漁村の証言
隣町に着いたのは、昼前だった。
駅を出ると、潮の匂いがした。回光岬の、あの濃い潮ではない。もっと薄い、町の暮らしに混じった海の気配だった。それでも、その匂いをかいだだけで、私の体は岬での日々を思い出した。十五秒に一度の光。鎖の前の、温度のない女。崖から落ちた老人。東京の狭い部屋では遠い夢のようだったものが、ここではまた、すぐ手の届くところにあった。
私たちが目指していたのは、室戸壮一だった。二十年前、燈里の死を事故と断じた医師。彼はこの町の外れに、一人で暮らしているはずだった。けれど駅前の食堂で遅い朝飯を食べながら、暁人は別のことを言った。
「室戸の前に、もう一度、網代のことを調べておきたい」
「網代さんの」と、私は箸を止めた。「でも、あの人は、もう」
「死んでいる。だからです」暁人は、味噌汁の椀を置いた。「私たちがいま、確かにつかんでいる死は、網代のものだけだ。燈里の死は二十年前で、もう、調べるしかない。覚えている者は口を閉ざし、残っているのは、紙に書かれた断片だけだ。だが、網代の死は、つい先日だ。まだ、まわりの人間の記憶の中に、生きている。網代がなぜ、あの夜、あの崖へ行ったのか。それを覚えている人間が、まだ、この土地にいる。そういう記憶は、日がたつほど、薄れていく。それを聞かずに室戸の戸を叩くのは、目をつぶって次の部屋へ入るようなものだ」
目をつぶって、次の部屋へ。私は、東京で暁人が言った言葉を思い出した。私たちが訪ね歩くことが、誰かへの道案内になる。あの言葉の重さは、町を一つ越えても、少しも軽くなっていなかった。
網代権左の住んでいた漁村は、隣町から海沿いのバスで、三十分ほどだった。
回光岬の付け根に近い、小さな村だった。岬へ通う、あの細い一本道の、ずっと手前にあたる。ひと月ほど前、私は網代の屋敷を訪ね、その帰り道で、今夜は出かける、一人で行く、場所はわかっとる、という、あの低い声を、背中で聞いた。その村だった。あのときの私は、まさか、その声の主が、その夜のうちに死ぬとは思っていなかった。
網代の屋敷は、村のいちばん高いところにあった。白い塀。手入れのされた庭木。村のどの家よりも、立派な家だった。けれど、主を失ったその家は、ひと月前に見たときより、ずっと静かだった。雨戸の半分が閉ざされ、刈り込まれない庭木が、少しだけ伸びていた。立派なものほど、主がいなくなると、早く荒れて見える。
呼び鈴を押すと、見覚えのある女が出てきた。初老の家政婦だった。前に来たとき、私を応接間へ通した、あの女だ。女は私の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「あなたは、たしか……前に、旦那様に」
「真壁です」と私は名乗った。「その節は。……このたびは、ご愁傷さまでした」
女は、何とも言えない顔をした。礼を言うべきか、追い返すべきか、決めかねているようだった。網代が死んだ夜、その直前に網代を訪ねた、よそ者の物書き。この女の中で、私はたぶん、縁起の悪い客だった。私自身、その後ろめたさを、まだ下ろせずにいた。私が会いに行き、私が手紙のことを口にした、その夜に、網代は死んだ。あれが偶然でなかったのなら、この死には、私の足跡も、いくらか、混じっている。
網代に近い身寄りはなく、遠縁の者と、町の弁護士とが、家と財産の始末を進めているところだという。長くこの家に通った家政婦が、その片づけと留守番を、当面まかされていた。だから女は、まだ、この家にいた。主はいないのに、主の家の作法だけが、彼女の手足に残っているようだった。
女は、私たちを玄関の内へは入れたが、座敷へは上げなかった。三和土に立たせたまま、自分は上がり框に腰をおろした。主のいない家に、よそ者を上げることを、ためらっているふうだった。
