第10章 守る者としての覚悟
夜7時半──。
クラレンスが去った後、ノワールは書斎から寝室へ繋がる扉を開けて移動した。
ベッド脇のナイトテーブルの引き出しを開け、入っていたベレッタM92をそっと持ち出す。
(用心のためだ。やむを得ん)
愛用の銃は手にしっくりと馴染んでいるが、これで人を撃つことは二度と許されない。井沢との約束を破るつもりはない。
懐に忍ばせ、廊下に出る。配置された警備員にご苦労と一声かけ、井沢の私室へ向かった。
「イザワ、いるのか?」
ノックしたが何の反応もない。試しに扉を開けてみたが部屋の中には井沢の姿はなかった。
(部屋に戻ると言っていたはずだが…どこへ行った?)
この状況で一人にするわけにはいかない。心配になったノワールは階下へ向かった。
クラレンスもアレクも自室に戻っているはずだ。
井沢が行くとすればリビングか、アレクの部屋か……?
1階のリビングには警部たちが待機していた。会釈し、井沢を見なかったかと尋ねると警部補が答えた。
「さきほどアレクさんの部屋に入るのを見かけましたが…」
「そうか、ありがとう」
ピリピリとした緊張感漂うリビングには近寄らないだろうと考え直し、ノワールはアレクの私室へ向かう。
と、その時、廊下の先の部屋から井沢が出てくるのが見えた。
「あれ?ノワール、どうしたの?」
キョトンとした表情で訊かれ、ノワールはホッとしたように苦笑する。
「アレクに用事があったのか?」
「うん、参考書を借りに行ったんだ。もうすぐ学校も始まるし、ちゃんと予習しとかないといけないから」
「なるほど、良い判断だ」
井沢の髪を撫で、ノワールは微笑む。
揃って2階へ上がろうと歩いているところへ、リビングから突然無線のノイズが聞こえてきた。
『不審な車両が検問を突破し、市内を走行中との情報有り。付近の者はただちにレーダーを確認し急行せよ。繰り返す…不審な車両が……』
俄に物々しい雰囲気に変わる。ノワールは足を止め、井沢を庇うように立った。
「…いよいよか」
一言だけ呟くと、2階へと促す。井沢は参考書をギュッと胸に抱え、階段を上がりかけた。
が、玄関ホールで立ち止まったノワールの視線は、すぐ近くのクラレンスの執務室の扉に注がれたままだ。
警備員が2人配置されているが、内部からの侵入をするには玄関を突破せねばならないだろう。
もしくは、警備網の隙を突いて──
「…ノワール?」
井沢が心配そうに声をかける。ノワールが何でもないと首を振って階段へ向かいかけた、その瞬間──
「侵入者だ!追えー!」
屋敷の外から警備隊の叫び声が上がった。外周を警備していた者たちのようだ。リビング内に一気に緊張感が走った。無線が頻繁に入ってくる。
(…来たか!)
庭の方が騒然となった。驚いている井沢にノワールは落ち着くように囁き、彼の背中を抱いた。
「大丈夫だ。私から離れるな」
「う、うん…でも──」
井沢の不安そうな目が、クラレンスの執務室に向けられた。
この突然の騒ぎに、クラレンスが飛びだしてくる様子がまったくないのだ。
「……クラレンス!」
ノワールも同じことを感じ、廊下から声をかけた。しかし、何の反応もない。
状況を察知したノワールが執務室に取り次き、ノックをするがやはり反応はなかった。ノブを回し、中から鍵がかかっているのに気付く。
「アレク!執務室の鍵を持ってきたまえ!」
そう大声で叫ぶと、アレクが自室から飛び出してきた。途中で鍵の束を取り、ノワールに手渡す。
それを使ってようやく執務室の扉が開くが──
「……!」
駆け込んで愕然とするノワール。警部や警部補も慌てて駆け寄ってきた。
中には誰の姿もない。
部屋の窓がわずかに開いており、入ってくる風でカーテンが揺れている。
外からの侵入を許したのだ……!
