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第2章 変わらないこと

 井沢はその日の夕食時、食堂で料理人やメイドの紹介を受けた。

 料理人は去年リッセンにいた頃と同じ人物で、味付けなどが懐かしく感じられた。

 庭師や厨房などの使用人を除くと、主たるメイドは3人。個々に世話をしてくれるというよりは、掃除や洗濯、配膳などの仕事がメインのようだ。

 執事のクラレンスは玄関脇の執務室で仕事中とのことで、不在だった。

「クラレンスさんは来ないんだ?」

 怪訝そうな井沢の声に、ノワールは尋ねた。

「何故?」

「アレクとは一緒に食事したりしてたから…つい、気になっちゃって。そっか、執事さんは違うんだっけ」

 まだまだ執事というものに慣れないようだ。ノワールは苦笑する。

「主と執事が一緒にテーブルにつくことはない。主がどうぞと勧めても、だ。執事の方が遠慮して身を引くのは『仕事』だから当然のことだろう」

「そっかあ…」

「ロンデール・タイヒのリックも同様だ。実を言うと、クラレンスはリックが推薦してくれたのだ」

「えっ、リックさんが?」

「ああ。クラレンスの父も長年執事を務めるベテランで、それを見て育った彼ならば十分私の役にたってくれる、と太鼓判を押してくれた」

「へえ…親子二代で執事さんなんて、すごいんだなあ」

 感心しきりの井沢。

 リックはパリにいた頃からマクファイヤー家に長年勤める、60代の執事リヒャルトのことだ。ハンブルクのロンデール・タイヒに越してからも相変わらずの敏腕で本宅をまとめている。ノワールを幼少時から知っている数少ない人物の一人だった。

 その彼が勧めてくれたのならば、家を任せるに相応しい力量の持ち主なのだろう。

「まあ、執事にとっては公私の切り替えは難しいだろう。その辺はアレクも同じだ。いくら親しくとも、仕事であることに変わりはない。アレクの場合、君に敬語を使わせるのは窮屈だと思うので、そこは見逃すことにした」

 ノワールは淡々と話し、食事を続ける。

 ロンドンに行ったばかりの頃の井沢にとって、アレクは数少ない知り合いだった。運転手と家庭教師が主な仕事ではあったが、時には公園でサッカーのパス練習などにも付き合ってくれたこともある。井沢の試合にも毎回応援に来てくれて、親しい友達といってもいいほどの関係だった。

 そんな関係を一枚の壁が仕切るようなことになってしまう?…と井沢は少し不安になってしまう。

「あとさ、おれの学校なんだけど…始まるのって9月から?」

 心配そうに聞く。

 ノワールは顔を上げ、安心させるように微笑む。

「待ちきれないようだな。君も早くこちらの環境に慣れたいだろう。次の土曜に手続きをしに学校へ行くので、楽しみにしておきたまえ」

「うん、わかった」

 不安が少し薄れたようで、井沢は食事の手を進める。ノワールはそんな様子をじっと見つめていたが、思いついたように口を切った。

「明日からは私も出勤するが…君はまだ夏休みだ。街へ出てもいいし、新学期に備えての買い物もいいだろう。心配ならアレクに同行してもらいたまえ」

「うん」

 短く返す井沢に、ノワールは続ける。

「君が寂しがらないように、なるべく早く帰るようにするよ」

「えっ…も、もう……相変わらず心配性だなあノワールは」

 井沢は照れたように言って笑う。

 環境が変わることに対して不安を感じないように…との思いがちゃんと伝わってくる。ノワールもロンドン支部から久方ぶりにハンブルク本部へ戻るのだから、変化があることに違いはないのに…



「あれ、ノワール?」

 シャワーを浴び終わった井沢が寝室へ行ったが、ノワールの姿はそこになかった。

 昼間「寝室か書斎ぐらいしか使わないだろう」と言っていたのを思い出して書斎に顔を出すと、彼はソファに深く腰を下ろして考え事をしている様子だった。

「ノワール?まだ寝ないの?」

「…ああ、もうこんな時間か」

「どうしたの?何か考え事?」

 パソコンが閉じたままなので仕事ではないようだが、気になった井沢はつい尋ねる。

 ノワールは首を横に振り、ゆっくり立ち上がる。

「たいしたことではない。そうだな、そろそろ寝よう」

 そして井沢に歩み寄り、洗いたての髪の毛にそっと触れた。

「本当に綺麗な色だ。そしてとても良い香りがする」

「えっ…ノ、ノワールだって同じシャンプー使ってるんだから同じ香りじゃないかぁ…っ」

 真っ赤になって身を引こうとする井沢。その体を一瞬早くノワールが抱きしめた。

「イザワ……愛している」

 耳元で囁かれ、井沢の顔はますます赤くなった。抱きしめられたまま、鼓動がどんどん速く高鳴っていく。

「……君は?」

 優しい声で井沢からの返事を促すノワール。井沢は困ったように「えっと…」とか「その…」などと繰り返した。

 もちろん、自分も愛してると言いたい。

 その気持ちに変わりはないし、何なら会ったばかりの頃よりもどんどん惹かれていっているのだから。

 けれど、どうしても面と向かって言えない。気恥ずかしさと葛藤が邪魔をする。

(そんな言われたら…おれだって言いたいキモチはあるけどさあ…)

