第6章 協力者たち
アレクはリビングを去った後、しばらく戻らなかった。
井沢はポケットからスマホを取り出し、不安げに画面を見遣った。
その瞬間。
「えっ!?」
あまりにタイミング良く電話がかかってきて、井沢は飛び上がらんばかりに驚いた。
「ノワール?」
電話の相手はノワールだった。
今の今まで行方不明になったのではと心配していた彼からの連絡で、井沢は思わず声が震えた。
「ノワール?だ…大丈夫?」
『こちらは問題ない。そっちはどうだ?何か変わったことは?』
「…う、ん。特には…」
優しいが、緊張感が混じる声にやはり普段とは違うのだと感じる。
「良かった…無事で本部にいるんだね。何時頃に戻れそう?」
『先方の都合で少し早めに終わりそうだ。この後もう少しだけ議論を詰めて…11時半には終わるだろう』
その言葉に、井沢は思わず時計を見る。
まだ10時……あと1時間半も……。
息をつき、ドキドキする胸を押さえながら井沢は言った。
「おれ、待ってるから。本部を出る時はまた電話して。絶対だよ?」
『わかった。ではまた後で』
短い通話が終わり、井沢は深い息をついた。
(無事だった…良かった……)
このまま何も起こらないでほしいと強く願っていた井沢の所に、アレクが戻ってきた。
「今、ノワールから連絡があったよ。11時半過ぎには本部を出られるみたい」
「本当かい?良かった、ひとまず安心だね」
「うん。そういえば、クラレンスさんに話を聞けた?」
話題を振ると、アレクは肩をすくめて息をついた。首を横に振って、
「プライバシーに関わることだから、って断られたよ。警部にもあまり騒ぎ立てないように言われたらしい」
「そっか……」
簡単には話してくれないだろうな、とは思っていたが、案の定だったようだ。
「とにかく、ノワール様が何ともないようで良かったね、リョウ」
アレクの言葉に、うんと頷いてみせる。
そこに、新たな着信が入った。
画面を見た瞬間、井沢は慌てて通話ボタンを押した。
「ハリー?」
『おう、イザワ!悪いな、遅れちまった』
昨日から連絡をしていたハリーが、パリに着いたことを知らせてきたのだ。
少し遅かったので不安だったが、ハリーはいつもと変わらない調子で話してくる。
『んで、状況は?』
「今、ノワールから連絡があって…」
予想できる帰宅の時刻などを伝えると、ハリーは低く唸った。
『パリには着いたんだがな、エミールにヤボ用が出来たとかで、合流できなくなってる。それ済んでから飛行機で向かったとしても、早くても7時過ぎ…か』
夜に襲撃、というだけでは何時頃なのかまったくわからない。ハリーの到着を待たずして、ノワールに危険が迫ることも十分に考えられた。
「ごめん、ハリーだって忙しいのに」
『いいってことよ。まあそんなに心配すんな、イザワ。警備も倍に増やして警察も来てるんだろ?』
いつものように明るい声で、ハリーは元気づけるように言った。
『大丈夫だ!何があろうと、俺が絶対に行ってやる!』
強めの声でそう言われ、井沢は思わずじわっと涙ぐんでしまった。
「うん…うん、ありがと、ハリー」
『あ?泣いてんのか?おいおい、これからあいつが帰ってくるってのに、泣きべそかいてたらダメだろうが』
鼻をすする音で分かってしまったらしい。笑いを含んだ声でハリーが続ける。
『ヴェネツィアのジーさんも全面的に協力してくれっからよ。新しく情報が入ったらすぐに知らせてくれるし、その前におれが悪いヤツをコテンパンに絞めてる展開を期待しとけ?』
「うん…うん」
井沢は、ハリーが来てくれるという希望だけでも胸が一杯になる。
過去にノワールが敵の奇襲を受けて倒れたのは2度あった。だが、その時にはいつもハリーが助けに来てくれた。こんなに心強い兄貴のような知り合いがいることに、井沢は今更ながらに感謝する。
泣いていても何にもならない。気丈にならなくてはと思い直した。
「おれも強くなる。ならなきゃダメだよね!」
『おう!その意気だ!じゃあ、また後でな!』
通話を終え、井沢が涙を袖で拭っていると、窓際に立っていたアレクが振り返った。茶色の目を和ませながら、
「ハリーさんが来るんなら、あれだな、日本語の…『鬼に金棒』ってやつ?安心してられるね、リョウ」
笑顔で言われ、井沢はつられて笑った。
アレクの傍に歩み寄ると、庭先を警備している何人かの警官や屋敷専属のガードマンたちの姿が見えた。
これだけの人がノワールを心配し、守ってくれようとしている…
井沢はついさっき、ハリーに言った言葉をもう一度自分に言い聞かせる。
(おれも強くなる。ノワールのためにも、ならなきゃダメなんだ!)
