見えない糸
灯子が生きているのか、死んでいるのか。それを確かめる方法は一つしかなかった。戸籍である。
人が死ねば戸籍に死亡届が出され、除籍される。死亡届が出ていなければ、その人間は戸籍の上では生きていることになる。
私はこれまでの取材でも、何度か戸籍に助けられてきた。人は嘘をつくが、戸籍はめったに嘘をつかない。生まれた日、親の名、いつ誰と結婚し、いつ死んだか。役所の紙の上に、人の一生の骨組みが淡々と記されている。暁人が建物を読むように、私は戸籍を読んできた。
暁人は古い知り合いだという行政書士を通じて、たどれる範囲で灯子の戸籍の動きを追ってくれた。結果が来るまで数日かかった。そのあいだ私たちは岬の宿で待った。私はノートを何度も読み返し、暁人は相変わらず灯台の図面を飽きもせず眺めていた。
数日して、暁人がその結果を私に伝えた。
「沖野灯子の死亡届は、出ていません」と彼は言った。「除籍もされていない。戸籍の上では、灯子は今も生きています」
生きている。少なくとも、書類の上では。
「ただし、それが、本当に生きているという意味かどうかは、別です」暁人は続けた。「身寄りのない人間が、よその土地でひっそり死ねば、死亡届が出されないまま、戸籍だけが残ることもある。無縁仏として葬られて、誰も役所に届けない。そういう死に方をした人間の戸籍は、いつまでも、生きていることになっている」
「では、灯子は」
「わかりません。本当に、どこかで生きているのか。それとも、誰にも知られずに、もう死んでいるのか。戸籍は、そのどちらも、否定しない」
どこかで生きているか、誰にも知られず死んでいるか。その二つのあいだで、灯子という名前だけが二十年、宙づりになっていた。
二十年。その歳月の長さを私は思った。灯子が今も生きているなら、もう四十に近い。子供のころ歌った数え唄も、引き裂かれた姉のことも、ずっと遠い昔になっているはずの歳月だ。人は二十年あれば、たいていのことを忘れて生きていける。忘れずにいるほうが、よほど難しい。
「忘れて生きているなら、それでいい」と暁人が言った。「灯子がどこかで、何もかも忘れて穏やかに暮らしているなら、それがいちばんいい。けれど、もし忘れていないなら。二十年、忘れずに抱えてきたなら。そのときは、別の話になります」
別の話。私はその言葉の重さを、まだ正確には量れずにいた。
その晩、私は宿の女将に、双子のことを訊いてみた。沖野の姉妹のことではなく、もっと一般の、この土地で、双子というものが、どう見られてきたのか、を。
女将は、少し考えてから、こんな話をした。
「昔の人はね、双子を、ちょっと特別なものだと、思っとったみたいですよ」と彼女は言った。「片方が痛い思いをすると、もう片方も痛がる。離れていても、片方に何かあると、もう片方が、ふっと胸騒ぎがする。——そういう言い伝えが、この岬には、あってね。海の仕事をする土地だから、よけいに、そういうことを、信じたんでしょう。船で沖に出た者と、浜で待つ者が、見えない糸でつながっとる、という話と、どこか似てますね」
「ただの言い伝えですけどね」女将は湯呑みを両手で包んだ。「でも、あの沖野の双子は、ほんとうに仲がよかったから。下の子がよそへやられたあとも、上の燈里ちゃんは、よく海を見とったそうですよ。妹が海の向こうにおるから、と。海のずっと向こうに、もう一人の自分がおると思うと——寂しいような、心強いような、不思議な気持ちだったでしょうね」
見えない糸で、つながっている。
「だから」女将は、声を少し落とした。「沖野さんの、上の娘さんが亡くなったとき、年寄りたちは、言ったそうですよ。下の娘さんは、どこにおっても、きっと、姉さんの死を、感じ取ったはずだ、と。双子だから、と」
姉の死を、感じ取った。私はその言葉を書きとめた。迷信だと思った。双子にそんな力があるはずもない。けれど迷信の底には、しばしば人の願いが沈んでいる。引き裂かれた姉妹が、せめて見えない糸でつながっていてほしいという、土地の人々の古い願いが。
双子のことをもっと知りたくて、私はシゲさんに電話をかけた。別れぎわに、あの小さな家の古い電話番号を聞いておいたのだ。シゲさんは私の声を覚えていた。双子のことを訊くと、しばらく黙ってから、こう言った。
「あの二人はね、一つの命を二つに分けたみたいな子だったよ」しわがれた声が受話器の向こうで言った。「下の灯子ちゃんがよそへやられる日。源助さんが、二人を引き離すのに難儀してねえ。灯子ちゃんが、姉ちゃんの手を離さんのだよ。ぎゅっと握って。源助さんが、しまいに、灯子ちゃんの指を、一本ずつほどいて。わしは、あれを今でも夢に見ることがある。あんな可哀想な別れは、なかったよ」
受話器を置いたあと、私はしばらく動けなかった。指を一本ずつほどかれる、幼い灯子。私には兄弟がいない。一人で生まれ、一人で生きてきた。だから双子の絆の深さを、本当のところはわからない。けれど、わからないなりに想像はできた。自分の半分がどこか遠くで引き裂かれて死んだとしたら。その死が、誰かにわざと仕組まれたものだったとしたら。私なら、どうするだろう。
女将とシゲさんから聞いた双子の話を、翌日、私は暁人にした。
暁人は、双子の言い伝え——見えない糸という迷信そのものには、興味を示さなかった。彼が反応したのは、灯子という一人の人間が辿った人生のほうだった。
「灯子が姉の死を本当に感じ取ったかどうかは、どうでもいい」と彼は言った。「迷信です。けれど——感じ取ったかどうかは別として、灯子がいつか、姉の死の真相を知る可能性は、ある。それが、いつ、どんなふうにかは、わからない。けれど、もし、知ったとしたら」