「もう、警察も来んようになりました」と、女はぽつりと言った。「事故だ、と。それで、しまいです。旦那様は、あの晩、ふらりと出ていかれて、それきり、戻ってこられんかった」
「あの晩のことを、聞かせてもらえますか」と、暁人が静かに言った。
「あの晩……旦那様は、夕方から、落ち着かんようでした」女は、膝の上で手を組んだ。「日が暮れてから、出かける、と。お車は、と訊いても、いらん、一人で行く、と。お年だし、夜道は危ないですから、お止めしたんです。けど、旦那様は、聞かれんかった。場所はわかっとる、すぐ戻る、と。それが、最後の言葉でした」
場所はわかっとる。私が、背中で聞いたのと、同じ言葉だった。女も、同じ言葉を聞いていた。網代は、行き先を知っていた。誰かに、そこへ来い、と言われていた。
「網代さんは、なぜ、そんなに落ち着かなかったんでしょう」と、私は訊いた。「何か、心当たりは」
女は、少しためらった。それから、声を落とした。
「……あれは、その、三日ほど前でしたかね。お客が、ありましてね」
「お客」
「女の人でした」女は言った。「お若くは、ない。けど、年寄りでもない。私と同じくらいか、もう少し下か。地味な、紺の身なりで。化粧っ気もなくて。物静かな人でね。玄関で、燈屋さんの使いの者です、と」
燈屋さんの使い。
私は、暁人と目を見交わした。
「旦那様は、近ごろ、どなたにもお会いにならんかった。引退されてから、人嫌いが、ひどうなって。それが、燈屋さんの使い、と聞いたら、すぐに、お通しせえ、と。応接間で、二人きりで。私がお茶をお出ししたら、下がっとれ、と」
「その女の人と、網代さんは、何を話したんでしょう」
「わかりません。下がっとれ、と言われましたから」女は首を振った。「ただ……女の人が帰られたあと、旦那様は、ひどく不機嫌でね。お酒を、いつもより召し上がって。誰にも、燈屋さんから使いが来たことは言うな、と。きつう、言いつけられました」
言うな、と。けれど女は今、それを私たちに話していた。網代が死んで、口止めをした主は、もういない。あるいは、ずっと、誰かに話したかったのかもしれなかった。胸につかえた、その小さな石を。シゲさんのときと、同じだ、と私は思った。死んだ者の口止めは、死とともに、ほどけていく。
「その女の人の、顔は、覚えていますか」と、私は訊いた。
女は、しばらく考えて、首を振った。
「それが……不思議と、思い出せんのです。地味で、物静かで。これといって、人の目を引くところの、ない人でね。お茶を出した、ほんの少しのあいだ、そばにいただけですけど。顔より、何より、あの、声のない感じだけが、残っとります。なんというか……影みたいな人でした」
影みたいな人。私は、その言葉に、ぞくりとした。鎖の前で私を追い返した、あの管理人も、そういう女だった。そこにいるのに、いないような。温度の、ない女。
「旦那様の持ち物は、警察から戻ってきました」女は立ち上がり、奥から、小さな手帳を持ってきた。黒い、古い、革の手帳だった。「これも。崖から落ちたときに、持っておられたものだそうで。旦那様は、身寄りの薄い方でね。返されても、私には、どうしていいか」
女は、その手帳を、暁人に渡した。暁人は、断りを言ってから、それを開いた。几帳面な、けれど少し震えた字が、並んでいた。約束の覚え書き。誰かの電話番号。村の寄り合いの日取り。生きていた男の、ありふれた予定が、最後のページに近づくほど、まばらになっていく。そして、いちばん新しい書き込みのあるページで、暁人の指が止まった。
二十年前の件。使いの者。回光、旧き処。
「回光、旧き処」と、暁人は低く読んだ。「網代は、呼ばれていた。二十年前の件で。燈屋家の、使いの者に。——回光岬の、古い場所へ」
古い場所。私は、あの崖を思った。岬の旧い展望台。手すりの低い、忘れられた崖。網代は、あそこへ、自分の足で行った。誰かに呼ばれて。二十年前の件で話がある、と言われて。引退して人嫌いになった老人が、夜道を一人で歩いてまで応じたのは、相手が、燈屋家の名を負っていたからだ。