一方その頃、ヴェネツィアに住むロッセーリの元には奇怪な情報が流れてきていた。
「ジャン・ジャック・オベール?ストラスブールでかつて繁栄していた貴族のオベール家か?」
通話先は信頼できる情報屋だったが、あまりに突然舞い込んできたのでロッセーリも俄には信じられずにいた。
『そう、半年前に不正蓄財によって崩壊したオベール家だ。最近になって帳簿の行方を躍起になって探しているという噂でね』
「…帳簿を管理していたのは当主ではないのか?」
『オベール家に長らく仕えていた執事が、秘密の帳簿を管理していたそうだ』
「……」
『ところがオベール家の崩壊直後から、帳簿が消えてしまった。厳重に管理していた金庫に入れてあったはずのものが、だ。金庫を開けられる者はごくわずかに限られていた。当主に妻、2人の息子たちの他に、執事だ』
ロッセーリは眉間に皺を寄せる。
没落貴族の話など特段珍しいものではない。経営状況の悪化、株価の暴落、浪費癖のある親族がいれば簡単に起こりうる。
「しかしオベール家の当主というと…もう90近い高齢であったと記憶しているがのう。老い先短い男が今になって、過去の帳簿に書かれたであろう不正記述に未練でも出てきたか?」
『その不正がオベール家の家名をも覆すほどのものだとすれば?』
ロッセーリの琥珀色の瞳がきらりと光った。
「爵位の剥奪を恐れた家族が、帳簿を探しているということかの」
『その通り。その情報が漏れれば一族の子孫繁栄も望めず、社会的にも抹殺されるような秘密が書かれているとなれば…それはもう躍起になって探すだろう』
「妻も息子2人も必死じゃろうな」
ホッホッと笑い、ロッセーリは電話の相手に言った。
「彼らの行方は掴めておるのか?」
『そこなのだ、ロッセーリ。我々の難儀している点は、彼らの足跡が途絶えてしまったということ。住んでいた家はもぬけの殻。次にやることは、おそらく執事の居場所を突き止めるか、或いは…』
一瞬の間を置き、相手は低い声で言う。
『その執事を襲撃し、帳簿の強奪または居場所を吐かせようとするか、だ』
「ふうむ…」
あり得る話だろう、と頷くロッセーリ。
家族だけではなく、帳簿と執事の捜索に他人を雇っていることも十分に考えられる。
仮にそれがプロの者たちだとすれば、少々手こずることになる。
「没落貴族に、そんな人間を雇う余裕があるかどうかわからんが…それなら次に行うべきは、執事の居場所を彼らよりも先に掴むということじゃな?」
『頼む。こちらも手を尽くしている。新しく情報が入り次第、随時連絡する』
「厄介そうじゃが、やってみようかの。なあに、礼は良い酒を贈ってくれれば良いぞ」
ロッセーリは深く皺の刻まれた目尻にさらに皺を寄せて笑って言った。
他ならぬ旧友の頼みじゃからの、と続け、通話を終えた。
(…とは言ったものの、さて、今使える駒が近くにいたじゃろうか?)
