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第3章 アレクとクラレンス

 その日の昼間、井沢は新学期に向けての買い物へ出かけた。

 まだ地理やドイツ語にも不慣れな彼を、運転手のアレクがサポートしてくれた。

「そういえば、ノワール様は何故リョウのことをファーストネームで呼ばないんだろう?」

 買い物をしていた時、不思議そうにアレクは尋ねた。

 井沢は「えっ?」と返事したが、その後に続ける言葉が浮かばない。

「うーん…会ったときからイザワって呼ばれてたから、あんまり考えたことがないなあ」

「初めはそうでも、長く付き合っていれば変わるもんじゃないのかい?」

 アレクは首をかしげながら聞く。

 井沢は「さあ…」と言いかけたが、

「ノワールがおれを呼ぶ響きが好きなんだ。なんていうか…『イザワ』って呼んでくれる声の低さとか?」

 照れくさそうに頭をかいて、井沢はそう言った。

「そのうち変わるかもしれないね。でも、変わらなくても別にいいや」

 笑顔で言う井沢に、アレクもつられて笑った。

「今度ノワール様を『ハニー』とか『ダーリン』って呼んでみたらどうだい?きっとビックリするよ!」

「そ、それは……ちょっと無理かなあ」

 困惑してまた照れる。

 急にそんな呼び方をしたら、ノワールが驚くだろう。そして、誰がおかしな提案をしたのかと問い詰めてくるに違いない。

「アレク、それはさ…バレたら減給されちゃうかもしれないよ?」

 苦笑する井沢に、アレクは「それは大変だ」と呟いて大笑いしてみせた。



 井沢が家に戻ったところ、クラレンスに声をかけられた。

「リョウ様、お帰りなさいませ」

「う、うん…ただいま」

 慣れないそぶりで応じる井沢。

 クラレンスは少し心配そうな表情で、

「何かございましたか?」

「い、いえ……あのぅ、執事さんって、まだ慣れなくて」

 そう言うと、クラレンスは理解したように頷く。

「いつでも、どんな些細なことでも良いので頼りにして頂ければと思います」

「は…はい。ありがとうございます!」

 真顔のクラレンスは、「失礼します」とうやうやしく会釈をして踵を返そうとした。が、それを井沢が呼び止めた。

「あ、あのっ」

「何でしょう?」

「一緒にお茶しませんかっ?」

「……」

 ふいに出てきた言葉に、井沢自身が慌ててしまう。

 昨夜、主と執事は食事を共に摂らないことをノワールから聞かされたばかりだ。

 なのにそれに反するようなことを言ってしまった。

 ノワールが知ったら、おそらく良い顔はしないだろう。

「……お気持ちはとてもありがたいのですが…」

 クラレンスは真面目な表情で考え込んでいたが、やがて切り出した。

「お茶を用意し、給仕するのは当然ですが、残念ながら同席して飲むことはできません」

「やっぱり、執事さんだから?」

「平たく言えばそうですね。ノワール様にも強く言われておりますので」

「…そう、なんだ…」

 とても残念そうに言う井沢の気持ちをくみ取ったのか、クラレンスは少しだけ表情を和らげる。

「後ほどお部屋にお飲み物をお持ちいたします。コーヒー、紅茶…何かご希望はございますか?」

「んー…じゃあ、紅茶をリビングで飲みます。なんでもいいので、クラレンスさんと話したいんです」

「わかりました。ではリビングでと言うことで、承知しました」

 それを聞き、ホッとした顔に変わる井沢。クラレンスは会釈し、厨房の方へと歩いていった。



 買い物した荷物を自室に置いた後、井沢はそわそわしながらリビングへ向かった。

 相手を立場的に困らせるようなことはしたくなかった。ノワールの教えにも反抗する気持ちはなかった。

 ただ……自分の身の回りの人とゆっくり話がしたかった。特にノワールと自分についてどんなふうに思っているのか、それが一番気になった。

 リビングではクラレンスが既にティーポットとカップを用意していた。

「どうぞ。本日は英国から取り寄せたウィッターズ・オブ・チェルシーのキャラメル味のフレーバーティーをお淹れしました」

 つい先週までロンドンに住んでいた井沢にとっては、もう飲めないかと思っていた味なので思わず顔がほころんだ。

「ありがとう!おれ、このキャラメル風味がすごく気に入ってたんです。でもお土産に買うのを忘れちゃって…」

 残念そうにそう言うと、クラレンスは目を和ませた。

「はい、ノワール様からご連絡を受けて、急遽お取り寄せいたしました」

「ノワールが?…そっかあ、さすがだなあ」

 感嘆の息をもらし、井沢は早速カップに入った紅茶の香りを嗅いだ。

「これ、この匂い!やっぱりすごくいいなあ」

 すっかり機嫌良くなってしまった。

 ふと気づくと、クラレンスは一歩引いた所に立っている。

「あのう…変なこと聞いてもいいですか?」

 そう切り出した井沢。

「何でしょうか」

「ノワールとおれのことなんだけど…」

 少し言いにくそうに話し出す井沢に、クラレンスは真摯に耳を傾けてくれた。

「どんなふうに聞いてるかなって…」

「……」

 質問の意図を深く考えているのだろうか、クラレンスはしばし無言だった。

 心配そうに見守る井沢に対し、彼はようやく口を開いた。

「表向きはリョウ様の留学中のホームステイ先、と伺いました。それは間違いではないと仰いつつ、ノワール様はこう続けられました」

「……」

「ご自分の、とてもとても大切な人だと。ご自分を窮地から救い、人生で何が一番大事なのかを教えてくれた人だと。だから、愛情だけでなく、敬意と感謝をもって一緒に住むのだ…と」

