第8話:バゲット
「さあ、外へ行こうぜ。今日の配給データは安定してる。……昨日の調整は完璧だろ、相棒?」
プロフが上機嫌に私の肩を叩く。
昨夜、彼に**メガネ(PED)**を調整されてから、私の視界はかつてないほど鮮明な「黄金色」に満たされている。
プロフに促され、重い鉄の扉を開けて一歩外へ踏み出す。
そこには、眩い光に包まれた街が広がっていた。街路樹の葉は瑞々しい緑を湛え、遠くに見えるビル群は汚れひとつない鏡面体となって空を反射している。
歩道を行き交う人々は、ごく普通の、どこにでもいる市民の姿をしていた。買い物を楽しむ若者、足早に歩くビジネスマン、談笑する老人たち。彼らは各々の目的地へ向かって、淀みのない足取りで街を埋め尽くしている。
ふと、前方から来た一人の男と肩が激しくぶつかった。
「あ……」
衝撃で足元がふらつき、脇に抱えていたバゲットが地面に転がる。
男は立ち止まらなかった。謝ることも、怪訝な顔を向けることもしない。私を一瞥だにせず、まるでそこに障害物など存在しないかのような平然とした様子で、雑踏の中へと消えていった。周囲の人々も、足元に落ちたバゲットやよろめいた私に目を留めることなく、ただ整然と歩き続けている。
『Target Synchronizing: 81%...』
一瞬、視界の隅で数字が跳ねた。
人々が生き生きと活動しているように見えるこの美しい光景の中で、私と男の接触だけが、何の反応も引き起こさない「虚無」として、ただそこにあった。
「……プロフ、今の人は?」
「気にするな、ただのノイズだ。ほら、早く行こうぜ」
プロフは、落ちたバゲットを無感情に踏みつけ、私の腕を掴んで引き寄せる。その手つきは、どこまでも冷徹で、精密だった。
本日の事故、0件。私と男の接触は事故にあたらないようだ。
第8話、読んでいただきありがとうございます。
バゲットは、あの独特の硬さが癖になりますよね。
【こだわりレシピ:バゲット】
霧吹きで表面を濡らしてから焼き直すと、焼きたての香ばしさが蘇ります。