ロッセーリの脳裏に浮かぶ顔は、どれも任務中だ。彼らは凄腕のエージェントとして、日夜世界各国を飛び回っている。
「ん…?」
ふと、思いついた顔があった。
昨日ヴェネツィアを離れたばかりの、騒々しい男の顔だった。
(確かパリに行くと言っていたが…そうなるとエミールの所にも顔を出すつもりじゃな?奴め…エミールをあまり巻き込むなと口うるさく言っておるのに)
チッと舌打ちし、彼に連絡すべく再び電話を手に取った。
相手が出た途端、ロッセーリは開口一番に言う。
「今どこに居るんじゃ?ハリー。パリでのんきに遊んどる暇なぞないぞ!」
『ああ?誰がのんきに遊んでるって?』
嫌みを言われたハリーは早口で応じる。
『俺は忙しいんだ!これからハンブルクに行こうってのに、エミールのバカが高速道路の渋滞に巻き込まれたとかでまだ帰ってこねえんだ!駐車場の手配を頼んでおいたってのによ!』
「何でお前がハンブルクに行くんじゃ?パリでしばらくゆっくりすると言っていたはずじゃろう?だからワシはお前に『応援』を頼まなかったんじゃが?」
ハンブルク、と聞いて嫌な予感が走ったが、ロッセーリは確かめるように聞いてみた。
するとハリーは「くそジジイ!」とぼやきつつ返した。
『イザワに頼まれたんだよ!あんたがもっと早くノワールのことを教えてくれりゃ良かったんだ!これじゃ着くのは夜中になっちまう』
『イザワ』の名前を聞き、ロッセーリの脳裏にノワールの所にいる少年が浮かんだ。まだ会ったことはないが、井沢という少年がノワールと恋愛関係にあることは知っていた。
「その子がお前に直接連絡してきたのか?ほう…金も払えんような子供からの依頼を受けるなんて、まったくもってお前らしくないのう」
ニヤリと笑って言うと、ハリーはバツが悪そうに返す。
『ノワールからならまだしも、イザワから金なんて取るかよ。そんなんじゃねえ。あいつの不安を少しでも消してやりてえだけだ』
「随分と優しくなったもんじゃ。イザワという子はお前を変えるほどの逸材なんじゃな」
皮肉を効かせて言うロッセーリ。
ハリーはフッと鼻先で笑ってみせ、
『あの悪魔みてえに冷酷だったノワールをも変えたとはいえ、ごく普通の高校生だぜ?ジーさんも会えば解るかもな』
ハハハッと高笑いし、
『そういうわけで、俺は非常に忙しいんだ。襲撃犯の新情報が入ったらまた知らせてくれ、じゃあな!』
早口でまくしたて、ハリーは一方的に通話を切ってしまった。
ロッセーリは旧友からの奇怪な情報の調査をハリーに依頼しようとしていたのだが、残念な結果に終わってため息をついた。
『ジーさんも会えば解るかもな』
先程聞いた言葉が脳裏をよぎる。
書類棚に歩み寄り、彼は一冊の薄いファイルを取り出した。以前ノワールからの依頼で調査した内容などが書かれた書類が挟んであった。
その中から1枚の写真入りの書類を手に取り、まじまじと眺める。
(リョウ・イザワ…か)
ハリーには秘密にしてあるが、会ったことはなくとも、既に調査済みだった。
去年の秋頃に撮った写真には、日本の学生服を着たひとりの高校生が写っている。鞄を持ち、友人と帰宅中のようだ。はにかむような笑顔で、まだあどけなさも感じられる。
こんな少年が、ノワールを変えるとは予想だにしなかった。
(いずれにせよ、この子が弱点にならねば良いがの……)
ノワールの、あるいはハリーの……
そう考え、ロッセーリはそっと書類をまた元に戻した。
窓に歩み寄り、運河を滑るように通り過ぎていくゴンドラを眺める。
恋人同士が楽しそうに話しながら、細い小路を歩いていく。
(仕方ない。愛し合う気持ちには誰も歯止めをかけられんからのう)
やれやれといった表情で嘆き、彼は目尻を下げて苦笑を浮かべていた。