「事故では、なかった」暁人は、手帳を閉じた。「少なくとも、ただ足を滑らせただけ、ではない。網代は、呼び出されて、あの崖へ行った。燈屋家の名を使う、誰かに。そして、落ちた。——燈屋家の名は、この土地では、老人を一人、夜の崖まで歩かせる力を持っている」
燈屋家の名を使う、誰か。私の頭の中では、一つの顔が、もう浮かんでいた。地味な、紺の身なり。化粧っ気のない、物静かな顔。私を、鎖の前で、無言で追い返した、あの管理人。あの女が、燈屋家の使い、と名乗れば、それは、嘘ではなかった。
「東雲さん」と、私は言った。「燈屋家の使いの女、というのは……あの、館の管理人では、ないでしょうか」
暁人は、すぐには答えなかった。
「かもしれない。あの家で、使いに立てる女といえば、まず、あの管理人だ」彼は、慎重に言った。「だが、それだけでは、何も言えません。燈屋家の使用人が、主の名代で、古い知り合いを訪ねる。それ自体は、おかしなことではない。網代と燈屋家は、二十年来の深い仲だ。使いが行き来しても、不思議はない」
「でも、その使いが来た、三日あとに、網代さんは——」
「死んだ」暁人は、うなずいた。「ええ。それが、引っかかる。使いが来て、網代は落ち着きをなくし、口止めをされ、そして夜、一人で崖へ呼び出されて、死んだ。——使いが来たことと、網代が死んだことを、線で結びたくなる。私も、結びたい。だが、今は、まだ結べない。一人の女が一度、訪ねてきた。それだけです。網代がどうして崖から落ちたのか、見た者は、一人もいない」
暁人は、いつも、そうだった。証言と、符合と、引っかかり。それをいくつ積んでも、見た者がいない一点には、用心深く、踏み込まない。けれど、その慎重さの底で、彼が何を感じているかは、わかった。私も、同じものを感じていた。事故という、おもての話の、その裏に、確かに、誰かの手があった。その手は、燈屋家の名を、手袋のように嵌めていた。
私たちは、家政婦に礼を言い、手帳のことは、警察に伝えるよう勧めて、屋敷を出た。
外には、海から強い風が吹いていた。
しばらく、私たちは黙って、坂を下りた。手に入れたものは、小さかった。けれど、重かった。網代の死の前に、燈屋家の使いの女が来ていた。網代は、二十年前の件で、岬の古い場所へ呼び出されていた。それを記した、震える字の手帳。一つ一つは、何の証拠にもならない。けれど並べると、事故、という言葉が、急に薄っぺらく見えてくる。
「これから、室戸に会いに行く」と、私は言った。坂の途中で、足が止まっていた。「もし、室戸のところにも、その、使いの女が来ていたら」
暁人は、答えなかった。けれど、その沈黙が、答えだった。
網代のときと、同じだとしたら。使いの女が来て、それから、その人は死ぬ。私たちが、これから室戸を訪ねることは、室戸にとって、何を意味するのか。私たちが関係者を一人ずつ訪ね歩くことは。——東京で暁人が言った言葉が、また、耳の奥で鳴った。私たちが、道案内になる。次は誰か、私たちが、教えてしまう。
けれど、訪ねなければ、何もわからない。室戸が、二十年前のあの夜、灯室で本当は何を見たのか。それを聞けるのは、室戸が、まだ生きているあいだだけだ。私たちが行かなければ、室戸は安全なのかもしれない。私たちが行けば、室戸を危うくするのかもしれない。けれど、行かなければ、燈里の死は、永遠に、事故のままだ。どちらを選んでも、後ろめたさが残る。その後ろめたさごと、私は、この仕事を選んだのだった。
風が、海から吹き上げてきた。その向こう、岬の先のほうに、回光灯台の白い塔が、小さく見えた。昼の光の中で、灯は消えていた。けれど夜になれば、また十五秒に一度、回り出すのだろう。誰が生きていようと、誰が死のうと、何ごともなかったように。
私たちは、坂を下りきり、室戸の待つ町へ、引き返した。




