第7章 捜査の行方
昼過ぎ。
玄関で待っていた井沢の目に、門から入ってくるノワールの車が見えた。
門の近くにも厳重な警備が敷かれている中で、普段と変わらぬ走りで近づいてくる車。それを見た瞬間に、井沢の声が上がる。
「ノワール!」
クラレンスやアレクが揃って迎える中で、井沢はまっ先に飛びだしていった。
今から本部を出るという電話があってから、ずっとそわそわして待っていた井沢だが、車を見た瞬間に表情が安堵の色に変わった。
玄関前に車を止め、ノワールが窓から顔を覗かせると井沢は走り寄って、
「おかえり、ノワール!ちゃんと帰ってきてくれてありがとう…!」
途端に泣きそうな顔になり、やっとのことで言った。
ノワールは車から降り、後をアレクに任せる。そして井沢に笑いかけた。
「言ったろう?私は必ず君の元へ帰る、と」
「うん、うん…」
強くなると言ったばかりなのに、また涙が溢れてくる。ダメだなあと自分でも思いながらも井沢は嬉し泣きが止められずにいた。
ノワールはそんな井沢を抱きしめ、安心させるように囁いた。
「心配をさせたな…もう大丈夫だ。私がついている」
頬に軽く口づけ、井沢の黒髪を優しく撫でてやる。
屋敷内に入り、クラレンスに聞いた。
「料理長やメイドたちは離れに避難させたか?」
「はい、仰せの通りにいたしました」
「よろしい。ではこれより先の時間は、お前やアレクも外には出ずに待機したまえ」
そう伝えると、ノワールは井沢を振り返った。
「少し遅くなったが昼食は摂ったのか?まだなら一緒に摂ろうか。いつもの食べっぷりを見せてくれたまえ」
からかうような声に、井沢はさっきまでの緊張感や不安が一気に吹っ飛んでいく思いがした。
袖で涙を拭い、にっこりと笑い返しながら、
「Ja! メイドさんの代わりに、今日はおれが給仕するよ!」
それを聞いたクラレンスは少し驚いたような顔になったが、ノワールは満足そうに笑ってみせた。
「期待しておく。皿の1枚を割るぐらいはキスで許そうか」
「ええっ?おれ、そんなにドジじゃないよっ!」
井沢がムキになって言い返すと、ノワールはククッと笑って肩を揺らした。
「……」
そんな2人の様子を見ていたクラレンスは、どこか思い詰めたような表情をしていた。
「ハリーが?ここへ?」
ノワールが尋ね返すと、井沢は頷く。
「心配だったから、ダメ元でここに来られないか聞いたんだ。そしたら、何時になるかはわからないけど、必ず来てくれるって言って…」
「そうか。またあの男に借りが増えそうだな」
フッと笑い、ノワールは食事を続ける。
「あの男への依頼料は遙かに高いはずだがね。さて、誰が払うのだろう?」
澄ました言い方に井沢は「ええーっ」という顔になる。
「電話では依頼料なんて話、出なかったけど?やっぱり払わないとダメかな?」
「さあな…あいつの機嫌次第だろう」
ジョークのつもりだったのだが、井沢が真面目に受け取ってしまった様子が可笑しかったらしく、ノワールは歯を見せて笑った。
そんな彼を見て、井沢は少しドキリとなる。
綺麗で、優しくて、強くて、頭も良くて……
何でもできるような人が、自分の前ではこんなにも無防備に笑ってくれている。
時々感じていたことだが、井沢にとってノワールという人物は、普通に考えれば手の届かない存在のはずだった。
偶然に出会って、惹かれ合って、恋に落ちて……そして今も一緒にいる。
一緒にいられることの、強烈な安心感。
(こんなに素敵な人がおれのそばで笑ってくれてる)
知らず知らずのうちに、自分まで笑顔になっていく。
(だから、この人を傷つけるなんて絶対に許さない……おれが守るんだ…!)
