第9章 守るための嘘
夕食が済んだ後、ノワールは書斎に警部を呼び寄せた。
クラレンスが厨房で片付けをしている間に話を終わらせるつもりでいた。
彼に聞かれるわけにはいかないからだ。
井沢はノワールの隣に座り、不安そうな様子でいた。
警部がソファに浅く腰を下ろすと、それを待っていたようにノワールは開口一番に言った。
「警部、これまでの警備体制は“私が狙われている”という前提で組まれていたと思いますが…」
手元の書類を差し出し、続ける。
「私が信頼している情報網を持つヴェネツィアのシニョーレ・ロッセーリからの情報提供もあり、標的が変わる可能性が出てきました」
「変わる…?それは…いったいどういうことですか?」
突然の言葉に警部は眉をひそめた。書類に目を通して読み進めていくうちに、驚きの表情に変わる。
「…これは…」
ノワールは腕を組み、口を開く。
「ストラスブールのオベール家で起こった帳簿の紛失、それと今夜の襲撃予定…この2つの事件は関連性が非常に高い。帳簿を探しているのはオベールの妻と2人の息子たち。彼らは屋敷に長年仕えていた執事のヒューイー・アシュフォードを狙っていた。彼は数日前に行方不明になった…おそらくはオベールの家族に拉致でもされているのではないかと思われます」
信じられないという表情の警部に、ノワールは言葉を続ける。
「アシュフォード氏の口を割らせるために必要なのは、息子のクラレンスです。だからオベール家は私の屋敷の襲撃予定計画を立てた。ここにクラレンスがいることを掴み、彼を利用して父親に自白させるつもりでしょう」
「……」
井沢はかなり動揺しているらしく、一言も声を発しないままだ。
さっきまではノワールが狙われているとばかり思っていたのに、狙われる要素のないようなクラレンスが……?
その時、警部の携帯電話が鳴り、彼は「失礼」とだけ告げて席を立った。
「ノワール、クラレンスさんが危ないって…それ本当?」
井沢が尋ねると、ノワールは重々しく頷いてみせる。指を組ませて顎を乗せ、
「おそらくはな。リックの話やロッセーリの情報を整理していくと、どちらもアシュフォード氏にたどり着く。彼が行方不明になっていなければ気づけなかったことだ」
「…じゃあ、クラレンスさんに伝えた方が…」
「それは駄目だ。アシュフォード氏の手紙にもあるように、クラレンスには伝えられない。父親の意志を尊重するためにもだ」
書斎の隅で電話をしていた警部が、何度か驚いたような声を上げるのを耳にし、ノワールは眉をひそめる。
「だからイザワ、君もクラレンスには言わないようにしてくれ。アシュフォード氏が無事に救出されてから、本人から伝えればすむことだ。我々に今できることは、クラレンスの警護をできるだけ固め、彼を守ること。そして──」
顔を上げ、ノワールは決意を秘めたように紫紺の瞳を光らせた。
「私が動くことで、クラレンスから敵の注意を背けることだ」
「えっ?…な、何言ってるんだよノワール!」
驚いて井沢が反論する。
「そんなことしたら、本当にあなたが危険になるじゃないか。警部さんにも話したんだし、全部警察に任せるべきだよ!」
「しかし──」
そこまで言いかけた時、警部が通話を終えたようでソファに戻ってきた。
「失礼しました。上層部からの連絡で、CIAより特別通信が入ったとのことで」
「どんな内容ですか?」
「現在ロッセーリ氏と結託し、ストラスブールのオベール家から国境を越えドイツのケールへ向かうバンを発見し、追跡中とのことです。乗員は男性2名。ナンバーはオベール家で所有していたものと同一ということで、息子たちの可能性が高いです」
「やはりな…」
ノワールはそう呟くと、警部に厳しい表情を向ける。
「事は一刻を争います。その車にアシュフォード氏が乗せられている可能性もある。引き続き、彼らの車を追尾して下さい。それから…」
井沢をチラリと見遣り、言葉を続けた。
「クラレンスの警護に十分な人員を。しかし彼には絶対に悟られないように……アシュフォード氏の思いを無駄にはできない」
「わかりました。すぐに警備体制の再編、そして更なる強化を致します」
「お願いします」
そう言うとノワールは腕時計を見、そろそろタイムリミットだと呟く。クラレンスが片付けを終え、動く時間になりそうな頃合いだった。
警部が書斎から立ち去った後、井沢はさっきの言葉をもう一度確かめるように訊いた。
「ノワール?おれ、絶対に嫌だからね。あなたが危険な目に遭うなんて嫌だ。自分だけで背負い込もうなんて考えたらダメだよ?」
そっと腕を掴み、井沢はノワールを見つめた。ノワールはしばらくの間無言でいたが、やがて息をついた。
