだけ、言わずにいられなかった。
「先生。もし、その集まりに行かれるなら」と、私は慎重に言った。「お一人では、行かれないほうが、いいかもしれません」
室戸は、訝るように私を見た。
「……どういう、意味かね」
「うまく、言えません」私は正直に言った。「ただ、二十年前のことが、今、動いています。先生のところにも、手紙が出回り、使いが来た。その動きの中で、すでに一人、——いえ。とにかく、お気をつけください。それだけです」
すでに一人。そこまで言いかけて、私は口をつぐんだ。網代の名は、出さなかった。室戸は、私の言いかけた言葉の先を、訝しげに探るようだったが、私はそれ以上、言わなかった。
室戸は、しばらく私を見ていた。それから、力なく首を振った。
「もう、帰ってくれ。私は、疲れとる」
それきり、彼は口を閉ざした。膝の上の、震える手をじっと見つめたまま。私たちは、それ以上、何も聞き出せなかった。
診療所を出ると、外はもう、夕方だった。
海から、湿った風が吹いていた。廃院の褪せた看板が、その風にかすかに鳴っていた。私は振り返って、その建物を見た。患者の来ない診療所。止まった時間。その中で、たった一人、罪を抱えて眠れずにいる老人。
「先生は、知っている」と、私は言った。「二十年前、あの灯室で本当は何があったのか。少なくとも、事故ではなかったことを。知っていて、それを二十年、抱えてきた」
「ええ」暁人は、海のほうを見ていた。「だが、まだ全部は話さない。燈屋家への恐れが、罪の重さより、まだわずかに勝っている。——あの人の口を開かせるには、もう一度来るしかないでしょう」
「もう一度」
「ええ。今日は、入口をこじ開けただけだ。次は、もう少し奥まで」暁人は、そこで言葉を切った。それから、低い声で付け加えた。「ただ、一つ、引っかかる」
「使いの女、ですね」と、私は言った。
「網代と、室戸。二人に、同じ女が来た。燈屋家の使い、と名乗る、地味な女が」暁人はうなずいた。「網代は、その女が来たあと、死んだ。室戸のところにも、その女が来た」
「室戸さんも、危ないと」
「わからない」暁人は慎重に言った。「使いが来たから死ぬ、と決まったわけじゃない。燈屋家の使用人が、昔の関係者に集まりの知らせを配って歩く。それ自体は、おかしなことではない。網代の死とて、まだ事故ということになっている。私たちは、何も証明できていない。——けれど」
彼は、廃院の、暗くなりかけた窓を振り返った。
「私たちが会いに行った相手が、すでに一人、死んでいる。網代だ。そして今日、私たちは室戸に会った。——私たちが誰を訪ねたかを知っている者がいるとしたら。その者にとって、私たちは、次の標的を教えて回っているのと同じだ」
私たちが、道案内になる。東京で、暁人が言った、あの言葉が、また耳の奥で鳴った。
私はもう一度、廃院を振り返った。住居のほうの窓に、明かりが一つ、灯った。室戸が、その止まった時間の中へ戻っていく。たった一人で。私は近いうちに、もう一度ここへ来よう、と思った。今度は、もっと聞かせてもらえるかもしれない。その明かりが、いつまでも灯っていてくれることを、私はなぜか、強く願った。
海の向こう、暮れていく空の下に、回光岬の方角があった。灯台は、ここからは見えなかった。けれど、日が落ちれば、あの灯はまた、十五秒に一度、回り出すのだろう。二十年前の、あの夜と同じように。室戸が、事故、と書いた、あの夜と。