井沢はテーブルに置いた手を握りしめ、かすかに震わせた。
昼食後、ノワールは警部や警部補、そして警備員のリーダーたちとリビングで捜査状況について話をすることになった。
井沢は同席せず、食堂でアレクと待つことにした。
スマホにはまだハリーからの連絡は無い。パリを出られたらまた連絡をくれると言っていたのに…と残念そうに息をついた。せめてノワールの帰宅を伝えたかったが、何度かけても圏外のままだった。
そこへクラレンスが顔を出した。
メイドたちを離れに避難させたため、ついさっきまでノワールらの飲み物を給仕していたのだった。
そして新たなトレーにコーヒーの入ったカップを2つ載せている。井沢とアレクの分だ。
「ご一緒してもよろしいですか?」
かすかに笑む彼に、井沢はぽかんとなる。クラレンスは2人の前にカップを置きながら言う。
「こんな時でないと、できませんから。ノワール様の許可は取ってありますのでご心配なく」
「あっ、うん!どうぞ!」
井沢は弾かれたように立ち上がり、クラレンスに席を示した。
アレクも少し不思議そうな顔をしている。
「珍しいですね、クラレンスさんが自分からそう言うなんて」
アレクの言葉に、クラレンスは小さく頷き、困惑しているように小首をかしげた。
「1人でいると、悪いことばかり考えてしまって…不安なのです」
「悪い…こと?」
井沢はコーヒーを飲む手を止め、訊いた。
席に着いたクラレンスは息をつき、目を細める。
「おそらく警部の方から、ノワール様にも伝えていただいているでしょうが…先程アレクさんが訊いてきたことは、実は私の父に関することなのです」
「えっ?お父さんのこと…?」
「はい。数日前から行方不明に、なっていることが判明した、と」
午前中に井沢が耳にした言葉、『Verschwunden』。
それが、実はクラレンスの父のことだった。思いも寄らなかった言葉に息を呑む井沢とアレク。
「仕事の都合もあり、私は家族と滅多に連絡を取りません。というのも、私の父も執事を務めているので、緊急時以外の連絡はしてはいけないのです」
「……」
「母は既に病気で他界しているので、実家というものはありません。父と2人で別々の家に住み込んで従事する生活でした。それが…最近になって、1週間ほど家に戻りたいと言って休みをもらったそうなんです」
井沢は身を乗り出し、訊いた。
「家に戻るって…実家が無いのに?」
「そうです、私もそこがおかしいと思いました」
クラレンスは重々しく頷くと、気を落ち着かせるためかテーブルの上で両手の指を組ませた。
「警部によると、父は今年の春頃から新しいお屋敷で働き始めたそうです。父が従事していた家の主は『親族に絡む急用ができた』とだけ聞かされた…と。しかし我が家の親族は全員イギリスにいて、縁遠い状態になっていまして……」
英国出身のクラレンスだが、幼い頃に両親とともにフランスとドイツの国境に近い街に移り住んだという。その街で父親はとある名家の執事を長年務めたとのことだった。
「父の話が事実ならば、親族のいるイギリスに行ったと考えるのが普通だと思います。警部さんからもそう言われ、親族の連絡先を何件か伝えたのですが…そのどこにも訪れていないと…」
「そうだったんだ……クラレンスさんのお父さん、いったいどこへ行ってしまったんだろう…?」
井沢の呟く声にクラレンスが言葉を続けようとした時、警部補が呼びに来た。
「クラレンスさん、警部がお呼びです。事情聴取書類の作成を始めたいので、ご協力をお願いします」
「わかりました。すぐに行きます」
クラレンスは椅子から立ち上がり、井沢とアレクに会釈した。
「わたくしごとで申し訳ありません。ノワール様の方が大変な状況だというのに…失礼します」
紫色の瞳に翳りが浮かんでいた。
彼が去った後、アレクはなんともいえないといった表情で、
「自分の父親が行方不明で、その上、自分の雇い主にまで危険が迫ってるなんて状況じゃあ、クラレンスさんも神経がそうとう疲弊するだろうな…」
「うん…警察も動いてるんだし、何とか解決してくれればいいんだけど」
井沢もクラレンスの話を思い出しながら、どうにもできない歯痒さを感じていた。
と、そこへ今度はノワールが現れた。
「どうしたの?」
イザワの問いかけに、ノワールは言う。
「今、ロンデール・タイヒの屋敷からリックが来たのだが…」
「え?リックさんが?」
井沢は驚いたような顔になった。
電話ならまだしも、直接ここへ訪ねてくるのは奇妙だった。
「事前に連絡きてた?」
「さきほど電話があった。急を要するので直接会いたいと…」
そして食堂内を見回した。
「クラレンスはどうした?一緒では?」
「クラレンスさんなら、警部補と一緒に警部の元へ行かれましたよ。お父さんの件で事情聴取書を作るからと」
アレクが答えると、ノワールは息をついて困惑顔になった。
執務室にはいなかったのだが…と呟き、井沢に向き直った。
「イザワ、リックにコーヒーを淹れてくれないか。書斎まで頼みたい」
「うん、いいよ!」
「すまないな。昔から、私がやろうとするとリックに怒られるのでね」