「クラレンスは我が家の執事としてまだ日が浅いが、我々の家族同然だ。その彼に危険が迫るのであれば、主である私が動かなくては。これは主としての義務だ」
「じゃあ、おれもだよ!ここはおれの家でもあるって言ったよね?おれだってクラレンスさんやアレクやメイドさんたちを危険な目に遭わせたくない。だけど、それ以上にあなたが危険に晒されるなんて…もう二度と見たくないんだ……!」
「イザワ……」
切実な思いでノワールを引き留めようとする井沢。その肩が震えているのに気付き、ノワールは彼を抱き寄せる。
「ヒューイー・アシュフォード氏は……命を賭して何かを守ろうとしているように思えてならない。私はそれを無視することはできないのだ。だからこそ、すべての情報を警部に伝えた。何も知らないクラレンスを巻き込まず、当初の予定通り“私”が危険だと信じ込ませていたほうがいい」
「だけど…!」
「これは彼を“守るための嘘”だ。イザワ…私の手が誰かを傷つけないようにと願ってくれた君のためにも、私はこの手で誰かを救いたい。君が私をそう変えてくれたはずだろう?」
「……」
井沢の返事はなかった。彼はノワールの腕を掴んだままうつむき、首を横に振り続けた。
その時、ノワールのスマートフォンが再び激しく震えだした。
ロッセーリからだった。
ノワールは井沢の様子をうかがいながら、通話に出る。
「私だ。何か新しい情報でも?」
『シニョーレ、ケールに向かっとるオベールの息子たちの件はもう知っておろう?』
「ああ。さきほど警部から連絡を受けた。CIAの人物とやらは信用できるのか?」
『わしとは旧知の人間じゃ、信用していい。追跡はCIAと当局に任せて、現在わしのエージェント3名がストラスブールのオベール家へ向かっとる。潜入捜査のエキスパート揃いじゃよ』
「それはありがたい。もちろんCIAの捜査令状は出ているんだろうな?」
『無論じゃ。これは“国際的な関心が帳簿に向いている”と判断して良い。それは“捜査当局が動くに正当な理由”となる。今回は個人的に動くことなど許されんぞ、シニョーレ』
ノワールはそれを聞き、少し驚いたような顔になる。
「それは…“世界の流れ”ということか?私が動く必要はない、と…?」
『当然じゃ。お前さんには守るべき者がいるじゃろう?心優しい者を心配させるでないぞ。無謀なことはしなさんな』
ニヤリと笑ったような言い方だった。
ノワールはハッと隣の井沢を見遣り、その言葉の真意を悟った。
「守るべき…者……」
大粒の涙を浮かべた井沢が見つめ返してくる。
ノワールは目を細め、ゆっくりと頷いて見せた。
「…そうだな……そうだったな」
自分に言い聞かせるように、繰り返す。
そして、井沢を抱く腕に軽く力を込めた。
『のう、シニョーレ。“守る”イコール“がむしゃらに動く”ことではないぞ?沈黙し、動かぬことが必要な時もある。ましてやその少年は、あのハリーも相当お気に入りのようじゃからの。せいぜい大事にしてやれ』
ロッセーリの言葉は温かくノワールの心に染み入った。
「感謝する…シニョーレ・ロッセーリ」
ノワールは微笑み、そう言って通話を終えた。井沢に向き直り、口を切る。
「私はまた、危うく君を傷つけてしまうところだったな…」
「…じゃあ…」
「ロッセーリやCIAが動くのであれば、私は動かず見守るだけでいい。下手に動けば警備対象が増えて負担になるだけだ。ただし、私が館の者たちを守りたい気持ちは変わらん。だから君にも約束してほしい。クラレンスには絶対に言わない、と」
それを聞いた井沢が少しだけ口元を歪ませ、しっかりと頷いた。
「わかった。おれ、絶対に言わないよ。皆を守るために、だからね?」
「そうだ。頼む」
頬に軽くキスを落とし、ノワールはソファから立ち上がった。書類を書斎机に戻そうとした時、ノックの音が聞こえた。
「入りたまえ」
ノワールが声をかける。ドアが開けられ、そこに立っていたのはクラレンスだった。
息を呑む井沢。ノワールは平静を装い、用件を訊ねる。
クラレンスは神妙な顔つきで訊いた。
「ノワール様…先程リヒャルトさんが来ていたと聞きました。執事の私がおもてなしも出来ずにお帰ししてしまい、申し訳ありません。あの…リヒャルトさんは何を?」
「……」
ノワールは井沢をチラリと見る。つい今し方の口約束を忘れないでくれと言いたげな合図に、井沢は小さく頷いた。
「おれ、部屋に戻ってるね」
そう言ってサッとその場を後にした。
2人になったところでノワールはクラレンスに向き直り、言った。
「気にするな。お前には関係ないことだ」
「しかし…」
リヒャルトのあまりに不自然なタイミングでの訪問に、クラレンスは納得いかない様子だ。リヒャルトがそう頻繁にここに姿を見せないことも知っているので余計に、だった。
