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第4章 負けない気持ち

 その日の夕食では井沢はほとんど無言だった。

 恥ずかしさと、飛びつきを期待して帰ってきたノワールに申し訳ない気持ちが混濁する。

 ノワールは井沢の様子も気にはしていたが、それよりも何か考え事があったようで彼も口数は少なかった。



 食事を終えたノワールは、1人で書斎に入っていく。

 スマートフォンを胸ポケットから取り出し、ある番号にかけた。

「昼間聞いた情報は本当に間違いないのか?」

 開口一番、低い声でそう尋ねる。

 相手はそうとう高齢のようだ。しわがれた、くぐもったような声で返す。

『昨日掴んだばかりで、まだ詳細は不明じゃがな。明晩に決行とのことじゃ。気を付けたまえよ、シニョーレ・マクファイヤー』

「……」

 眉間に皺を寄せるノワール。

 情報源は確かだとすると、狙いは何なのか?

 ロンドンからハンブルクに戻ったばかりの自分の情報など、すでに公にされている。しかし、相手の狙いがわからないうちは下手な動きはできない。

『念のために『応援』は要請する予定だがの、警戒は怠りなさんな。追って詳細をメールで送ろう』

「了解した。警戒しておこう」

 短い通話を切り、ノワールはふっと息をついた。

(明日の夜…か……)

 厄介な話だと言いたげに肩をすくめる。

 自分だけならいざ知らず、ここには井沢もいる。万が一にも彼を危険な目に遭わせることになれば……

(それだけは絶対に避けなければ)

 グッと拳を握りしめた。紫紺の瞳に強い意思の光がきらめく。

 しかし井沢に話すべきか、迷っていた。

 彼なら何でも話してほしいと言うに違いないのだから……


 書斎でメールチェックを済ませた後、ノワールは井沢を探しにいった。

 自室にも寝室にもいない。探し回る彼の耳に、バスルームからぶつぶつ呟くような声が聞こえてきた。

「……?」

 少しだけ開いたドアの隙間から中を窺う。

 声の主は井沢だった。とても真剣な表情である言葉を繰り返して、鏡に向かって練習でもしているように見えた。

「…愛してる、愛してる…」

「……」

 それを知ったノワールは、そっとその場を離れた。

 昨日から様子が変だと思ったが、そういうことだったのか、と理解した。

 井沢は、照れて言えない言葉を鏡に向かって一生懸命に練習していたのだ。

 もしかすると今朝の慌てぶりも、練習の最中にノワールが声を掛け、結果的に邪魔してしまったのか……

(あまりに純粋すぎるな……)

 そういうところに惹かれてしまったのだがな、と少し口元をほころばせながら、ノワールは寝室へ向かった。



 しばらくすると井沢が寝室へ入ってきた。

「イザワ、話がある」

 ノワールは井沢に椅子を勧めた。

「大事な話だ。君にも知っておいてもらいたい」

「え、なに?」

 怪訝そうな井沢に、ノワールは続けた。

「昼間ヴェネツィアから連絡があった。明日の晩、私を襲撃するという情報を確認したと…な」

「えっ!?」

 突拍子もない話に、井沢はとても驚いた。サッと顔色を変える。

「明朝から敷地内の警備を倍の人数にする。君も窮屈かと思うが、明日の外出は控えてほしい」

 ノワールの言葉にさらに不安な顔つきになる井沢。

「なんで…いったい誰がノワールを?」

「それはわからん。こんなことは度々あった。事故死した兄の代わりに後継者になったと公表された時も、マスコミのパパラッチはもちろんだが、酷い時は殺害予告なども受けたことがある。大抵はネットに書き込むだけの、実行力の無い犯行で終わっていたがな」

「ええっ?ホントに!?」

 初めて聞く話だった。もしかしたら自分が知らないだけで、似たようなことがあったのでは…?とますます心配になった。

「ああ。ただ今回はガセではない。ロッセーリの情報網は常にスピーディーで確実だ。今後は随時連絡をくれる手筈になっているから、警察当局と相談していく予定でいる」

 職業柄、こんなことは昔から慣れているといった淡々とした言い方。

 ロンドンではそんなことは無かったので、すっかり安心していた井沢だった。

 考えてみれば、ロンドンに行った時のノワールは後継者の地位を一度放棄していたのだ。一社員であった彼を付け狙う者は稀かもしれない。

 井沢は頷き、

「わかった…家から出ないよ。もちろんあなたもだよね?」

「それが…」

 言い淀むノワールを見て、ドキンとなる井沢。

「午前中にどうしても外せない来客があるので、出社しなければならない」

「ええっ?」

「既に会長には連絡済みだ。こちらの警備を強化する手筈を整えてくれた。だから心配はないだろうが……」

「だ、ダメだよっ!絶対に出かけちゃダメっ!」

 井沢は悲痛な声を振り絞って叫ぶ。襲撃するという意味は命を狙われていると考えていいだろう。そんな時の外出など、わざわざ無防備になるようなものだ。

 ノワールはふっと苦笑する。

「君は反対すると思ったよ。だが以前の時のような過ちは冒したくない。だから敢えて伝えたのだ」

「以前の…って…」

 井沢にも思い当たることがあった。

 昨冬にハイランドに行った際、ノワールは井沢に本当のことを告げずに1人で身勝手な行動を起こした。そのことを井沢は本気で怒り、自分がどれほど心配しているのか、どうして話してくれなかったのかと問い詰めたのだった。

