表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯台守の娘  作者: よしお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/17

旅の支度

 東京に戻ると、岬での日々が、まるで長い夢のように感じられた。


 アパートの三階。隣の建物の壁しか見えない、いつもの窓。非常階段の蛍光灯は相変わらず、ついたり消えたりを続けていた。私が岬へ発つ前と何一つ変わっていない。


 けれど、私のほうは変わってしまっていた。あの手紙が届く前の自分には、もう戻れない気がした。岬の潮の匂い。回光灯台の、十五秒に一度の光。鎖の前で私を追い返した、あの女の温度のない顔。死んだ網代の、ポケットの紙の舟。それらが、東京のこの狭い部屋までついてきていた。目を閉じると、いつでも、あの灯が回っていた。


 机の上には、書きかけのまま放り出した、商店街の原稿があった。締め切りは、とうに過ぎている。編集者から、催促の電話が、何度も入っていた。私は、その原稿を、ようやく最後まで書き上げて、送った。立ち退きで消えていく、古い商店街の話。乾物屋の主人の言葉。喫茶店の女将の沈黙。書き終えてしまえば、あの人たちの店は本当になくなる。そう思って、ずっと指が止まっていた原稿だった。


 けれど、岬から帰った私には、その理屈がもう通らなくなっていた。書こうが書くまいが、店はなくなる。違うのは、書けば、その店があったことが誰かの記憶に残る、ということだけだ。書かなければ、なくなったことすら、誰も知らない。書かないでいることは、優しさではない。ただの見て見ぬふりだ。


 書き上げて、送ってしまうと、不思議と、心が定まった。


 書くというのは、そういうことだ。消えてしまうものを、消える前に、紙の上に留める。なかったことにされる死を、なかったことにさせない。私が十二年やってきたのは、それだった。回光岬で起きていることも、結局は、同じだった。二十年前、なかったことにされた、一人の少女の死。それを、もう一度、誰かが、なかったことにさせまいとしている。差出人のない、あの手紙の主が。


 その人は、なぜ私を選んだのだろう。何度も考えた。たくさんいる物書きの中から、なぜ私のところに、あの一枚が届いたのか。もしかしたら、その人は私のこれまでの記事を読んでいたのかもしれない。片づけられた死に目を向け、たとえ答えにたどり着けなくても、なかったことにはさせまいとしてきた、私の記事を。これまで掘り返した死のいくつかは、結局、何の決着にも行き着かなかった。あの踏切の男のように、事故とも自殺とも書けずに、終わったものもある。それでも、目だけはそらさずにきた。——だとしたら、その人が私に求めているのも、必ず真相を暴くことではないのかもしれない。二十年前のあの死を、もう一度、誰かに見てほしい。なかったことのまま、終わらせたくない。それだけ、なのかもしれなかった。


 私は、岬で書きためたノートを、机に広げた。


 何冊にもなっていた。回光岬。燈屋家。沖野家。灯火と難破。検案書の余白。そして、わらべ唄。ばらばらに見えた断片が、ノートを繰るうちに、一つの形に寄り集まっていく。まだ輪郭のはっきりしない形だった。けれど、その中心に二十年前の灯台での死があることだけは、確かだった。


 そして、その死のまわりに、二つの問いが立っていた。一つは、二十年前、本当は何が起きたのか。もう一つは、今、誰がそれを暴こうとしているのか。過去と、現在。その二つの問いは、どこかで一本につながっている。私には、そう思えてならなかった。


 翌日、暁人から電話があった。


 彼も、東京に出てきている、という。古い灯台の、別の調べ物のついでだ、と本人は言ったが、本当にそのついでなのかは、わからなかった。私たちは、駅の近くの、古い喫茶店で会った。


 暁人は相変わらず、よれた上着を着て、紙の束を詰めた鞄を提げていた。けれど東京の雑踏の中で見ると、岬で見たときよりも、どこか所在なげだった。建物としゃべるほうが好きな男には、人の多すぎる街は向いていないのかもしれない。