「遅かったか…!」
紫紺の瞳が揺れている。井沢はあまりのことに持っていた参考書を落としてしまった。
「まさか…クラレンスさんが…!」
「くっ…!」
ノワールは警部を振り返って叫ぶように言った。
「警部、屋敷周辺の封鎖を!すぐに逃走経路を洗って下さい!」
「了解しました!」
その間にもひっきりなしに無線が飛び交う。警部たちは即座に従い、屋敷内は騒然となった。庭の方からも何発かの銃声が聞こえ始め、明らかに外からの侵入者がいたことがわかる。
ノワールは唇を噛みしめ、厳しい表情で呟いた。
「彼を必ず取り戻す…どんな手を使ってでもだ!彼は…私とイザワの大切な家族なのだから…!」
そのほんの数分前──
クラレンスは執務室で1人苦悩していた。
机に向かっているものの、手は止まり、目は虚空を見つめている。
(何故ノワール様は何も話して下さらないのだ…)
ノワールが何かを隠しているという確信はなく、単に自分の想像でしかない。
しかし井沢の言葉はやはり気になった。
(……リヒャルトさんが来たのはまさか、本当に父のことを告げに…?)
(父はいったいどこに消えてしまったんだ…?)
気になることが多すぎて、頭の中が整理できない。
集中力が一心に注がれ、判断力もいつもより失せていた時だった。
ふいに窓の方でかすかな音が聞こえ─。
「…?」
振り返るが、そこには何の姿もなかった。しかしすぐに異変に気付く。
……窓が…開いて……?
一瞬、動作が止まったクラレンスの背後から、静かに影が伸びる。
「…!」
何者かの手が彼の口を塞いでしまった。
息を呑み、体が硬直するクラレンス。何かの匂いがしたと感じた途端に力が抜け、倒れこんでしまう。
そして彼の姿が部屋から消えた……。
「クラレンス!どこだ!?」
ノワールは銃を取り出し、執務室の窓から暗くなった庭を見回して叫んだ。まだ完全に日が落ちていない。夕闇漂い始めた時刻で、つい油断をしていた。もっと遅い時刻にくるのだとばかり……
見渡すノワールの目に、薄暗い庭を数人の影が走っていくのが見えた。
「…そこか!」
ノワールはそちらへ銃口を向ける。だが駆けつけた警備員たちが侵入者ともみ合いになり、狙いが定まらない。
井沢を振り返り、ノワールは言う。
「アレクと一緒にいるんだ。いいな?」
「で、でもクラレンスさんが……それにあなたまで…!」
すっかり戸惑っている井沢をアレクに託して、ノワールは窓から庭へ飛び出す。
「ノワール!」
井沢の声に一瞬振り返り、
「君が動けば、敵の狙いが広がる。私が行く!ハリーが来るまで絶対にアレクから離れるな!」
そう叫ぶように言い切ると、ノワールは庭へと音を立てないように走って行く。
どうやら侵入者は4-5人はいる様子だ。先に走る2つの影は動けないクラレンスを連れているようで、移動が遅い。それを守るようにもう2つの影が警備員たちに発砲しながら追う。出会い頭の銃弾が当たったようで、警備員がその場に倒れ込んだ。
(逃がすものか!)
ノワールは一瞬にして状況を把握して狙いを定める。最後尾の影に向けてトリガーを弾いた。
パンッ!パンッ!パンッ!!
何発もの銃声が響く。
ノワールの撃った弾は正確に1人の手元をかすめ、銃を弾き飛ばした。驚いた犯人がバランスを崩し、勢いあまって転倒する。追ってきた警官たちにそれを捕まえるように指示を出した後、倒れている数人の警備員を横目にノワールは走った。
しかし追撃はそこまでだった。車両を門の付近までまわしていた襲撃犯たちは素早く乗り込んで逃走を図った。門をガードしていたはずの警備員たちは襲撃を受けたようで皆倒れていた。
「…!」
クラレンスは無事なのか?