 以来、ノワールは猛省し、二度と繰り返さないよう誓った。

 井沢は頭を振り、

「話してくれたのは嬉しいけどさ…でもやっぱり危険だよ!その来客だって、もしかしたら罠かもしれないじゃないか」

「それはない。相手の身元はしっかりしているのでね。とにかく私が会わないことには取引が終わらない」

「でも…!」

「終わったらすぐに帰ってくる。昼からは料理人やメイド達も離れに避難してもらい、アレクにもできるだけ君についていてもらおう」

 不安でたまらない様子の井沢に、ノワールはスッと歩み寄る。震える頬に手を当て、落ち着かせるように言った。

「だから、心配するな。こんなことには私は慣れている。君に迷惑をかけてしまうことはすまないと思うが…」

「な、慣れてるって…そんな危険な…」

「大丈夫だ。いざとなれば、私も自分の身を守ることはできる」

 人を撃つことはしなくとも、防御は可能だと諭すノワール。

 それはわかる。井沢とて今までの彼を見てきているのだし、彼が銃の扱いに慣れているのは知っている。

 それに対して、自分自身は何ができるのか……前からそれを考えてはいるが、技量も策も何もない。歯痒い思いだった。

 せめてノワールが外出しなくていい方法はないかと考えるが、ノワールは頑なに首を縦に振らない。

「……やだよ」

 ふいに井沢はノワールにしがみついた。

「嫌だ…あなたがいなくなったら嫌だよっ」

 泣いているのか、細い体を震わせてギュッとしがみついてくる。

 ノワールはそんな井沢を安心させるように、少し強く抱きしめた。

「あなたが倒れるのを、もう見たくない!前に刺された時もそうだし、ハイランドで撃たれて血だらけで倒れてたのを見た時も……生きた心地がしなかったのに」

 井沢の声はだんだん泣き声に変わっていく。ノワールは少年の背中を何度も優しく撫でてやった。

「私は、君の前からいなくなったりしない。君の元に必ず帰ってくる。…だから私を信じてくれ…イザワ」

 ノワールはそう言って、井沢の泣き濡れた頬にそっと唇を滑らせる。

「愛している」

「……」

「愛しているよ…」

「……」

 井沢が、その言葉の繰り返しでようやく泣き止んだ。

 うん、と小さく頷き、さらにギュッと抱きついた。

「おれも好き…大好きだから……絶対におれを置いてったりしないで」

「ああ、勿論だ。……それよりも」

「えっ…?」

 ノワールはこんな時ですら井沢から「愛してる」と言ってほしいと伝えるが、

「い、今?こんな時にまで?」

「ダメか?」

「…ダメじゃないけど……えー…」

 井沢はまだ照れて言いづらいようだ。

 ノワールは小さく息をつき、

「…君に愛してもらえていないのは辛いな…私はこんなに君を大事に想っているのに」

「えっ、だ、大事には思ってるってば!あ…えっと…」

 焦った井沢だが、練習の成果を出すべく決意した。

 ここでちゃんと言って、ノワールを安心させなきゃ!という気持ちからだった。

「……あ、愛してる……よ」

 しかしその声は蚊の鳴くような声で、恥ずかしそうに下を向いて言ったので、ノワールには聞こえなかったようだ。

「よく聞こえなかったのだが…もう一度言ってくれないか?」

 意地悪く促すノワール。

「バスルームで鏡に向かってあれほど上手に練習してただろう?」

 それを聞いた瞬間、井沢の顔がバーッと赤くなってしまった。

「な、何で知ってるんだよ!?」

「聞こえてきたからね。今朝と、ついさっき」

「~~~~!」

 思わず顔を押さえ、身を引きかける井沢。だがノワールはそれを許さず、しっかりと抱き留めたままだ。

「……もしかして、さっきのもわざと言わせようとした?そうだろ?」

 微笑んでいるノワールにおそるおそる聞いてみる。

「さあ…ね」

「絶対わざとだ!こんな…危険が迫ってるって時に!」

 照れと怒りで唇をワナワナ振るわせながら、井沢は傍にあったクッションを手に取るとノワールの胸に勢いよくボスッ!と投げ込んだ。バレていたことで、そうとうパニックになっているらしい。

「もう絶対に言わないっ!そんな作戦に引っかからないよっ!」

 思いも寄らぬ強めの反撃に、ノワールは手を挙げて苦笑するしかなかった。

「作戦とは思っていなかったが」

「うそっ!ひどいよノワール!」

 井沢はジト目になって言った。

「明日は無事で帰ってこないと承知しないからね!」

 それを聞き、ノワールはもちろんだと言いたげに笑いかける。

「面と向かって君が愛してると言ってくれるようになるまでは、簡単には死ねないさ」

「……だっ、だからそれは…!」

 井沢は真っ赤になって、はあ~っと大きなため息をつく。

 冗談か本気かわからないようなことをすんなり言ってしまうのがノワールだ。

 思えば彼は少し常識がズレていることがあった。頭脳明晰で回転も早いのに、言葉に迷いがなさ過ぎてストレートにぶつけてくる。周囲の流行に流されず、自分の言葉や行動に美学すら感じることも。

 まっすぐと言えばまっすぐだが、井沢から見ると『もしかして天然…?』と思うこともしばしばなのだった。

 もちろんそんなことを面と向かって言えないので、井沢は時々「今の言葉って、ジョークかなあ?」と悩んだりしてしまう。

 井沢は立ち上がり、

「と、とにかく明日はホントに気を付けてね!」

 とだけ言い残して寝室から出て行った。



 優しくて…甘くて……

 照れるほどの言葉もサラッと伝えてくるノワール。

 大好きで……どうしようもなくなるぐらい大好きで……

 負けないぐらい愛してる………


 井沢は自室に入り、机に置いてあったスマートフォンを手に取った。


(そんな大事な人が危険な目に遭うなんて絶対に嫌だ)


 その強い思いが、とある人物へと連絡させたのだった。


「もしもし?井沢だけど……今どこにいる?」


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