第5章 不穏な一日の始まり
翌朝、屋敷内には昨日とはまるで違うピリピリした空気が漂っていた。
それもしかたあるまい。早朝から敷地内を警備する人数が倍になり、庭や玄関前には警察犬を連れた警察官が警備にあたっているのだから。
屋敷の中にも警部や警部補といった上官レベルの人物が入り、ノワールやクラレンスとリビングで捜査の計画などを相談するなど緊張感が耐えない状況だ。
井沢は、朝起きてから忙しそうに動き回るノワールの姿を心配そうに見ていた。
(ホントに大丈夫だよね…?)
不安で朝食もほとんど喉を通らなかった。
やがて、ノワールが身支度を整えるために2階に上がった。少し遅れて井沢も階段を上がり、寝室へ向かう。
「……」
ドアの前に立つと、中からノワールの低めの呟き声が聞こえてきた。
「…今日も戦場だ」
ああ、また言ってる、と井沢は苦笑した。
その台詞は、ロンドンで一緒に暮らし始めた頃からのものだった。
おそらくはもっと前から言っていたのだろうが、井沢が初めて聞いたときは正直いって驚いた。
『え…?ノワールってそういうことも言うんだ……意外』
そんなふうに思って、ドアの陰でクスクス笑ってしまった。
『わ、笑っちゃいけないんだけど…でもちょっと無理…』
困ったような顔で笑いを必死で堪えた。
だが、セミロングのプラチナブロンドをひとつにゆるめに結び、耳周りを軽くタイトに仕上げながらのノワールの台詞には、職場という戦場に向かう意気込みも感じられた。
『気合い入れてるんだろうな…やっぱりノワール、カッコいいな』
結び終わったノワールの後ろ姿を見て、改めてそんなふうに思った。
『…イザワ?』
ふと気づくと、ノワールが井沢を振り返って見ていた。
『今の…見ていたのか?』
なんとも言えない表情だった。
だが自分ではおかしなことを言ったとはまったく思っていなかったようで、苦笑いする井沢を怪訝そうに見つめた。
井沢は慌ててフォローする気持ちで笑顔を見せながら、
『大人の男って感じで、すごくカッコよかったよ!』
と手放しで褒めた。
するとノワールは少し笑い、
『昔見た刑事映画の中で、主人公が言っていた台詞なんだ。毎朝の支度の時に口にすると身が引き締まる思いになる』
それを聞き、井沢は大きく頷いてみせる。そしてくるりと後ろを向き、小声で
『そういうとこだよ…もうホント、ずるいんだから』
惚れ直しちゃうじゃないか、と言いそうになってしまう。
初めの頃とは違い、一緒に住み始めるとノワールには余裕のある大人の男の格好良さだけではなく、何にも流されず真っ直ぐな純粋さが見て取れるようになった。
井沢から見れば時に世間知らずのような言動を取るノワール。だがかえってカッコいいと思うし、その『ズレ』がまたなんとも言えない愛おしさに繋がるのだった。
「いつまでそこにいるんだ?イザワ」
不意に呼ばれて井沢はドキリとなる。
いつの間にかドアを細めに開け、ノワールが顔を覗かせていた。
「き、気づいてた?」
「当然だ。誰か来たと思ったら、ドアの前で止まってなかなか入ってこない。クラレンスやメイドならすぐにノックするだろうからな」
ふっと笑い、ノワールは言った。
完全な仕事モードの髪ではなく、ゆるめに結んでいる。堅い感じは見受けられず、清潔感もあり、彼らしい余裕を残す髪型で井沢も気に入っていた。
すでに着替え終わっていたノワールは、書斎に置いてあるアタッシュケースを取りに行こうとドアを開けたようだ。
「あっ、ノワール、ちょっと待って」
井沢が何かに気づいたように声を上げた。
「ネクタイ、ちよっとだけ曲がってる」
「そうか?」
「うん、直すから少しじっとしてて」
軽く手を添え、井沢は丁寧にネクタイを直しはじめる。
ノワールはそんな井沢をじっと見つめていた。
真剣な表情で襟元に触れてくる井沢が、いつも以上に愛しく思えた。
ふと、井沢の目線がノワールと合う。
「あ、れっ?…ちょっと待って」
とたんに顔が赤くなり、焦りだしてしまった。