 私はふと、この男のことを何も知らないことに気づいた。東雲暁人。年も、素性も、なぜ灯台に取り憑かれているのかも、知らない。事件のにおいのする土地に現れる、と知人は言った。けれど、なぜ現れるのか。彼自身、何かを探しているのだろうか。訊いてみたい気もしたが、訊いてもはぐらかされる気がした。この男は、人のことは話さない。建物のことしか話さない。


「これから、どうしますか」と、私は訊いた。


「あなたは、どうするんです」暁人は、逆に訊き返した。「ここで、やめることもできる。手紙のことは、忘れて、いつもの仕事に戻る。網代という人が、一人死んでいる。これ以上、深入りするのは、危ないかもしれない」


「やめません」と、私は言った。迷いは、なかった。「ここでやめたら、あの少女の死は、二度、なかったことになります。一度目は、二十年前に。二度目は、私が、目をそらすことで」


 暁人は、少しのあいだ私を見ていた。それから、小さくうなずいた。


 危ないかもしれない、と暁人は言った。網代が死んでいる。確かに、危ないのだろう。けれど私は、これまでも危ない場所に何度も足を踏み入れてきた。立ち退きを迫る地上げ屋。施設の闇。そういう場所で、私は何度も脅された。それでも書いてきた。今度も同じだ。怖くないわけではない。ただ、怖さよりも知りたさのほうが、いつも、わずかに勝つ。それだけのことだった。


「では、関係者に、会いに行きましょう」


 私たちは、喫茶店のテーブルに、ノートを広げ、これからの道筋を、組み立てていった。


 二十年前、灯台での死に関わった人間。生きていて、まだ会えるかもしれない人間。網代権左は、もういない。彼は、私が会ったその夜に死んだ。だから、次に会う相手のことを思うと、私の中には、知りたさと同じだけの後ろめたさがあった。私が訪ねることが、その人を危険にさらすのかもしれない。けれど、訪ねなければ、何もわからない。


 名簿には、ほかに何人かいた。


 室戸壮一。燈里の死を事故と断じた医師。隣町の外れに、今も住んでいる。暁人が医師会の古い名簿から住所を割り出していた。妻に先立たれ、一人で暮らしているという。


 柚原。事故報道を書いた記者。地方紙を退職して、今は隣の県の海沿いの町にいるらしい。暁人の伝手で、おおよその居場所だけは掴めていた。


 そして、もう一人。暁人が、灯火月報の記録から、見つけ出していた名前があった。


「鵜飼丈太郎」と暁人は言った。「二十年前、回光灯台の設備の保守をしていた技師です。灯台の機械を、いちばんよく知っていた男だ。灯のことで何か知っているとすれば、この人かもしれない」


「灯台の、機械」と私は繰り返した。


「ええ。灯を点すのも消すのも、あの古い機械です。重い錘でレンズを回す、時計仕掛け。それを保守していた人間なら、灯をどう操れば、どうなるかを知っている。もし、図書館で話したとおり、誰かが灯を操って船を七つ岩に誘い込んでいたのだとしたら。灯を操る役には、技師の腕が要ったはずです」


 灯を操作する役。私は、その言葉を書き加えた。


 灯台の機械を、いちばんよく知っていた男。私は、その名前も、ノートに書き加えた。


 室戸。柚原。鵜飼。三人とも、二十年前、回光岬の、あの死のまわりにいた。そして三人とも、今は、土地を離れて、ばらばらの場所に、暮らしている。会うには、こちらから、一人ずつ、訪ねていくしかなかった。


「順番は」と、私は訊いた。


「近いところから」暁人は言った。「まず、室戸という医師から。検案をした人間だ。二十年前の死に、いちばん近いところにいた」


 私は、うなずいた。


「一つ、気になっていることがあります」と私は言った。「もし、あなたの想像が正しくて、消えたあの娘が、戻ってきて唄の通りに人を殺しているのだとしたら。私たちが関係者を訪ね歩くことは、その人にとって、どう見えるんでしょう」


