第8章 秘密の帳簿
「今夜…?まさか……」
呟いたきり、ノワールは黙り込んだ。
リヒャルトはそんなノワールを見つめて言った。
「これを読んだ時、私もいったい何のことだか解りませんでした。帳簿とその保管場所を示すことは解っても、危険とは何のことなのか…。ですが、昨夜フランツ様から襲撃予定の一件を聞き、もしやと思ってこちらへ伺ったのです」
「……」
「危険という単語が出たタイミングといい、ここにクラレンスが務めているのを知っている私に伝えてきた……知らせるなということは、逆に言えば知らせることにより危険がクラレンスに迫るかもしれない、という意味にも取れませんか?もしかすると彼は、何かからクラレンスを守ろうとして…」
「…守る?」
考え込んでいたノワールがふっと顔を上げる。
「何からだ?何から彼を守るつもりでこんなことを?」
「今頃になって帳簿をそっとしておきたいということは、帳簿に関して何かが起こった可能性があるのでは、と…」
リヒャルトは手帳から一枚のメモを取り出し、テーブルに置く。
「ヒューイーと私が同時期に執事を務めていたのは、国境近くの街にある名家です。しかし今年に入って不正行為が発覚し、権威や名誉などは奪われつつあると聞きました。ヒューイーはそれを機に執事を辞めたようです」
「わかった。すぐに調べさせよう」
名家の住所、それと主の名前などが書かれたメモを真剣に見つめ、ノワールは言う。
「ありがとう、リック。よくぞ私に伝えてくれた。感謝する」
「いいえ。これがあなた様の助けになれば幸いです」
リヒャルトは微笑み、昔よりもより深く皺の刻まれた目尻を下げて言った。
「私は屋敷に戻り、フランツ様にあなた様のご無事をお伝えできることが嬉しゅうございます。フランツ様も大変案じておられます。どうか、どうか今後もご無事で」
深く頭を垂れる。リヒャルトは立ち上がり、ふとノワールを振り返った。
「彼は…ヒューイーはクラレンスを巻き込みたくないと思ったのでしょう。だから私にこのような暗号を…」
「そのようだな。リックに伝えてきたのも、昔も今もクラレンスを知っている人物、そして、信用するに足り得る人物だからこそだろう。過去の繋がりが現在まで続いている……素晴らしい信頼関係でな」
ノワールは微笑み、そう言った。
が、すぐに厳しい表情に変わる。
「手紙の件はクラレンスには知らせないほうがいいだろう。アシュフォード氏の意志を尊重すべきだと私は思う」
「ありがとうございます。ノワール様の賢きご判断に感謝いたします。私も『第七の扉』の意味をもう一度考えてみます」
「頼む。何か解ったら知らせてくれたまえ」
玄関から出て、アレクの用意した車に乗り込んだ後もリヒャルトは何度もノワールに対して会釈をした。
ノワールは車を見送り、目を細める。
(守るために、敢えて隠す……)
(リックには行方不明の件は伏せておこう…心配させるわけにはいかない)
紫紺の強い煌めきを瞳に宿し、ノワールは決意を秘めた表情で家に戻った。
クラレンスは報告書をまとめ終えた後、厨房に戻って備品の確認をしていた。
リストを見て整理を続けていると、そこへ井沢がトレーを運んできたのに気づく。
「リョウ様?それは…?」
ノワールと井沢が飲んだものにしては、カップなどが来客用で不自然だった。
2階には2人が使えるミニキッチンもあるのだから、愛用のマグカップがあるはず。
そう思って聞いてみたところ、意外な答えが返ってきた。
「今、ロンデール・タイヒからリックさんが来てたんだ」
「何ですって?」
少し驚いて返す。自分の知らない間に来客があったとは…という顔になる。
「申し訳ありません。知らせていただければ、私が致しましたのに」
「でもクラレンスさんは事情聴取書を作るからってどこかへ行ってしまったでしょ?ノワールが捜したみたいだけど、執務室にはいなかったって言ってて」
井沢からトレーを受け取り、クラレンスは頷く。
「執務室では手狭なので、客室をお借りしたのです。リビングは人の出入りが激しいので…」
「ああ、そうだったんだ」
納得したというように井沢は返した。
しかしクラレンスは、リヒャルトが来ていたことがとても気になる様子だった。
カップを下げたということは既に帰ってしまったのだろう。そう考え、残念そうな息をつく。
「リヒャルトさんはお元気でしたか?」
「うん。変わらない様子で、ニッコリ笑いかけてくれたよ。おれのドイツ語、上手になったって褒めてくれたんだ」
えへへ、と照れくさそうに笑う井沢。
「クラレンスさんはリックさんの紹介でここに来たって聞いたけど…?」
「はい。私の父とリヒャルトさんは昔からの友人ですので…時々会うと私のこともたいそう可愛がってくれました。いつもお優しい方ですね」
お会いしたかった、と告げると井沢は、
「すぐ近くなんだから、いつでも会えるよ!」
笑ってそう言った。
そうですね…と呟いたきり、クラレンスは無言になった。井沢が立ち去った後、食器を洗いながらもなんとなく心がざわつく思いがしていた。
何故、突然の訪問を?