苦笑を浮かべるノワール。本家執事のリヒャルトからすれば、屋敷の主が来客に給仕するなどもってのほかなのだろう。
次にアレクに向かって言う。
「アレク、君は車の手配を頼む。リックはタクシーを飛ばしてきたそうだから、帰りは送ってやってくれ」
「わかりました。すぐに用意して、玄関前で待機します」
3人はそれぞれのすべきことに向かう。
アレクは玄関を出てガレージへ。
井沢はコーヒーを淹れに厨房へ。
そしてノワールは2階の書斎へ。
午後4時。
夕陽が少しずつ西に傾き始めた時刻だった。
「ノワール様、突然の訪問で誠に申し訳ございません」
書斎に通されるなり、リヒャルトは深々と頭を下げた。
顔を上げてくれと伝えて、ノワールは席を勧める。2人は書斎の中央にあるローテーブルを囲む長椅子に腰を下ろした。
「それで、要件は何だ?」
「実は…」
リヒャルトは胸ポケットに手を入れて、取り出したものを手渡す。
「…手紙?」
差出人の名前も無い封書だった。怪訝そうな顔に変わるノワールに、リヒャルトは重々しく頷く。
「2日ほど前に私宛に届いたものです。しかしあまりに内容が突飛でして、現実と結びつかないと思いました」
ノワールは真っ白な封筒を開き、中からそれよりも少し質の劣る便箋…というよりもメモのような紙を出した。
急いで走り書きをしたような文字が並んでいた。一部は水に濡れたようで、滲んでいる。
『赤き月が満ちる夜
銀の鍵は沈黙する
第七の扉を開けてはならぬ
クラレンスには伝えるな
──H.』
読むノワールの眉間に皺が寄る。
「リック、これは…何かの暗号か?」
リヒャルトを見、彼はそう尋ねた。
「差出人は、クラレンスの父親であるヒューイー・アシュフォードで間違いありません」
ノワールは一瞬眉をピクリと動かす。
クラレンスの父親が行方不明だということは、リヒャルトにはまだ伝えていない。
このタイミングで手紙が来たということは……
「何故、そう断言できる?」
「第一にクラレンスの名が入ってることと、第二にHという頭文字。…そして、この一見意味不明な羅列でしかない不可解な文章は、ヒューイーが昔から使用していた詩文形式の暗号なのです」
「詩文形式?」
聞いたことのない言葉だった。
リヒャルトは目を伏せ、
「言葉遊びのようなものです。自分たち執事にしか解らないように、詩的な文を連ねる。ヒューイーからこれを教わったのは、私がまだマクファイヤー邸の執事となる以前のことでした」
「……」
ノワールはもう一度手紙に目を落とす。
リヒャルトによると、若き日の彼はクラレンスの父親ヒューイーと同じ屋敷で執務していたことがあったという。
歳が10ほど上のヒューイーは主執事として、そしてリヒャルトは実務の経験がなく、その屋敷で見習いから始めたそうだ。
「私はそこで数年間だけ務めました。見習いからやがて副執事になるまでの間、ヒューイーには徹底的に『執事としての哲学』を教え込まれ、勉強いたしました。その際に符号の使い方も教わったのです」
「…符号とは、この暗号のような文章だな?いったいこれはどういう意味なのだ?」
そこへ、ノックの音がして井沢がコーヒーを運んできた。
「どうぞ」と声をかけ、ノワールはリヒャルトに目配せをする。いったん会話を止めようという合図だ。
「失礼します。リックさん、いらっしゃいませ」
入ってきた井沢は頭をぺこりと下げ、書斎のローテーブルにカップやスプーン、シュガーポットの載ったトレーをそっと置いた。
リヒャルトとはロンドンから最近ハンブルクへ戻ってきた際に会ったばかりだ。最初の頃と変わりなく、ノワールを支えようとする井沢の健気さに彼は感銘を受け、とても喜んでいた。
「ありがとうございます。イザワ様もこちらの生活にだいぶ慣れましたか?ドイツ語もお上手になられましたね」
微笑んでリヒャルトにそう言われ、井沢は恥ずかしそうに頷いてみせた。
「ありがとう、イザワ。あとはこちらでやるからいい」
ノワールはそれだけ言い、リヒャルトにコーヒーを勧める。
急な訪問、そして『直接』でなければいけない理由…
とても気になったが、井沢にも部屋の空気感がどことなく重苦しいのが伝わったようだ。すぐにお辞儀をして、書斎を立ち去っていった。
ノワールが続きを、と促すとリヒャルトはまた口を開いた。
「これは特定の言葉が『場所』や『人物』などを示すコードになっています」
そう言い、ノワールから手紙を受け取って指で文字を追う。
「『赤き月』とは、危険な夜を。『銀の鍵』とは屋敷にとって重要な帳簿を。…そして『第七の扉』とはおそらく帳簿の在処を表すのではないかと…」
ノワールは低く呟くように、
「つまり、危険が迫る夜には帳簿のある場所を開けるなと…そしてそのことをクラレンスには知らせるな…?」
メッセージの意味を解読したはいいが、まったく意図が掴めない。
危険?帳簿?いったい何のことだ?
ノワールは紫紺の瞳を細める。
「赤き月の夜が危険な夜という意味ならば、それはいつだ?」
焦燥するノワールに、リヒャルトは一瞬の間を置き、低い声で言い切った。
「『危険な夜』…すなわち、今夜のことではないかと思うのです」