そんな焦りがノワールの脳を支配する。
庭から玄関へ急いで向かうと、警部たちが車に乗り込むところだった。それへ手を挙げて合図しながら、ノワールは声を上げる。
「車両の追跡を急いでくれ!市内の道路の封鎖もだ!」
「了解です!ただちに追跡を開始します。あなたも、まさか…?」
「頼む。彼を助けたいのだ」
驚いている警部たちをよそに、ノワールは後部座席に乗り込んだ。
「ご自身で助けに…?」
「うちの運転手はもう一人を守るために残らねばならんのでね。それに…クラレンスは私の部下であり家族だ。私は彼を取り戻したいだけ……指示は警部、あなたに任せます」
「わかりました!」
急発進する車。そこへ追いすがるように玄関から出てきた井沢が叫んだ。
「ノワール!」
だが車はそのまま門の外へと向かっていった。不安の色を隠せない井沢に、追ってきたアレクが声をかける。
「リョウ、落ち着くんだ。警部たちと一緒だからノワール様は大丈夫だ!」
「でも…!」
結局危険な目に自分から飛び込んでいってしまったノワールを思い、井沢はつらそうに首を振る。
「ノワールがいなくなったら……またあの時みたいに傷ついて倒れてしまったら……!おれ、いつも傍にいるのに何もできなくて──」
フラッシュバックする記憶。
リッセンの家で……グレンコーの別荘で……血を流して倒れるノワールの姿が脳裏にまざまざと甦ってくる。
悔しそうに震える井沢。アレクは顔を覗き込んで言った。
「リョウが無事でいるから、ノワール様も安心して動けるんだよ。とにかく、車を回すからここにいるんだ。いいな?」
「えっ…?」
車を、という言葉に井沢は一瞬意味がわからないような反応を見せる。アレクはウインクし、
「もちろん追いかけるだろ?俺は“一緒にいろ”とは言われたけど、“外には出るな”とは言われなかったからね!」
「……アレク!」
井沢の表情がパッと明るくなった。
アレクが車を取りにいく背中を見つめながら待っていると、ふいにスマートフォンから着信音が聞こえてきた。
画面を見た井沢の表情がいっそう明るくなる。うわずった声で応えた。
「ハリー!?」
『よっ、イザワ!今アルトナ駅前に着いたぜ!どんな状況だ?手短に説明しろ!』
いつもとまったく変わらない、強い意思を秘めた低い声が井沢の耳に届いた。
『犯行グループの現在位置確認、追跡を開始する!』
『市街へ通じる道路の封鎖を手配…』
無線が飛び交う車内で、ノワールはじっと前を見つめていた。
市街地へ急行する警察車両の台数が次第に増えていき、夜のハンブルクにサイレンが鳴り響いた。
「絶対に市外に出すな!港や空港への道も封鎖しろ!」
警部が無線機に向かって叫ぶ。
「警部!前方に障害物あり!どうしますか!?」
運転している警官に訊かれ、警部は状況を判断して叫んだ。
「右だ!右へ回り込め!犯行グループの車両は港へ向かっている!運河や水路の封鎖も急げ!」
大きく右へ曲がる車の窓から身を乗り出したノワールが見たものは──
「……クラレンス!」
車の後部座席に一瞬だけクラレンスの姿を見つけて叫んだ。
「彼が乗っている!このまま行くとハンブルク港の倉庫街だ。車両の進路を封鎖して下さい!」
「了解しました!全車両に告ぐ、倉庫街に通じる道の封鎖を急げ!不審な車両は絶対に通すな!」
『了解!』
だがその時、予想外のできごとが起きる。逃走車両が突然進路を変え、既に封鎖していた道路を突破しようとしたのだ。
「このままでは逃げ切られてしまう」
焦りがノワールの胸中によぎり、ふたたび窓から身を乗り出した。
だがその手を拳銃に伸ばすことはしなかった。
井沢との約束─二度と憎しみで人を撃たない─を守り切りたかったのだ。
(どうすればいい……?)