彼は、そこで、少しのあいだ、黙った。
「考えてみてください。灯子という人間がどういう人生を歩んできたか」暁人はゆっくりと言った。「七つか八つで生まれた家から引き離された。双子の姉と泣きながら別れた。引き取られた先の養父を海で亡くした。残された養母と遠い土地へ移ったあとは、足取りもわからない。そして、たった一人の姉も、灯台から落ちて死んだ。父も海で死んだ。血のつながった家族はみな死に、育ての家とも、生まれた土地とも、引き離された。気がつけば、灯子の足元には、何も残っていなかったはずです」
一人残らず、消えていた。
「その死は、どれもばらばらの不幸として、灯子のところに届いたはずです」暁人は続けた。「養父は海の事故。姉は灯台の事故。父は海での事故。別々の場所で、別々のときに起きた、それぞれの不幸。誰も、それらが一本の線でつながっているとは思わない。灯子自身も、長いあいだ思わなかったでしょう。ただ、運の悪い娘だ、家族に縁の薄い娘だ、と」
「もし、その灯子が、あるとき、知ってしまったとしたら」暁人は、私を見た。「姉の死が、事故ではなかったと。父が、灯を守らされていたと。そして、自分の養父の船を沈めたのも、姉を死なせたのも、同じ一つの家だったと。——その人間は、何を、思うでしょうか」
私は、答えられなかった。
暁人は、それ以上、言わなかった。けれど、言わなくても、その先は、私の中に、冷たく、形を結びつつあった。二十年前、灯台で死んだ少女は、事故ではない、殺されたのだ。その一行を、誰よりも知りたい人間。その一行を、書く理由を、誰よりも持っている人間。それは、消えた、もう一人の娘ではないか。
けれど、私はその考えを、口に出すことができなかった。
口に出してしまえば、それが本当のことになってしまう気がした。消えた、今は四十近いはずの女が、二十年の歳月をかけて、自分の家族を奪った者たちのところへ戻ってきている。網代を崖から突き落として。子供のころ歌った、あの数え唄の通りに。
「東雲さん」私はようやく言った。「もしあなたの言う通りなら。灯子が戻ってきているのなら。あの人は、まだ終わっていないことになります。網代の死は、唄の三番だった」
「ええ。ですが、それはまだ私たちのただの想像です」暁人は静かに言った。「証拠は何もない。網代の死が唄に重なった。それだけだ。——ただ、もし本当にそうなら、一つ言えることがある。その人間は、ひどく辛抱強い。二十年、灯子は消えていた。慌てて何かをした形跡はない。じっと待って、準備をしていた。衝動で人を殺す人間より、ずっと恐ろしく、ずっと悲しい人間です」
辛抱強く、悲しい人間。私はその言葉を書きとめた。
灯子がどこにいるのか、わからない。生きているのか、死んでいるのかも、わからない。わかっているのは、もし生きているなら、その人間が二十年前の死を、誰よりも知りたいと思っているだろう、ということだけだった。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
頭の中で、二人の幼い姉妹が、手をつないで、あの数え唄を歌っていた。別れたくない、別れたくない、と泣きながら。やがて一人は、灯台のいちばん上から、落ちて死んだ。その姉の死を、もう一人は、見えない糸の先で、感じ取ったのだろうか。それとも、何も知らないまま、遠い土地で、別の人生を、生きていたのだろうか。
どちらであっても、と私は思った。どちらであっても、もし、あとから真相を知ったなら。その人間の中で、二十年前の、あの引き裂かれた日が、もう一度、開くだろう。別れたくない、と泣いた、あの日が。
窓の外では、回光灯台の灯が、十五秒に一度、海をなでていた。その光の届く先の、暗い海のどこかに、双子のもう一人が、いるような気がした。けれど、それがどこなのかは、わからなかった。
翌朝、私と暁人は、岬を離れることにした。
バス停まで、女将が見送りに来てくれた。また来てくださいね、と言いながら、その目にはどこかほっとした色も混じっていた。よそ者が燈屋家のことを嗅ぎ回るのは、この土地の人間にとって、やはり厄介なことだったのだろう。シゲさんにもう一度会えたら、と思ったが、時間がなかった。沖野家の墓に灯子のことを伝える、あの約束は、まだ果たせていなかった。
この土地で、これ以上、聞けることは、もう、多くなかった。生きている関係者は、みな、土地を出ている。室戸という医師も、隣町の外れにいる。柚原という記者も、どこかにいる。二十年前のことを、本当に知っている人間に会うには、こちらから、彼らのところへ、行くしかなかった。
私は鞄に、あの便箋を入れた。灯台の透かしの入った、差出人のない一枚の手紙。すべての始まりだった、その一行を。
この手紙を書いた人間に、私はまだ会っていない。けれど岬を離れる今、その人間の輪郭を、最初の夜よりずっとはっきりと感じていた。燈屋家の紙を使える誰か。岬で育った誰か。二十年前の死に、誰よりも深く傷ついた誰か。——その三つが、もし一人の人間の中で重なっているのだとしたら。
灯子という、消えた娘の影を追いかけるように、私たちは岬をあとにした。
バスが岬の一本道を離れていくとき、私は後ろを振り返った。遠ざかる岬の先に、回光灯台が昼の光の中に白く立っていた。あの灯台で一人の少女が落ちて死に、その妹が二十年前に引き裂かれた。灯は今も、何ごともなかったように、そこに立っている。けれど、その灯のまわりで起きたことは、まだ何一つ終わっていないのかもしれなかった。