(えーっ…うまく直そうと思ったのに、こんな近くでじーっと見つめられたら)
照れてしまって、なかなか進まない。
ノワールは微笑みをたやさず、そんな井沢から目を離さないままだ。
「君に触れてもらえる朝は最高だな」
そんなことを小声で囁かれ、井沢はますます手元が狂ってしまった。
「もう、変なこと言わないでったら!」
困った様子になり、真っ赤な顔でノワールをジロッと睨む。ノワールは微笑みを返し、
「別におかしなことは言っていないつもりだが…」
「……あっ、はいっ!できた、完成!」
ようやく直し終えた井沢が嬉しそうに声を上げたとたん、ノワールはたまらなくなって彼を抱きしめた。
「わっ…せっかく直したのにまた曲がっちゃ…」
「……」
無言で抱きしめてくるノワールに、井沢は何も言えなくなった。
普段のハグとは少し違う……と瞬時に分かったからだ。
「……必ず帰るから。君の元に、私は必ず帰ってくる」
低く呟くノワールの声が心地良かった。
「だから、君もきちんと食事を摂ってほしい。特殊な状況下だが、いつも通りの元気な君でいてほしいんだ」
「…ノワール……」
朝食をほとんど摂らなかった井沢のことを、彼は心配していたのだろう。
気まずそうに井沢は言う。
「ごめん…1番大変なのはノワールなのに、心配させちゃって…」
目が合うと、ノワールはとても優しい表情で見つめてくる。
井沢の黒髪を愛しげに撫で、「行ってくる」と囁いて軽く口づけた。井沢も少し背伸びをして応じた。
「ノワールが出かけたら、ちゃんとご飯食べるよ。留守番もおとなしくしてる。…だから、絶対無事に帰ってきて」
「ああ。君のことはアレクとクラレンスに頼んである。警備は万全を期しているが、くれぐれも外には出ないでくれ」
「わかった」
そのまま連れ立って書斎に行き、鞄を持って階下へ向かう。玄関にはいつも通りにクラレンスやメイドたちが並び、外にはアレクが配車していた。
「行ってくる。クラレンス、くれぐれも頼むぞ」
「かしこまりました。ノワール様、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
ノワールはドアを出る前に一度振り返り、立っている井沢に軽く手を挙げた。そして続いてアレクに顔を寄せる。
「イザワを頼んだぞ、アレク。ロンドンでお前に格闘術を学ばせた意味はわかっているな?」
「承知しております、ノワール様。この身に代えても、リョウをお守りします」
アレクの緊張した、しかし真摯な表情を見つめ、ノワールは頷いて車に乗り込んだ。
(…大丈夫だよね?ノワール、無事に帰ってきて…!)
発進していく車を心配そうに見つめながら、井沢はしばらくの間そこに佇んでいた。
遅い朝食を摂った後、井沢はアレクと共にリビングで過ごすことにした。
クラレンスは警部たちと屋敷内外の人員配置について詳しい話を詰めている。
「リョウ、平気だよ。ノワール様はあんなに華麗で、しかもとてもお強いんだ。以前、俺が習いたての武術を練習したくてノワール様に相手になっていただいたが、まるで歯が立たなかったよ。身のこなしが段違いで、キレがものすごかった」
アレクがロンドンにいた時の逸話を聞かせると、井沢も少し笑顔になった。
「そんなこともあったね。おれも遠目に見てたよ。ノワールはいつもは上品なのに、激しい動きもキレッキレでさ」
「そうさ!だからまったく心配ないよ」
その言葉に頷く井沢。
銃の扱いにも慣れ、近距離の格闘も強く、そして敵には容赦しないノワール。
だから大丈夫だろう…
そう信じてはいるのだが……
今夜の襲撃犯は一人なのか、複数なのかはわかっていない。しかし直前まで『ヴェネツィア』の情報網にすら引っかからなかったことを考えると、どうにも組織的なものを感じる。
「……」
気になって時計ばかり見てしまう。
午前9時半を少し過ぎたぐらいだ。ノワールは午前中に来客に応対すると言っていた。身元の確かな相手だと言っていたが、本当にそうだろうか?