それも今日に限って…こんな警備体制の厳重な中に?
そして、自分がここにいるのに会わずに帰ってしまうとは……
不安に陥っていたクラレンスにとって、些細なことのひとつひとつが重く心にのしかかってくるようだった。
徐々に夜が近づいてくる──
ノワールは書斎に籠もり、人払いをしてひたすら思案に耽っていた。
ノートパソコンを開き、先程からしきりとメールを気にしている様子だ。
横に置いてある、リヒャルトのメモ。
そこに書かれた住所を打ち込み、マップを開いて確認したものの特に目新しい情報は見つからない。
残る手立てはひとつ、とロッセーリにメールを送ったのだがまだ返信がない。
(帳簿に関して何かが起こった可能性が…)
リヒャルトの言葉が脳裏をよぎる。
しかし……
『赤き月の夜』が本当に今夜のことだとすれば、なぜヒューイーは事前にそれを察知できた?
ヒューイー・アシュフォードとノワールには面識は無い。この屋敷もこの夏に建てたばかりで、業界人ですら知らない者も多いはず。一般家庭に務める執事が知っているのは奇妙だ。息子であるクラレンスが勤め先を教えた可能性も考えたが、個人でスマートフォンを持ち歩くこの時代にそこまでする必要があるだろうか?
そして危険なことが起こるというのを知ったとしても、どこからそのような情報を得たのか?
(リックは『赤き月の夜』が今夜だと思ったようだが……)
どう考えてもつじつまが合わない気がしていた。
それよりも…ともう一度、先程の暗号を読み返してみる。
この走り書きのような文字…
何かに追われているように焦り、急いで書いたふうに見える。
ここまで焦らせるものはいったい何だ?
それは…もしや『自分』の身に起こる危険を察して……?
ブブゥ…ン……ブブゥ…ン。
その時、脇に置いたスマートフォンが震えだした。
『シニョーレ・マクファイヤーかね?たった今、メールを送ったぞ』
ヴェネツィアのロッセーリからだった。
パソコンのメールチェックを行ないながら、ノワールは口を切る。
「シニョーレ・ロッセーリ、何か解ったか?」
『ふうむ…それがの、とんでもない関連性のある事態になっておる』
「とんでもない関連性だと?」
聞き返すノワールに、ロッセーリは今朝かかってきた『旧知の友人』からの情報を交えて話し出した。
『お前さんの送ってきた住所、これはストラスブールの古くからの名家、オベール家のものじゃ。今年に入って不正蓄財などが発覚し、すっかり成りを潜めてしまった。よくある没落貴族かと思っていたが、最近になってここから帳簿が消えてしまい、家族が必死になって探しているという話なのじゃが…』
「帳簿…?」
その単語を聞いた瞬間、ノワールの背にひやりと冷たいものが走る。
帳簿=『銀の鍵』だったはず。
(──まさか…)
『それを持ち出せたのは、主の他には家族、それと務めていた執事のみということじゃ』
そこに務めていた執事というのは……
ロッセーリからの詳細に書かれたメールを見つめていたノワールは思わず目を見開いた。
『ヒューイー・アシュフォード』
執事の名として書かれたその名は紛れもない、クラレンスの父親のものだ。
「何故…彼の父親が…」
愕然となるノワールの耳に、ロッセーリの声が続く。
『お前さんの所にはアシュフォードの息子が務めているそうじゃな』
「…そうだ。しかも先程、アシュフォードの古くからの友人である、本家の執事リヒャルトが訪ねてきたばかりだ。奇妙な暗号文の書かれた手紙を持って、な」
受け取った手紙やリヒャルトとの話を順序立てて伝えると、ロッセーリはううむと低く唸るような声を出した。
『赤い月の夜……それはお前さんも疑問に思った通り、今夜のことではないかもしれん』
「それではやはり…?」
『行方不明になる直前に手紙を投函したからには、アシュフォードは近々自分に起こる危険を察知していたに違いない。『満ちる夜』とは危険の高まる夜…そして彼は忽然と消えた。こう解釈できるじゃろう』
「……自ら失踪しようとしたのか、或いは…何か事件に巻き込まれたか」
そう呟いたノワールはふいに嫌な予感がし始める。
「リヒャルトに手紙を寄越して、クラレンスに伝えるなと書いた意味は…巻き込まれるだけでなく、もしや“彼も”狙われる危険があるから、なのか?」
紫紺の瞳が揺れている。
「少なくとも手紙を書いた時点では無事だったはずだ。だが息子には伝えるなと書いたのは…やはりそうとしか思えん。彼は帳簿を探している者たちが、自分の次にクラレンスを狙うと気づいていたのだ」
『そういうことになるのう』