 それを聞き、井沢は息を呑む。

「いろいろな考えがあるし、いろいろな偏見もあるだろうことは百も承知で私に聞かれました。おふたりが恋人として付き合っていることをどうしても認められないのであれば…主として敬えないのであれば、私を雇えないと仰いました」

 彼がきちんと理解をしてくれていることに、井沢は胸が熱くなった。

 クラレンスは普段の真面目な表情を少し和らげて言う。

「ご安心を。私だけでなく、この家の者たちは皆、納得した上で雇われております。高貴な方や地位の高いお立場の方はそのようなことをお隠しになる場合が多いのですが、ノワール様は初めからきちんと話して下さいました。尊敬に値する、素晴らしい方です」

「……ありがとう」

 井沢にはそれだけ言うのがやっとだった。胸がいっぱいになり、何と続ければいいかわからなかった。

 クラレンスの口元に優しい微笑みが浮かんでいる。

「そんなノワール様がお連れになったリョウ様も、素晴らしい方に違いないと思って、お目にかかることを本当に楽しみにしておりました」

「そんな…おれなんか……」

 謙遜しそうになる井沢を、首を振ってクラレンスが遮る。

「先程、一緒にお茶をと誘っていただけた時、実はとても嬉しかったのですよ。これは、ノワール様にはご内密に」

 口元で指を立て、ふふっと笑いかけるクラレンス。

 初めて彼の笑顔を見た井沢は、一瞬ぽかんとしてしまった。が、すぐにつられて笑い出した。

「良かった!クラレンスさんを困らせたんじゃないかって心配だったんだ」

「そんなことはありません。ただ規律を重んじるノワール様ですし、あの方に反するようなことはしたくなかったのです。信頼して下さる方の思いを裏切るなどできませんので」

「そうだったんだ…ありがとう。聞いてよかった」

 改めてクラレンスに礼を伝える。

 井沢は、いつか本当にクラレンスとお茶を一緒にできるといいなと思った。

 そして、ノワールの強い思いや優しさ、温かい気持ちを感じてまた愛しさが募った。

 紅茶を飲み干すと、すかさずクラレンスが続けて2杯目を入れ直してくれた。

 甘いキャラメル風味の紅茶がほんのり温かく喉を通り、心まで温かくなった。



 夕陽が傾き、そろそろ屋敷内が忙しない様子になりつつあった。

 夕食の用意、そしてやがて帰宅する主人のノワールを出迎える準備で皆がきびきびと動いている。

 自室の片付けをあらかた終えた井沢は、階段を下りてそんな様子を眺めていた。

「すごいなあ…」

 思わず呟いてしまう。

 リッセンではほぼノワールと2人暮らしだったし、ロンドンではそれより広い家に住んでいたが執事はおらず、運転手のアレクと身の回りの世話をするメイドが2人ほどの小規模な環境だったからだ。

 映画やドラマの中でしか見たことのない光景に、井沢は驚きを隠せない。

 ふと気づくと、外から車のエンジン音が聞こえてきた。玄関前で止まったようで、井沢は小窓から外を覗く。

「ノワールだ!」

 とたんに笑顔になった。

 執事によって玄関が開けられ、車から下りてくるノワールの姿が見えた。

「お帰りなさいませ、ノワール様」

 規則正しく並んでいたメイドが一斉に頭を垂れ、ノワールを迎える。

 今までなら井沢も飛び出して、ノワールに抱きついて「おかえり!」と言っていたが、執事やメイド達の手前、なかなかそうもいかない。

 玄関前のライトに照らされ、うっすら赤味が射す夕暮れを背にノワールは家に入ってきた。

 アタッシュケースを執事に預けると、二言ほど会話を交わす。何か変わったことがなかったかを聞いている様子だ。

 そして、首を巡らせ井沢の姿を見つけた。

「イザワ、ただいま」

 それまでと違い、一気に柔らかい微笑みに変わる。

 背後に並んだままのメイド達を意識してしまい、一歩も動けなかった井沢。そんな空気をおかまいなしに、ノワールは一歩で距離をスッと詰め、井沢をふわっと抱きしめた。

「ちょ…ちょっと、ノワール…!人がこんなにいる前で…!」

 焦る井沢をよそに、ノワールは抱きしめたままの格好で真顔になった。

「……?何か問題があるか?」

「だ、だって…」

 井沢は皆見てるよ、と呟く。彼らの後ろではメイド達が「まあ愛らしい」などと言ってクスクス笑っていた。

 ノワールは少し首をかしげ、残念そうな声で、

「私が帰ったら、君が飛びついて迎えてくれるものだと思っていたんだがな」

「え、ええ~……」

 真っ赤になる井沢に、ノワールは苦笑する。

「……も、もお~~!」

 恥ずかしさでいても立ってもいられなくなる。井沢は顔を隠しながらサッとノワールから離れるやいなや、階段を走って上っていった。

 ノワールはそんな様子を眺め、一言ぼそっと呟く。

「…本当に、変わらないな」

 そして、心から嬉しそうな微笑みを浮かべた。


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