(なんでこう、サラッと言えちゃうんだろう……この人)

 チラッと盗み見ると、ノワールの紫紺の瞳と視線が合った。さらにドキッとなる井沢を続けて困らせる一言が。

「未だに躊躇う理由がわからないな。君は言ってくれないのか?」

「だって…恥ずかしくてさ……」

「恥ずかしい、か」

 ふむ、と口元に手を当ててしばらく考えていたが、ノワールは何か思いついたようで突然井沢を抱き上げた。

「え、えっ?ちょ…ノワール!?」

 まだ真っ赤な顔で慌てだす井沢を、そのまま寝室へ連れ込んだ。

 井沢をベッドにそっと下ろし、ノワールは覆い被さるようにしてキスを求めた。

「……ま、待ってよ…!明日から仕事だよ?もう寝なきゃ…」

「気遣いは嬉しいがね。夢中になれば、恥ずかしい気持ちも消えるのではないか?」

 ノワールは笑いながら、からかうように顔中にキスの雨を降らせた。

「…も、もぉ……!」

 慌てながらも井沢は抗う様子はない。戸惑いつつも、次第に口づけに溺れていく。

 一度火がついたら止められない。ノワールも、そして井沢も熱い息づかいを続けながら、シーツの波に深く沈む。

「愛している……」

 またノワールが囁く。ぼうっとした井沢の口から、ようやく言葉がこぼれた。

「……好きだ…よ」

 それが精一杯だった。

 変わらないな、とノワールは思う。

 恋に落ちてから、ずっとそうだった。

 ストレートに愛情を口に出せるノワールと違い、井沢は照れてどうしても言えない。

 だが口にせずとも、優しく見つめる黒い瞳や温かくかけられる言葉、そして純粋なままの心が井沢の愛情をきちんと伝えてくる。

 ノワールはそんな井沢を責めたりせず、より愛しいと思うのだった。

「君のそういうところが可愛いと思う」

 そう囁き、さらに濃厚な口づけを求めた。



 翌朝、井沢はぼんやりとバスルームの鏡を見ていた。

(……)

 井沢の心の中で、また流された、という少し悔しい気持ちと……深いノワールの愛情を感じたことでとても安心する気持ちが葛藤する。

(おれだってこんなに愛してる…んだけど……)

 どうしても言えないことに、大きなため息をついてしまった。

(でも、これじゃダメだよな!)

 鏡に映る真っ赤な顔をした自分に向かい、一大決心する井沢。

 真剣な表情で、ぶつぶつと呟き始める。

「あ、い、し、て、る…」

 単語のように一つずつ。

 短く区切って、ぎこちなく、ゆっくりと。

「あ、い…してる……あい、して…る」

 何度も、何度も呟く。

「愛してる…愛してる……愛してる」

 ようやくさらりと言えるようになってきた時、

「イザワ?ここにいたのか」

 扉を開けて、身支度を終えたスーツ姿のノワールが顔を覗かせた。

 瞬間、飛び上がりそうになる井沢。

「う、わあっ!?」

 慌てすぎて傍の棚に手をぶつけてしまった。

「い、いてっ…!」

「大丈夫か?いったいどうしたんだ」

 心配そうな顔に変わるノワールに対し、井沢はぶつけた手をさすりながら苦笑いを返す。

「だ、大丈夫……!あ、あの…っ、何でもないっ!」

 その場からいそいそと逃げ出してしまった。

「……」

 一人残されたノワールは唖然としたまま、自室に飛び込む井沢の姿を見送った。

 が、やがて小さくクスッと笑いをこぼす。

(本当に変わらないな……)

 初めて会った頃から。

 初めて気持ちを伝え合った頃から。

 何も………

 満足そうにノワールは微笑む。それから井沢の部屋のドアを軽くノックして、

「仕事に行ってくる。見送ってくれないか?」

「え、あっ、もう時間?」

 焦って部屋から出てきた井沢の顔はまだ真っ赤だった。

 階下に降り、ノワールに笑いかける。

「き…気をつけて。行ってらっしゃい」

「ああ。君も、残りの休みを楽しんで」

 玄関ホールに執事とメイドが並んで立っている中で、ノワールは挨拶として井沢の頬に軽く口づけた。

 また真っ赤になった井沢から離れ、ノワールは執事によって開けられた扉の外へ出て階段を下りていく。

「行ってらっしゃいませ、ノワール様」

 皆が言う中、井沢ももう一度「行ってらっしゃい」と呟いて手を振った。

 ノワールは彼らに軽く手を挙げて応える。待っていたアレクに頷きかけ、車のドアを開けて運転席に滑り込んだ。

「イザワを頼んだぞ、アレク……そしてクラレンスもな」

 厳しい表情で二人にそう告げると、車を発進させた。

 車が門から出て行くまで、井沢はポーチに佇んで見送っていた。


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