「邪魔者、と見えるかもしれない」暁人は静かに言った。「あるいは——道案内、と見えるかもしれない。私たちが関係者を一人ずつ訪ねていけば、その人は、私たちのあとをついてくるだけでいい。次は誰か、私たちが教えてしまうことになる」


 道案内。背筋が冷たくなった。


 別れぎわ、暁人は、ふと、こんなことを言った。


「一つ、約束してほしいことがあります」彼は、めずらしく、まっすぐに私を見た。「これから会う人間の中に、もし、犯人がいたとしても——いや、犯人かもしれない、と思える人間に会ったとしても。一人で、問い詰めないでください。網代という人は、私たちが手紙のことを口にした、その直後に、死んでいる。何かに触れると、何かが、動く。そういう事件だ。一人で動くのは、危ない」


「あなたは、犯人が、誰だか、見当がついているんですか」と、私は訊いた。


 暁人は、答えなかった。少しのあいだ、窓の外の、人の流れを見ていた。


「見当、というほどのものは、まだ、何も」やがて、彼は言った。「ただ、一つだけ、感じていることはあります。——この事件の犯人は、たぶん、私たちが会いに行く相手より、ずっと近くに、いる。私たちのすぐそばに、もう、いるのかもしれない。気づかれないまま」


 私たちのすぐそばに。私は、その言葉の意味を、掴みかねた。私たちのまわりに、犯人がいるはずもない。私と暁人と、それから、岬で会った人々。女将。漁協の老人。シゲさん。——どの顔も、犯人とは、結びつかなかった。


 けれど、一つだけ、結びつかないまま、頭の隅に、引っかかる顔があった。鎖の前で、私を無言で追い返した、あの管理人の、温度のない横顔。


 私は、その考えを、頭から振り払った。また、いつもの癖だ。確かめてもいないことを、確からしく組み立ててしまう。あの管理人は、燈屋家に長く仕えてきた、ただの使用人だ。それ以上の何者でもない。


 けれど、暁人の言葉は、その晩なかなか消えなかった。私たちのすぐそばに、もう、いるのかもしれない。気づかれないまま。——もしそれが本当なら、私が探している相手は、私が探していることを、とうに知っているのかもしれなかった。


 数日後、私は、旅の支度を整えた。


 大きすぎない、古いボストンバッグ。何日分かの着替え。新しいノートを数冊。録音用の小さな機械。長年こうやって、いくつもの取材に出てきた。けれど今度の旅は、これまでのどれとも違う気がした。これまでは、すでに起きたことを書きに行った。今度は、まだ終わっていないことのただ中へ、入っていく。


 いちばん上に、あの便箋を入れた封筒を、そっと入れた。灯台の透かしの入った、差出人のない、一枚の手紙。すべての始まりだった、その一行を。


 窓の外では、東京の空が、薄く曇っていた。回光岬の、あの灯台は、ここからは見えない。けれど、今夜も、あの灯は、十五秒に一度、海をなでているのだろう。二十年前と、同じ間隔で。その光の下に二十年前の死があり、それを今、なかったことにさせまいとしている誰かがいる。


 その誰かは、もしかしたら、二十年前に引き裂かれた、あの双子の片割れなのかもしれない。別れたくないと泣きながら、姉の手を握っていた、幼い灯子。その指を、一本ずつほどかれた娘。もしそうだとしたら、私が会いに行くのは、犯人ではない。二十年、たった一人で家族の死を抱えてきた、一人の人間だ。


 私は、その誰かに、会いに行く。


 手紙の主に。あるいは、二十年前の死の、真実に。


 翌朝、私と暁人は、室戸壮一の住む、隣町へ向かう列車に、乗った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