悲痛な思いで犯行車両を見守っていたノワール。
だが次の瞬間、ハッとなった。
交差点に停まっていた黒いバイクが、突然急発進したのだ。
「なんだ?あのバイクは…!おい停まれ!封鎖中だぞ!?」
警部たちも意外な展開に驚いて声を上げる。慌てたような怒鳴り声がスピーカーから響いた。
ノワールは目を凝らし、眉をひそめる。
あっと言う間に逃走車の前方へ走っていったバイクは、進路を塞ぐつもりのようだ。滑り込むように割り込んで急停止する。
黒い革ジャンに黒いヘルメットを被っていて顔は見えないが、ノワールにはそれが誰だかすぐにわかった。
ヘルメットの後ろから風になびいている砂色の長い髪──
「やれやれ、間に合ったか」
バイザーを上げ、ハリーはニヤリと笑って犯行車両を待ち構えている。
「手こずらせやがって…ほらよ、喰らいなっ!」
そして道路上に向けて何かを投げた。
ボスッ!
鈍い音が聞こえ、一瞬でタイヤがパンクしてしまった。
キキーッ!
途端に犯行グループの車両は制御不可能になった。激しいブレーキ音とともに何度かスピンをし、標識にぶつかってようやく停止した。
ハリーが投げたのは、警察が道路を封鎖するときに使用するスティンガースパイクシステムの小型版だった。
追いついた警部たちの車両が犯行車両のすぐ隣に停止し、すぐに警官とノワールが飛びだす。後から追ってきていた警察車両も続々と到着しはじめ、倉庫街にほど近いこの場所は騒然となった。
警官たちによって犯人グループは拘束されて、事なきを得た。
「クラレンス!」
ノワールは車の後部座席で気を失っているままのクラレンスに走り寄り、その肩にそっと手を置いて囁いた。
「…よく耐えたな。もう大丈夫だ」
ホッとしたような笑みが彼の口元に浮かんでいる。
そしてバイクにまたがったままのハリーを振り返り、警部に告げた。
「彼は“善良なる市民”ですよ。信頼できうる、協力者です」
それを聞いたハリーがフッと鼻先で笑い、肩をすくめてみせる。
「思ってもねえことを言うなよ、ノワール。あんたに“信頼できうる”なんて言われる日が来るとはな」
2人を不思議そうに見ていた警部だったが、とにもかくにも“市民”の協力で助かったのだから、と握手を求めようと前に出た。
そこへアレクの車がやっと追いつき、停止した車内から井沢が飛びだしてくる。
「ノワール!ハリー!良かった…2人とも無事だったんだね!」
「たりめーだろ、俺を誰だと思ってるんだ?お前の“正義の味方”だぜ?」
2人が笑い合う間に入り、警部はハリーに手を差し出す。
「市民のご協力、感謝いたします」
「いいってことよ。ま、パンク代を請求しないように犯人たちにはしっかり言っといてくれよ?」
そう言い、ハリーはニッと歯を見せて笑う。
井沢はノワールに歩み寄り、安心したような顔で言った。
「…みんな無事で良かった!クラレンスさんも!」
「ああ。今回ばかりはハリーのおかげだな。ヤツが間に合わなかったら逃げられていたかもしれん」
苦笑するノワールの手元を見、井沢は言った。その手に拳銃はない。
「ノワール…撃たなかったんだね」
「君との約束だからな。それに…今の私には守るべきものが増えた」
微笑みに変わるその顔を見つめ、井沢は目を見開く。だが何も言わず、嬉しそうに頷いて見せた。
かつては他人など眼中になかったノワール。自分のためだけに生きていた彼。
しかし今はクラレンスの命を守るために動き、井沢との約束を守るために“撃たない選択”をした。
「あなたは変わってきてる。もう昔のあなたじゃないって言えるよ」
孤独に闘ってきた戦士から、誰かのために闘う人に変化しているノワール。
そんな彼を見、井沢は心から嬉しそうな笑顔になった。