「もしかして、私の父のことで何かあったのかと思いまして…」
「何故そう思う?」
「リヒャルトさんと父は同じ職場で働いていた事もありますし、私とは父を通しての付き合いです。父が行方不明の今、突然ここを訪れるのはおかしいと…まさか父の居場所を…」
「──知っているとしたら、私などに言わずに警察へ話しに行くはずだ」
ノワールは淡々と言い切る。
「お前の父とは面識のない私にリックが話を持ってくるような事はない。今日訪れたのは私の身を案じてのことだ。会長も心配しているので、直接会ってこいと言われたそうだ」
「……」
「他に用は?」
「…いえ、ありません」
息をつき、クラレンスは肩を落とす。ノワールは書斎机に近寄り、警部に見せた書類を引き出しにしまって鍵をかけた。
「用がないなら、今夜はもう執務室で休みたまえ。戸締まりなどは既に終わっているのだろう?警備も大勢いるのだし、お前が動き回ることはない」
「はい…では失礼致します」
深々とお辞儀をして、クラレンスは書斎を出ていった。その後ろ姿には明らかに残念そうな様子が見てとれた。
廊下に出たクラレンスは、納得のいかないような表情で歩いていた。
(ノワール様はああ仰ったが…)
と、そこに階下へ行こうとした井沢が通りかかった。
「あの…リョウ様──」
クラレンスが声をかける。井沢は足を止め、ハッとなったように見つめてきた。
「大丈夫?クラレンスさん、すごく疲れてるように見えるけど…」
「い、いいえ。私などより、ノワール様の方が神経を張り詰めていらっしゃいます。何のお力にもなれず、申し訳なくて…」
そう言って、クラレンスは井沢に問いかけた。
「リョウ様、あの…ノワール様は私に何かを隠しているということはないでしょうか?私のことで何かお聞きになられてはいませんか?」
「えっ?」
ギクリとなる井沢。あまりに鋭い勘に目が揺れ動いてしまう。
「何かって…?ノワールからは何も聞いてないよ?どうしてそんなことを?」
「…そうですか。いえ、ただそう思っただけです。変なことを聞いてしまい、申し訳ありません」
「クラレンスさん…」
哀しそうな顔のクラレンスに、井沢は胸が痛む思いだった。
しかしノワールとも約束したのだ。彼の嘘はクラレンスを守るための嘘だと…
井沢は唇を軽く噛み、意を決して言った。
「お父さんのことで不安になってるのはわかるよ。だけど、ノワールを信じてほしいんだ。あの人は皆を守ろうとしてる。これまではずっとおれを守ってくれてたけど、今は屋敷の人たち皆を守ろうとしてるんだ」
「…リョウ様、それは……」
声が震えるのを抑えようとしているのがわかり、井沢は彼を安心させようと優しく言った。
「ノワールはさ、執事さんって家族みたいなものなんだって言ってたよ。ううん、クラレンスさんだけじゃなくてアレクや料理長さん、メイドさんたちも皆、家族と同じぐらい大切だって。そんなこと言う人が隠し事なんてするはずがないよ。ねっ?」
笑顔で言う井沢を見つめ、クラレンスはホッとしたような顔に変わる。
「ありがとうございます。そう仰っていただけるなんて光栄の極みです。そうですね…ノワール様を信じなくては。もちろんリョウ様も、です」
「えへへ…じゃ、おれ、アレクにちょっと話があるから行くね!」
軽く手を振り、井沢は足早に階段を下りていった。
クラレンスはそんな姿を見送り、もう一度振り返って書斎のドアを見つめる。
井沢の言葉の中に、引っかかるものがあったのだ。
“あの人は皆を守ろうとしてる”
“今は屋敷の人たち皆を守ろうとしてるんだ”
──何故?
ノワールや警部たちから聞いた情報では、襲撃犯の狙いはノワールの筈。
皆を……いったい“何から”守る……?
狙いはノワール1人だとしても、館の者が巻き込まれる可能性もある。だからこそ今夜は料理人やメイドたちを早い時刻から離れに避難させたのだ。
現在、本宅に残っているのは主のノワールと井沢、アレクと……自分のみ。
(まさか…)
一抹の不安が頭をよぎった。
アレクか自分のどちらかにも、危険が迫っている……ということは?
(そんな…考えすぎだろう。父のことで神経が尖っているから、すべてを半信半疑で捉えてしまうだけだ)
クラレンスは頭を振り、考えを打ち消そうとする。
だが……
(会長とノワール様は今日の社内でも顔を合わせているはず。それなのにわざわざ様子を見てこいとリヒャルトさんに頼むだろうか?)
さきほどのノワールの言葉すら、疑ってかかろうとしてしまう。
(……いけない。ノワール様もリョウ様も私の大切なご主人様だ。そんなふうに疑うのは執事として失格だ…)
自分に嫌気がさして大きくため息をつく。きびすを返し、クラレンスはようやく階下へと歩き出した。