ロッセーリも同意し、敢えてノワールが口にしなかった言葉を続ける。
『今夜の襲撃犯の狙いが、お前さんではなく、クラレンスだという可能性も出てきたわけじゃよ』
「……!」
ノワールは思わず息を呑む。
既にクラレンスが狙われているということは、つまりアシュフォードは……
書斎机の上で握った拳が震えだした。
『現在CIAの協力を得てストラスブール近辺にエージェントを配備させ、周辺の街にも向かわせておる。手駒が足りず、ハンブルクまでは面倒見きれんが…最悪の場合ハリーが着くまで、なんとか持たせられるかね?』
ロッセーリの言葉に、ノワールは目を細めて頷く。
「…わかった。このことを警部に知らせて、警備体制の変更を頼もう。シニョーレ・ロッセーリはCIAと共に引き続き帳簿の調査をお願いしたい」
『承知した。お前さんも無理するでないぞ?』
「…解っている。ありがとう、シニョーレ」
苦笑を漏らし、ノワールは通話を切った。そしてパソコンの電源を落とした後、暗号の手紙やメモなども書斎机の中に忍ばせた。
「ノワール?いる?」
その時、ノックの音とともに廊下から井沢の声が聞こえてきた。
「今日は早めに夕食なんだって。もう行ける?」
「ああ、もうそんな時刻か。すぐに行こう」
時計を見遣ると夕方の6時を少し過ぎていた。
ノワールは立ち上がり、書斎のドアへ向かいかけ──
ふと、気になったように窓から外を眺める。相変わらず外には警備員や警察関係の人間が配置され、辺りを警戒して廻っていた。
『今夜の襲撃犯の狙いが…クラレンスだという可能性も……』
ロッセーリの言葉を思い出したノワールは、軽く唇を噛みしめる。
(私を狙うのならまだしも、何も知らぬクラレンスを標的にするような卑怯なやり方は許さん。必ず守ってみせる…!)
眉間に皺を寄せて静かな怒りを湛え、ノワールはカーテンを閉めて書斎を後にした。
食堂では、料理長があらかじめ作り置きしてくれた食事をクラレンスが配膳しているところだった。
先に下りていた井沢が嬉しそうに言った。
「今日はね、ノワールもおれも大好きなトマト味の煮込み料理だって」
「ほう、それは楽しみだ」
ノワールは微笑んでそう言った。
去年の夏、リッセンで過ごした時にも同じような会話をしたな、と思い出す。
ロンドンでは料理人が違ったため、今夜は久しぶりに懐かしい味が楽しめるとあって井沢は待ちきれない様子だ。
ノワールが訊く。
「アレクは戻ってきたか?」
「うん、さっき帰ってきたよ。警備がものすごくて、別の所に来たみたいだったってビックリしてた」
井沢は窓の方をチラッと見遣って言う。
「もうすぐ夜になるけど…大丈夫だよね?何も起こらないよね?」
不安そうな声で訊く。ノワールは目の前に食事を並べ終わったクラレンスに頷きかけ、下がるように伝えた。
「お前とアレクも食事を摂りたまえ。今夜は片付けも速やかに終わらせて、できるだけ安全な場所で過ごしてほしい」
「承知しました。ではお二方とも、ごゆっくりどうぞ」
クラレンスは一礼し、食堂から出て行った。それを見届けた後、ノワールは井沢に声を潜めて言った。
「何が起こるかは私にもわからない。まだ相手の狙いすら掴めないのだからな。ただ…少し気になることが出てきた」
「えっ?どんなこと?」
「食事の後で警部に話そうと思う。イザワ、君も同席してくれ」
「う、うん…わかった」
少し緊張しているような面持ちで食事に取りかかる井沢。神経が過敏になっているようで、庭先で少しの物音がするたびに不安そうにそちらを見遣る。
そんな少年に、ノワールは言った。
「心配ない。君は私が必ず守る。…ところでハリーはどうなっている?」
「それが…パリを出る時に連絡をくれるって言ったのに、まだ来ないんだ。何かトラブルでもあったのかな。電話でもエミールさんとまだ合流できないって言ってたし…」
「…そうか。まだ夏の旅行シーズンでもあるから、飛行機も道路も混んでいるかもしれん」
最悪の場合──ハリーが着くまでなんとか持たせられるか、とロッセーリに言われたが…
息をつき、井沢を元気付けるつもりで話題を変えようと微笑む。
「イザワ、2階の簡易キッチンも使えるから、休日にはまた料理をしようか。ロンドンでもやっただろう?」
「そうだね、また教えてほしいな。次はもっとうまく作りたいからね」
井沢はパッと明るい表情に変わった。ノワールは安心して食事を進めながら、ひとときの和やかな時間を過ごした。
このまま何も起こらずに過ごせれば良いが…と心の中で願いながら。