(ダメだ…情報が少なすぎて、何でもかんでも疑ってかかっちゃう……)
大きく息をつく井沢。そんな彼を見ていたアレクが微笑んで言う。
「リョウとノワール様は本当にお互いを想い合っているんだな」
「…うん。おれにとっては、あの人は命の恩人だから。だから…もしもあの人が危険に晒されそうになったら、その時は…」
井沢は気丈な様子になり、続ける。
「身を挺してでも、あの人を守るつもりだよ」
井沢は立ち上がり、2階の自室へ行くと告げてリビングを出て行った。
井沢は自室に置きっぱなしにしてあったスマートフォンを取り、また階段を下りていく。
(…あれから着信無し、かあ……忙しいのかな、あちこち廻って仕事してるって言ってたし)
画面を見ながら肩をすくめた。
昨夜通話が繋がり、電話の相手はパリに向かっていると言っていた。移動中で詳しいことは聞けなかったが、こちらで起こりそうな事件のことは伝えてある。ひとまずパリに着いたら連絡をくれると言ったが、未だ着信は無い。
仕方なくリビングに戻りかけた時、玄関に近いクラレンスの執務室前で、彼と警部が立ち話しているのを見かけた。
クラレンスは少し動揺しているようなそぶりを見せ、普段の落ち着きなど消え失せたようだった。警部は彼を落ち着かせようと声をかけている。
ドイツ語だったが、習い始めて間もない井沢の耳にもハッキリと聞こえた単語があった。
『Verschwunden』
聞いたことがないが、妙に耳に残る。
しかもクラレンスの様子を見るに、彼に関する人物の話をしていたと考えるのが普通だ。
すぐにリビングへ行き、コーヒーを飲んでいたアレクに声をかける。
「アレク、Verschwundenって言葉の意味は何だっけ?」
急な問いかけにアレクは怪訝そうな表情に変わる。
「リョウ…それってどういう?」
「今そこでクラレンスさんと警部さんが話してて、唐突にVerschwundenって単語が聞こえたんだ。それで気になって」
「Verschwunden……行方不明って意味だよ」
アレクは声のトーンを抑えて言う。
「急に姿を消したとか、忽然と消えたって意味だ。何かあったのか…?」
「行方不明…?だからあんなに動揺していたのかな……でも、いったい誰が行方不明に…?」
言いかけた井沢は途端に不安に駆られてしまう。
「まさか…ノワールじゃ……」
「違う。ノワール様のことだとしたら、まっ先にリョウに連絡が来るだろう?」
「それは…だ、だけど…」
小刻みに震えだし、井沢は落ち着かない様子に変わった。
ノワールのことならば、クラレンスがあれほど動揺していたのも理解できる。
だが、それでは本当に……?
「落ち着いて、リョウ。行方不明がノワール様だとしたら、警察よりも先に本部からの連絡が直接入るはずだ。ここにいた限りでは、どこの電話も鳴っていない」
アレクは井沢の背中を優しく摩りながら、安心させるように言う。
「待っていて。俺がクラレンスさんに聞いてこよう」
そう言ってアレクはリビングを去った。
ひとり残された井沢は震えが止まらず、自分で自分を抱きしめながらノワールの無事をひたすら祈り続けた。




